認知症の質問を受けつけます。

 横浜市青葉区にあります緑協和病院の成川と申します。これからは皆さま方の貴重なご意見を拝聴しながら、認知症の治療に取り組んで行きたいと考えておりますので、よろしくお願い申し上げます。

 先ず認知症と昨今言われている概念ですが、大雑把に言えば、脳血管性認知症(VD)と、これまで老人性認知症と言われていた病状は次のように分類されています。つまり、アルツハイマー型認知症(ATD)、ピック病もしくは前頭側頭型認知症(FTD)、さらにレビー小体型認知症(DLB)と言われているものに大別されます。
これからも時代の進展とともに認知症の病型はさらに細分化されていくと思いますが、現時点では上記の病型分類で事は足りると思います。診断と治療法は未だ十分には確立されてはおらず、専門医の間でも、かなり意見は別れています。それでも私たち臨床医は学会文献にのみ、とらわれず日々の診療を通じて、その指針とすべきものは患者さまの訴えや、ご家族さまの介護苦労や時に医療不信にも出来る限り何かしらの道しるべを一緒に見出せないものかと考えて、このBlogを立ち上げました。

 それでは、これからBlogで頻回に使われる用語の説明をします。

(1) アルツハイマーのピック化
アルツハイマー型認知症にピック病 (前頭側頭型認知症)の合併した病状で物忘れが中核症状のアルツハイマーに加え、暴言妄想が中核のピック病が合併した症状をピック化と言います。
(2) アルツハイマーのレビー化
アルツハイマー型認知症にレビー小体型認知症が合併した病状で、物忘れに加え幻覚やうつ症状さらにパーキンソン症状が付け加わった病状です。
(3) レビー・ピックコンプレックス
レビー小体型認知症にピック病の合併した病状で暴言妄想に加えパーキンソ症状さらに薬剤過敏症状(風邪薬でもアレルギー症状が強く出る、これがレビー小体型認知症の特徴の一つ)や睡眠障害(REM睡眠障害)等が見られる病状です。
(4) その他
脳血管障害にアルツハイマーの合併や、脳血管障害にピック病もしくはレビー小体型認知症の合併とか、ともかく一口に認知症と言っても、その病型は複雑多岐にわたり私たち臨床医を悩ませているのです。
 
 以上、簡単な説明ではありますが、より詳細な事はご質問にて承ります。
それでは皆さま方のご質問、アドバイス、その他叱責等も多数頂けます事を希望して止みません。

これまでに寄せられたご質問をまとめております。
左のカテゴリよりご覧下さい。



☆こちらに記載されていた脳内ホルモン性格テストは、脳内ホルモンのカテゴリに入っています。


ご質問と回答


診察室からコンニチハ


断章(日々の思い)に続く


哀しみの果てに


想い出は風の彼方に


霜月の夕暮れ


認知症詩集


美しい老後を迎えるには

断章(27)

