迷子の医者(40)

➖ 終章➖
6月10日午後4時半やっと母を病院から送り出す。妹が霊柩車に乗り込み、私の車で事務長と弟がその後を追う。
日曜の夕方は道路が混んでいる。「総合斎場」に着いたのが午後5時半。弟が私に厳命され探しただけあって、妹も私も納得した。兄妹三人と事務長とで線香を上げ、母を安置し四人一緒に病院に一度戻る。そして親戚中に電話をしまくる。浅草、千葉、大阪と兄妹三人が手分けして電話をした。
午後八時自宅に戻り、先ずは風呂に入る。そして久しぶりにビールを飲みながらの夕食。しかし、その間も大阪の親戚から電話が入ったり、葬儀屋から電話があったりで落ち着かない。
今晩は絶対に寝るんだと決意して、睡眠薬を服用して午前1時半には眠りに着く。
6月11日(月曜)
定刻通り病院に出勤するつもりでいたが、目を覚ましたのが午前9時だ。
昨晩のイビキは結婚して以来10年間で最大だと妻が言う。家中が響き渡る様な凄さだったらしい。久しぶりの虚脱感からビールの後に日本酒までかなり飲み、それに睡眠薬まで服用していたのだから、およそ医者とは言えない無茶苦茶な仕方だ。
この三ヶ月間と云うもの、殆んど人間らしい生活を送っていなかったから、それらが一気に噴き出したのだろう。
基本的に医者の生活は過酷である。
一日に3~4時間の睡眠で昼飯を食べる時間もなく病院中を走り回っているのが救急体制を敷いている病院では当たり前の事と思われていた。
しかし、それも50才ぐらいまでが限界である。当時53才だった私に取って、
この三ヶ月間の生活は相当に厳しかった。不眠不休とまでは言わないが、それに近い生活ではあった。
そんな凄いイビキでは妻も殆んど眠れなかったに違いない。それでも妻は
「少しは眠れたの」と言って、
笑みを浮かべながら私の朝食を用意してくれた。
午前10時半に出勤、常勤の医師数名と
看護婦長が院長室に来て、
「院長先生、このままどうか一週間ぐらいは休んで下さい。後は私達で何とかやりますから」と言われ、私は
「皆んなの気持ちはとても嬉しい。でも40名の受け持ち患者は私を頼って入院しているのだから、そうも言っていられない。皆んなの力を借りながら少しは休ませてもらいながら無理しない程度にやって行くから大丈夫ですよ。
でも、皆んなの気持ちは有難く受け取って置きます」
午前11時から午後1時まで入院患者の回診。患者さん方の昼食の合間を縫って遠慮しがちに回る。
午後6時から7時「母の通夜の儀式」
父の意向で喪主は私。父が無宗教を貫いているので坊主も呼ばず、線香も上げず、献花だけの通夜であった。
病院関係その他ビジネス関係の人達は一切呼ばなかった。
40名足らずの、ささやかな献花の列である。喪主である私を除けば父が第一番目に献花をすべきなのだが、
「俺は一番最後で良い」
と、言い出す。仕方なく、私の次に弟、妹そして親戚の人達が順番に献花をして行く。
そして最後に父…
「残っている花を全部くれ」
と言って、10本以上を両手で鷲掴みにして、
「お母ちゃん、さよなら!」
と、涙まじりの大声を上げた。

➖ 完 ➖
予告 : 明日からの連載小説は「小さな贈り物」が始まります。

迷子の医者(39)

6月9日(土曜)
あさくら病院での二十四日目
昨晩は妻典江の母が病院近くのホテルに泊まった。午前11時半に妻の母と成城学園の実家に向かう。父とは初対面である。妻典江と結婚して10年も経っているのに、私の父と典江の母が初対面だと云うのも随分と変な話ではある。この成城学園の実家に来るのも始めてなのだ。どちらも社会常識に馴染めない人達だから、こんな非常識が成り立つのだろう。
父は元気がなく、何時もの様な豪放磊落(ごうほうらいらく)な勢いはすっかり影をひそめ、社交辞令的な挨拶に終始していた。20分程で成城学園の実家を後にし義母と二人、あさくら病院に向かう。義母は10分程病室で、私の母を見舞うが意識のない病人の前で、それ以上いつづけるのは何とも間の悪いものである。午後2時、義母は帰って行った。今日の見舞い客は義母の一人だけだった。
昨日は親戚中が集まったが、今日は不思議に落ち着いた日だ。母の呼吸状態もぎりぎりの所で保っている。
私も午後5時には自宅に戻る。
6月10日(日曜)
あさくら病院での二十五日目
午前5時に病院から電話
「母のSPO2が測定出来ない」との報告である。
セブンイレブンで、おにぎりや飲み物を幾つか買って午前5時45分病院に着く。6時には事務長が6時半には弟と妹がやって来る。午前7時、血圧70/32、脈拍数120、SPO2は測定不可。血圧が60を割り込んだ所で成城学園に電話を入れる。午前8時だ。電話に出た父は
「もう疲れた、息が引き取ってから行く」と言って、
そのまま電話を切ってしまった。
それでも午前9時には一人でやって来た。一時間近く父は母の側に座っていたが、それ以上は我慢出来ず妹の車で成城学園に帰ってしまった。
午前11時50分、母の心臓は止まりかかっている。それでも父を送って行った妹は戻って来ない。この際父の事はどうでも良かったが、母の最期に間に合わない妹が気の毒だった。
自分の妻が後数時間で、この世と決別して逝くと云うのにそれさえも待てない父を、私は心の底で憎んだ。
その父の我が儘に付き合わされた妹の事を考えると、居ても立っても居られない。不本意ではあったが、私は胸の内で母に詫びながら妹が到着するまでと、心マッサージを始めた。
午前11時53分やっと妹が戻って来る。
私は心マッサージの手を止める。
午前11時55分
母、永眠…
私は一人で院長室に戻る。誰も入って来れない様に中から鍵をかけた。
「お母さん!…お母さん!…」
荒れ狂った様に号泣していた。
誰にも見られず、ともかく心行くまで一人泣き続けていたかった。
10分程して洗顔を済ませ、何事もなかったかの様な顔で母の死亡診断書を作成した。
さあ、これからが大変だ。
弟が予約しておいた葬儀屋が、午後一時にやって来たが、余りに鈍臭い親父風でとても頼む気にはなれない。事務長に即効キャンセルさせ、弟には
「まともな葬儀屋を探して来い!」
と、厳命する。午後三時に弟から電話
「やっと、まともな葬儀屋が見つかったから。これなら兄貴にも納得してもらえそうだ」
と、言って来た。午後三時半に新しい葬儀屋が来る。それから一時間近く兄妹三人と事務長で葬儀スケジュールの話し合い。葬儀委員長は事務長に命ずる。
明日に続く

迷子の医者(38)

6月7日(木曜)
あさくら病院での二十二日目
梅雨入り二日目、小雨が降り続いている。母の病状は一進一退を繰り返していた。顧問弁護士の矢島先生が母の見舞いに来る。
病院開設以来の顧問弁護士だから15年以上の付き合いだ。女性弁護士ながら頭の回転が鋭い敏腕弁護士だ。もちろん母と面識はある。
「お母様には、確かにお気の毒ですが、それでもご自身が育て上げた息子さんの病院で、その最期を看取られると云うのは、これ以上の幸福もないと私は思いますが」と、
慰めとも労わりとも言えぬ話をした後で更に説明を加えた。
「確か、ご両親の財産名義はすべてお父さま名義になっていましたよね」
「はい、それが何か?」
「いや、余計な話だとは思うのですが、先生がお医者様としてお母様の看病に専念している間、お父様は寂しく不安定な精神状況に置かれていますよね」と、意味ありげな言い方をして来た。
「確かに、その通りですが今の私では父の面倒にまで手は回りません」
「そりゃそうでしょう、この病院の運営だって大変な仕事なのに今はお母様の看病まで日夜献身的な努力をなさっているのですから。でも、お父様が寂しい状況に放置されているのは事実です。問題は、その寂しさに言い寄る人です。つまり妹の智子さんです」
「良いではないですか、智子が父の面倒を見てくれりゃ何も文句を言う事はありませんよ」
「その通りなのですが、問題はお父様の寂しさの心の隙間に入りこみ智子さんが、お父様の遺言書を自分にとって都合の良い様に書き直してしまうかもしれないと、私は恐れているのです」
「そんな馬鹿な、妹に限ってそんな事はあり得ませんよ」と、
私は矢島弁護士の話を一蹴した。
ともかく、この数ヶ月間は昼夜の別もなく母の看病に尽くし、身も心もボロボロに疲れ果てているのにその隙間を狙って父の遺言書を書き直させるなんて事があるのか?
確かに弁護士らしい発想だが、
母の明日とも知れぬこの時期に、遺言書がどうのこうのと聞かされても私には何の実感も湧かなかった。
後で矢島弁護士の忠告が、その予測通りとなって私たち兄妹は分裂の危機を迎えてしまうのだが、その時の私は世間知らずのただの医者でしかなかった。
午後11時に病院から連絡
「母の血圧が70~80台を推移している」との報告だ。
ともかく2~3時間でも寝てしまおとベッドに潜り込む。
6月8日(金曜)
あさくら病院での二十三日目
午前4時半病院に着く。母は完全なる昏睡状態だ。血圧は76/40、脈拍数126回、マスクでの酸素濃度6L、SPO2が95%で心肺機能は極度に低下していた。午前5時半に弟を、6時には妹を呼ぶ。兄妹三人、話す事もなく黙って母を見守っていた。母の寝息が静かに伝わって来るがマスクから流れる酸素の音がそれを上回っている。しかし今この時、母は確かに生きているのだ。午前10時、弟が成城学園から父を連れて来る。
今日の昼頃が母の生命的限界だろうと考え午前11時には親戚中に連絡を入れた。午後1時になって浅草の母の妹夫婦もやってきた。午後4時過ぎになっても母の病状に全く変化は見られない。
この分だと後2、3日は保つかもしれないと私は考え直し、みんなに帰ってもらうことにした。父は弟が自分の車で成城学園まで送って行った。午後6時私も一度自宅に帰る事にした。
明日に続く