(27)日々の思い
昭和の時代を考える(その20)
【朝鮮戦争による日本への影響】
*日本の再軍備化への示唆
韓国への米軍支援部隊は当時、日本に駐留していた約7万5000人を即時参戦させた。アメリカ軍はすでに韓国からほぼ撤退しており、韓国内には僅かな数の軍事顧問しか存在せず、朝鮮戦争の勃発では日本での駐留軍を派遣するしかなかった。
そうなると、どうなるか?
日本は戦後GHQによって徹底的に非軍事化を進められていたため、旧日本軍はすでに解体されており、軍事的には空白状態になっていた。
その状況を知ったソ連が東アジアでの勢力を拡大するために日本へ侵攻して来るのではないかと云う事を、アメリカは恐れた。
そこで、アメリカは日本政府の吉田首相に対して、「National Police Reserve」≒「警察予備隊」の設置を命令した(形式上は「許可」)。
朝鮮戦争勃発の翌月の50年7月、マッカーサーは日本政府に対して7万5000人の警察予備隊の結成を指令した。憲法9条に違反する実質的な軍隊が、改憲を経ずにポツダム政令によって創設されたことは注目に値する。先ず警察予備隊は、朝鮮に出兵する米軍の空白を埋めることを直接の目的とし、兵器や装備は米軍によって供給され、訓練も米軍が実施した。訓練を担当したアメリカの大佐は「小さいアメリカ軍」と呼んだ。警察予備隊は52年10月には保安隊に、54年7月には自衛隊に改組され、再軍備が進んだ。
*朝鮮特需
朝鮮特需とは、「朝鮮戦争」によって必要となった在朝鮮アメリカ軍および在日アメリカ軍から日本に対して発注された物資やサービス全般のことを言う。
朝鮮戦争勃発直後の1950年8月25日には横浜に在日兵站司令部が設置され、主にアメリカ軍から日本企業に直接発注する「直接調達方式」により大量の物資が買い付けられた。その総額は1950年から1952年までの3年間に10億ドルとも言われ、インフレによる不景気に喘いでいた日本経済の回復と成長に大きく貢献した。
また、アメリカ軍による直接調達のほかに、在日国連軍や外国関係機関による間接的な調達も存在し、こちらの金額は1955年までの間に36億ドルにものぼると言われている。
同時期の朝鮮特需以外の貿易による輸出総額は年間10億ドル程度であったので、朝鮮特需の規模がどれだけ大きかったかが伺いしれる。
朝鮮特需により立ち直った日本経済は、敗戦直後には生産の極度の低下と悪性インフレによって混乱を極めていたが、1949年にアメリカの特使ドッジ(デトロイト銀行頭取)によって実施された強力な引き締め策によってインフレは収束した。その一方で不況が深刻化したが、まさにその時に朝鮮戦争が起こった。鉱工業生産は50年後半から急上昇に転じ、同年平均でも、前年比22%増、51年は35%増、52年は10%増、53年には22%増と高成長を続け、51年には戦前の水準を回復した。実質でみたGNP(国民総生産)や個人消費も、総額で51年度には戦前水準を超え、53年には一人あたりで戦前の水準を突破した。
1951(昭和26)年9月8日 : サンフランシスコ平和条約締結→連合国による占領が終結、日本は主権回復を成し遂げたが「日本の戦争賠償と戦後補償」と云う大きな問題が残っていた。
次回に続く

ミナガワさんへの回答

81歳のお母様の入院前の症状は、レビー小体型認知症に伴う「ウツ症状」ではないかと思われます。恐らくレビー小体型認知症に伴う多彩な病状で、特養では対応が困難になって来たのでしょう。入院先の病院で、どの様な薬が使用されたのかは分かりませんが、服用上の問題は当然のごとく考えられます。レビー小体型認知症の最大の問題は、薬剤過敏症状です。少量の薬を慎重に使用するのが原則です。安易な薬の投与は副作用ばかりが多く、患者さんの精神症状も悪化させます。「お薬手帳」を見れば、どの様な薬が使用されたかは直ぐに分かります。よろしければ「お薬手帳」の中身を教えて下さい。その情報により、もう少し適切なアドバイスが出来るかもしれません。認知症患者さんへの最大の対応方法は、薬ではなく人間同士の信頼関係の構築から始まります。そして生活習慣の改善と、脳トレです。もちろん脳トレをやってもらうのには相当の根気が必要とはなります。先ずご参考までに…
【ご質問】
こんにちは。81歳の母親の事で質問です。今要介護5で、認知症、特養にいます。不安愁訴が強く、大きな声を出す、一日中死への不安を訴える為、3か月程近くの病院へ入院させました。入院後半頃より、能面様、一点を見詰めた状態が続く、声の元気が無くなる等の様子が見れました。現在は退院していますが、入院以前に比べ、明らかに廃人の様になり、介助がないとご飯も食べられなくなり、また、私の名前も解らないようです。向精神薬も複数飲んでおり、てんかんの薬等も追加されているようです。この代わり映えが、薬の副作用なのか、認知症の進行したものなのかの判断が、つきません。他の病院へ診せた方が良いでしょうか。宜しくご解答願います。

診察室からコンニチハ(8)

では私の日常の診察風景から、ご紹介しましょう。初診の患者さんの場合は、先ずは頭部CTと長谷川式認知症スケールを受けてもらいます。過去に脳梗塞の既往があるのか、それ以外には脳萎縮の程度などもチェックさせて頂きます。もちろん正常圧水頭症の有無なども見させて頂きます。そして患者さん自身の診察となります。同時に「お薬手帳」なども拝見させて頂きます。高血圧、糖尿病、高脂血症などは言うに及ばず、甲状腺機能障害の有無、喫煙、飲酒なども調べさせて頂きながら、認知症の診断を進めて行きます。「物忘れ」の程度や幻覚、幻視、被害妄想、徘徊などのチェック項目もあります。初診ですと、どんなに急いでも30分以上はかかります。そして重要な事は患者さんとの人間関係を円滑に築いて行ける様に「声かけ」や「視線の合わせ方」にも神経を使います。高齢者の聴力障害は高音域から来ますので、出来る限り丁寧に低い口調で話す様に努めます。患者さんを急かせる様な態度は戒めるべきです。医師と患者と云うよりは、同じ人間同士の会話で診断を進めて行けるのが理想ですが、なかなか理想通りには行きません。先ず会話の糸口は、
「お名前を教えて頂いて良いですか?」
と、私から尋ねます。そして直ぐに
「私は成川と云う医師です。何かお困りの事があれば、お役に立ちたいのですが?」
と、自己紹介をします。問題は、ここからです。患者さんが、どの様な反応を示すかで病気の方向性が見えて来ます。
「名前…?それを聞いてどうする。
だいたい俺は病気なんかないんだ。医者なんかに用事はない!」
「分かりました。ともかく血圧だけでも測らせて頂けますか?」
「嫌だ、俺は帰る」
ここまでの反応が見られますと、私の頭に浮かび上がって来るのは「ピック病」です。
すでに記述しました様に、ピック病は40~60代と比較的若い世代が発症する「初老期認知症」の代表的疾患ですが、病気発症の早い時期には認知障害も認められず、何か最近は怒りぽっくなって来たなと思う程度の事もあります。しかし病状がさらに進むと、万引きや猥褻(ワイセツ)行為、さらに暴力行為などが出たりすると警察の厄介になります。警察も「ピック病」の認識がないと、そのまま留置場送りになります。こうなると、ご本人も家族も悲劇的です。たまたま、この異常事態は病気のせいではないかと家族の方が気付いて病院に相談されれば良いのですが、世間体を嫌って放置されているケースもあります。これは私の想像ですが、この様に家族からも世間からも放置された方の中にはホームレスの人たちも多分に混じっているのではないかと、考えたりもします。「ピック病」に限らず、認知障害の人たちも含めてですが…
次回に続く

断章(26)