迷子の医者(37)

6月4日(月曜)
あさくら病院での十九日目
本日より北山大学を紹介してくれた、あの村上先生が常勤医師となり活躍してくれる。心強いばかりである。
しかし母の病状は確実に悪化の速度を早めていた。生命維持以下の最低限の補液量でも、癌性胸膜炎による胸水は徐々に溜まって行くばかりだ。利尿剤の効果も明らかに低下している。
マスクでの酸素濃度は5LでSpO2は95%と呼吸状態は変わらないが、傾眠状態はより深く、そして長くなっている。
午後8時30分、自宅に戻り夕食を取っていると病院から連絡が入る。母の意識レベルの低下が著しいとの説明だ。
すぐ病院に駆けつける。
確かに夕方の帰る前に見た時よりは、意識レベルの低下が明確だ。*JCS*
III-200レベルだ。痛覚刺激に対して、わずかな反応を示すだけだった。
直ぐに弟と妹そして父に連絡をする。
午後11時半、弟の車で父が病院にやって来る。しかし父は、
「めまいがする」と言って
そのまま隣りの病室で母の顔も見ずに寝込んでしまう。
父の血圧を測ると220/120mmHgと
相当に高い。
「このまま一緒に棺桶に入りたい」
と言って、騒いでいる。
ともかく父の腕に精神安静剤の注射をして気持ちを落ち着かせる。そのまま入院扱いにして見守る事にした。
6月5日(火曜)
あさくら病院での二十日目
父も何とか寝付いた所で、午前1時半弟と妹の二人は家に帰す。私は母のバイタルサインをしばらく見続け、未だ数日間は大丈夫だろうと確信し午前4時には自宅に戻る。そのまま午前10時ぐらいまで倒れる様に寝てしまう。
午前11時半には病院に出掛ける。
母の意識レベルは低下したままで回復する様子は全くない。父は精神安静剤の注射が効いた様で、充分に熟睡して血圧も落ち着いて来た。朝食もしっかり食べている。
午後2時、妹の車で帰って行く。
午後7時からは病院近くの小料理屋で、昨日から常勤となった村上先生の歓迎会、母の病状が不安定なので普段よりは、かなり細やかな歓迎会だった。
参加者もわずか10名に過ぎない。
私はもちろん飲酒はせず、午後10時一度病院に戻る。母の病状に変化はなかった。悪い意味で安定していた。
6月6日(水曜)
あさくら病院での二十一日目
梅雨入りである。しかし、そんな季節の移り変わりとは無縁の世界で、ただその日その日を精一杯生き抜いていた。
母の危篤状態は続いている。母が最も気にしていた褥瘡が、小さいながら仙骨部に出来始めた。10日前からエアーマットも使用し充分な注意を払っていたのだが、直径3cmと1cmのものが二ヶ所に出来てしまった。
二日前に意識レベルが急激に低下した時、出来てしまったのだろう。
父は、そのまま自宅で待機していたが情緒は極めて不安定で遺言とか相続の話ばかりをしている。
それのみが親としての最後の威厳を保つ証でもあるかの様に…
弟や妹たちは、そんな父の一言一言にかなり振り回されていた。
その時の私は、はるか遠くで遺言とか相続とかの話を聞いていた。そんな話に付き合っている様な心の余裕もなかった。
明日に続く
*JCS*
についての解説はトップページに記載されています。