(26)日々の思い
昭和の時代を考える(その19)
【朝鮮戦争】の続き
混乱を狙った奇襲攻撃に加え、軍事力でも圧倒的に優位な北朝鮮軍は開戦3日後の6月28日にソウルを陥落させた。指揮系統が混乱した韓国軍は漢江にかかっていた橋を避難民ごと爆破(漢江人道橋爆破事件)して、軍の士気をさらに下げる要因を作った。
これを見たアメリカは、7月4日応戦のために日本に駐留していた陸軍を投入した。しかし、想像以上に強い北朝鮮の装備にあっさりと蹴散らされ敗北、撤退の結果となった。その後も国連軍が参戦するも、韓国軍同様に敗走を続け8月には釜山(朝鮮半島最南端)まで追い詰められ、後ろは海という絶体絶命の危機に陥いる。
しかし敗走を続けていた国連軍ではあったが、GHQの最高責任者であり、国連軍総司令官となったマッカーサーが「仁川上陸作戦」を立案。仁川上陸作戦とは兵をソウル近郊の仁川に上陸させ北朝鮮の補給路を断つ作戦である。国連軍の陸軍、海軍は「郡山上陸作戦」を押していたが、マッカーサーは「仁川上陸作戦」を決断。その結果、「仁川上陸作戦」は大成功。北朝鮮の補給路を断つことが出来た。
「仁川上陸作戦」の成功を機に形勢は一気に大逆転し、9月28日にはソウルを奪還した。
その後も「祖国統一」を目指していた韓国軍の進撃は続き北緯38度線を超え、10月には北朝鮮の首都平壌を制圧。さらに北進を続け、10月下旬には北朝鮮軍は中国の国境付近まで追いつめられた。
こうして北朝鮮軍が崩壊の危機に瀕すると、金日成は先ずスターリンに本格的な軍事介入を要請した。しかし、アメリカと全面戦争をする事を嫌ったソ連に要請は断られた。そこで金日成は中華人民共和国に支援を要請。10月2日に金日成からの部隊要請の手紙が届くと、介入は不可避とし中国は参戦を決意した。中国もアメリカとの全面戦争を避けるため、中国人民解放軍を義勇軍(中華人民の自発的な参加者)」として参加させた。
中国兵は最前線だけで20万人、後方支援は100万人という圧倒的な数の兵を使って敵を圧倒する人海戦術で戦った。それは中国兵の3分の2が武器を持たず、ラッパや鐘を打ち鳴らしながら前進し、戦死した仲間の武器を拾って戦うという人道無視の作戦であった。しかしこの人海戦術が非常に効果的で、中国の参戦を想定していなかった国連軍は立て続けに敗走。1951年1月に再びソウルが陥落した。
それでも国連軍は3月14日に再びソウルを奪還した。その後、多少の動きはあったものの二年以上38度線付近で、膠着状態となってしまった。
第一線では偵察や警戒が昼夜を問わず行われ、死傷者が出ない日はなかったものの両軍ともに大規模な作戦は行われなかった。
この様な膠着状態となつて、国連軍総司令官のマッカーサーは政府の許可なしに「中国軍を徹底的にたたきつぶす」と発言し、進撃の命令をしたり、政府の意向に沿わない原子爆弾の使用を提言したりと、ソ連を巻き込んで第三次世界大戦を起こしかねない暴走が目立ち始めた。そのため、トルーマン大統領は1951年4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から解任。国連軍総司令官の後任は第10軍司令官のマシューリッジウェイ大将が着任した。その後アメリカに帰ったマッカーサーは退任演説をし退役。軍歴を閉じた。
1951年6月からソ連の提案で停戦協定が模索されたが、双方が利益を少しでも有利な条件の停戦を要求するため交渉はなかなか進展しなかった。しかし、1953年に入ってアメリカの大統領がアイゼンハワーに変わり、ソ連のスターリンが死去すると情勢は一変。38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、三年続いた朝鮮戦争はひとまず終結しした。
次回に続く

診察室からコンニチハ(7)

私の日常診察では、画像診断は認知症に関しては補助的に利用しているだけです。診療行為は患者さんに6割、ご家族に4割の態度で接しています。私たちが診察室で患者さんと向き合うのは10分程度です。しかし、その間に認知機能を見たり、その不安症状を探ったり、さらに患者家族に「認知症の理解」を深めて頂いたりしていると、10分はおろか30分ぐらいは過ぎてしまう事もまれではありません。ともかく患者家族は日頃の介護疲れから、あれもこれも話したいと願っている人ばかりです。私は出来る限り、その様な悩みに耳を傾ける様に努めていますが、人によっては一時間かけても話が終わりません。外来では未だ多くの患者さんが待っていらっしゃいます。この様な時は、後ほどメールでご説明申し上げますと言って、その場は引き上げて頂きます。
しかし、ご家族が高齢者である場合にはメールの使用経験が少なく、その様な時にはお手紙でお願いしています。
厚労省は「在宅介護」を盛んに言い立てていますが、現実には核家族化の進んだ我が国で老々介護が中心となりつつある「在宅介護」の継続は可能なのでしょうか?正に共倒れ的な家族が、私の外来でも数多く見られます。
この様な時代での生き残りは「生涯現役」を通すしか、ないのでしょう。足腰が立つ間は、出来るの限り自活する様に努力すべきでしょう。年々減額して行く年金では、医療や介護に回す費用を捻出する事は容易ではありません。「楽隠居」などと言うのは、遠い昔に忘れられた「死語」となっているのかもしれませんね。
少し話が暗くなりすぎて申し訳ありません。ともかく前向きに生きていきましょう。豊かな趣味を持って、沢山の心許せる友達を作って、常に社会貢献を忘れずに、実り多き人生を過ごしましょう。
こんな事を書くと、何を世迷いごとを言っているのだ。自分たちの子ども2人は、すでに親元を去り家にも殆ど寄りつかず、自分は毎日テレビばかり見ている生活で趣味なんかありゃしない。社会貢献って、何の事だ。今さら他人の為に働くなんて考えた事もないよ。
と言った、反論が出るかもしれませんね。確かに、そうかもしれません。
でもそれは、こころがけ次第でしょう。一人ぼっちの閉鎖された空間にいるのが好きなのか。多くの友人たちとワイワイガヤガヤ騒いでいるのが良いのかは、ご自身の性格にもよるでしょう。しかし、人間は所詮(しよせん)は社会的な動物です。ある例外を除いて、そのDNAは社会の中で生きる様に出来ているのです。ご自身の閉ざされた空間から、外に向かって思い切り窓を開けてみて下さい。自分一人で悩まずに!…もしかすると、新しい生き方が見つかるかもしれませんよ。それが認知症の予防にも通じるのではないでしょうか?
次回に続く

断章(25)

(25)日々の思い
昭和の時代を考える(その18)
1950(昭和25)年6月25日 : 朝鮮戦争勃発(1953年7月27日休戦)
朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争で、1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が中華人民共和国の毛沢東とソビエト連邦のヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した。
アメリカとソ連は1946年の1月16日から朝鮮の独立国家建設のために米ソ共同委員会を設置した。しかし、李承晩をはじめとする信託統治に反対する団体や政党を臨時政権から追い出すように主張するソ連に対し、アメリカはすべての団体を参加させることを主張した(アメリカは反信託統治と同時に反共産運動をしている団体を支持)。その結果、米ソの意見は対立して、5月6日に委員会は決裂。信託統治案は頓挫した。
1948年8月15日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言した。
一方、朝鮮の北半分では金日成を中心にしてソ連の支援を得ながら共産主義国家成立への道を歩み始めていた。同年の9月9日に金日成は朝鮮民主主義人民共和国を成立させる。これによって、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上の国境となってしまった。
しかし、朝鮮統一を目指す金日成はソ連の指導者であるスターリンに、南半部への武力侵攻の許可を求めた。だが1948年の時点で、ソ連はアメリカとの全面戦争を避けるために北朝鮮の申し出を却下した。
その一方で韓国の李承晩は、反共主義者であると同時に反日主義者でもあった。そんな李承晩はアメリカ政府に対し、対馬と竹島を日本領土から除外することを主張したが、アメリカはその要求を再三にわたって拒否した。
また1950年にアメリカのディーン・アチソン国務長官が「アメリカが責任を持つ防衛ラインはフィリピンー沖縄―日本―アリューシャン列島までとし、それ以外は責任を持たない」と発言した。この発言から推測すると、この防衛ラインに朝鮮は含まれておらず、これを聞いた金日成はアメリカが南半部を見捨てたと判断した。
このような経過で、大韓民国に攻めるチャンスだと考えた金日成はスターリンに南半部への侵攻を許可するように求めた(許可を求めるため、毛沢東が南進に積極的であることを示した)。その結果、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に侵略を容認し、軍事支援を開始した。ソ連の軍事顧問団は南侵略計画である「先制打撃計画」を立案した。これを受けて中華人民共和国を訪れた金日成は毛沢東からの中華人民共和国の支援を約束させた。
そして1950年6月25日午前4時に北緯38度を超えて北朝鮮軍の侵攻が開始された。宣戦布告は行われておらず、さらに韓国の大部分の部隊は農繁期だったため警戒を解除していた。また、前日には首都ソウルで陸軍庁舎の落成式の宴会があり、軍司令部の幹部の登庁が遅れ指揮系統は混乱に陥った。さらに李承晩が奇襲のことを知ったのは、奇襲から6時間たった後であり、絶妙なタイミングを狙った北朝鮮軍の作戦は大成功だった。その上、当時の北朝鮮と韓国の軍備の差は圧倒的に北朝鮮が優勢であった。戦車の数は北朝鮮:韓国=240 : 0/砲552門:91門/航空機221機:22機であった。
次回に続く