迷子の医者(36)

6月2日(土曜)
あさくら病院での十七日目
麻薬のアンペック坐薬(30mg)の一日三回使用が充分な効果を発揮し始めて来た。疼痛の訴えもなく食事も取れず一日中ウトウト寝ている。補液量は最低限の520mlで生命維持量としてもかなり少ない。
それでも呼吸状態は、また少しづつ悪化している。マスクでの酸素濃度は6Lまで増やしていたがSpO2は92~93%を維持するのがやっとだ。
午後2時過ぎに母は突然目を開け、
「あんたも自分の体に充分注意し頑張って生きて行きなさいよ」
と言って、真っ直ぐ私の顔を見た。
はっとして、私は母の手を取った。
しかし、何事も無かったかの様に母はまた眠ってしまった。
死の瀬戸際まで子供を思う気持ちの母に、私は急に幼な子に戻って
「おかあさん、死んじゃ嫌だ!嫌だ!ぼくのおかあさん、おかあさん!」
と泣き叫びたい衝動に駆られた。
しばらくして私は医者としての冷静さを取り戻す。
母の死期は思った以上に早いのではないかとの不安から、親戚中にその事を電話で報告する。
「どんなに保っても今月一杯かもしれない」と、告げる。
しかし、そこに何の意味があるのだろうか。そんな報告を親戚にする必要があるのか。この核家族化した時代で親戚とは何であるのか。私の中で妙な疑問が湧いた。
でも、それは私の個人的な見解であって母の考えは違うと思う。私の世代と違って母は、小まめに親戚付き合いをする人だった。そんな母の意志を尊重するなら、やはり母の病状の変化は報告すべきだと考え直した。
人は誰しも、その人生の中で三回は多くの人達の噂に上ると言われている。
一度目は誕生の時、
「誰々さんの所に可愛い赤ちゃんが産まれたらしいよ、かなり難産だったらしいけど今は母子共々元気だって」
と云う話はよく聞かれる。
二度目は結婚の時である。
「新郎新婦ともお似合いで、とても良い結婚式だったわよ」
と、式に出席した人達の多くが語る。
三度目が挽歌の時である。
その死を悼んで棺(ひつぎ)を挽きながら哀しみの歌を歌う。現代社会では、この様な風習は失われているが…
その挽歌の時が母の身に日一日と迫っている。
6月3日(日曜))
あさくら病院での十八日目
今朝は10時過ぎに起き出し朝食を取る。午後1時病院に出向く。
母の呼吸状態は改善しない。マスクでの酸素濃度は6L、SpO2は94%と昨日とほとんど変わらない。もちろん食事は一切受け付けない。37.3°Cと微熱が
出て来た。一日中ウトウトしているが、時々は目覚める。
午後3時前に母は一度目覚め、
「もうすぐ良くなる、もうすぐ良くなる」と、
小声で呪文のように一人つぶやいていた。そこに母の生きる執念を感じたが、医者である私は全くの無力だ。
母を労る言葉さえ見つからず、その痩せ細った手を握りしめている事しか出来なかった。
明日に続く

迷子の医者(35)

5月31(木曜)
あさくら病院での十五日目
父親の余りの発言に私は怒り狂っていたが、長年連れ添った妻のその変わり果てた姿に父親なりに強い衝撃を受けていたのかもしれない。
生来が単純で、思った事は直ぐ口に出してしまう父親であるから自分の中の不安を、母を失ってしまうかもしれないと云う精神的な動揺を、あの様な言葉で表現したのかもしれない。
それにしても私の父親への怒りは、なかなか収まらなかった。
しかし、それとは別に感動的な嬉しさもあった。山藤婦長が、あさくら病院に転院以来、母の病室に毎日の様に果物を運んで来ていると云うのだ。
それを母に聞かされて、私は目頭が熱くなって来た。それも、ただ運んで来るだけではなく冷蔵庫の中を毎朝、改めて母が何を食べたかをチェックして、常に補充を欠かしていないと云うのだ。
かつて妻の典江が体調不良で、あさくら病院に数日間入院した時に山藤婦長の看護を見て感動の余り、
「まだ本物の看護婦さんがいるのだ!
婦長さんが黙って横にいるだけで体の痛みが薄らいでい行くから、不思議よね」と言った事を、
私はしみじみと思いだした。
6月1日(金曜)
あさくら病院での十六日目
午前4時、病院からの電話で起こされる。母の疼痛が強いのでナースから指示を仰ぎたいとの連絡だ。
「ボルタレン坐薬50mgの使用で様子を見て」と頼み、
また直ぐに寝てしまう。母がどれだけ疼痛で苦しんでいるかを考えるより、自分の睡魔に負けている。
午前8時50分に出勤。母はウトウト眠っている。ボルタレン坐薬が効いている様だ。そんな母の寝姿を見て、私の心も落ち着いた。
パート医、外村医師のアドバイスで点滴の補液量を極力少なめにして520ml
までに抑える。
「下手に麻薬の使用量を増やすより補液量を少なめにして脱水症に持って行った方が、生命現象が低下し疼痛が軽減されますよ」
と云うのが、彼の見解だ。
確かに雪山で遭難し、そのまま凍死して行く状況は、以外と苦痛を伴わないとも言われている。
患者さんの栄養状態を良くすれば、それに伴って癌細胞の増殖はより活発化し、癌患者の苦痛を強めるだけだと云うのは、よく知られた事実だ。
だから脱水症もしくは餓死に近い状況にゆっくりと持って行くのも、癌末期患者への優しい労りに満ちた医療行為とも言える。
医学もかつては、広い範囲の中で哲学の一分野と考えられた時代があった。宗教学と同一線上に置かれた時代もあったのだ。それは共に永遠の謎の神秘を秘めているから…。
人の生と死、神の国はあるのか!
肉体が滅んでも魂は残るのか!
医学だでは救えない人の生命!
誰が救うのか…ましてやその魂を!
自分の中で生涯の命題を
また自問自答している
15才の年からの自分への
果てしなき問いかけ…
性癖とも言うべき自己存在への疑問
人は何の為に生きるのか?
19才の時の初めての自殺未遂
大学受験に失敗し、淡い恋も消え去り
生きる意味を求めても答えは得られず
悶々と過ごした青春の日々…
今、母の死を目前にして
忘れかけていた私のかつての性癖が
自己存在への疑問が…
ぐるぐると空回りしている。
明日に続く

迷子の医者(34)

妻と娘が運動会に出かけた後も2時間以上は寝ていた。ともかく全身がボロ切れの様に疲労が蓄積している。
それでも午前10時40分には何とか起き出し、一人朝食を取る。
午前11時45分、病院に出勤。母が病気で倒れるまでは土日は休みにしていたが、この2ヶ月近くは一日の休みも取っていない。
それにしても今日の母の呼吸状態は逆戻りしている。鼻腔からの酸素濃度を2Lから4Lに上げてもSpO2が90%前後がやっとだ。
間質性肺炎の再発か、癌性胸膜炎の増悪か、ともかく胸部レントゲンを撮ってみる。昨日より胸水が少し増えている。一度減量した利尿剤を再度増やして様子を見る事にした。
5月27日(日曜)
あさくら病院での十一日目
昼過ぎ、妻と娘の三人で病院に出向く。母の呼吸状態は昨日よりは軽快している。利尿剤の増量が効いたみたいだ。尿量も2300mlもあった。
鼻腔からの酸素濃度は昨日と同じ4LだがSpO2が90%から98%と著しく改善していた。娘の香子に、
「おばあちゃん、早く元気になってね」と言われ、
母は嬉しそうに孫娘の手を握りしめていた。妻の典江は病室の絵を新しく買い求め、明るく花一面を飾り立てた20号程の絵にした。
「典ちゃん、有り難う!」と、
母は妻に礼を言った。妻も母が、自分の買い求めて来た絵が気に入ってもらえた様なので嬉しそうだった。
妻と娘は午後1時半頃に二人で戻って行った。母の呼吸状態は良くなったものの、次は便通コントロールと云う問題が残っている。
胸腺癌の浸潤で周囲の胸骨や肋骨が徐々に破壊されている。その為の疼痛も日々増大している。結局は麻薬による疼痛の軽減を目指すしかない訳だが、麻薬は一般的に胃腸の動きを著しく弱める作用がある。
この為に極度の便秘状態が誘発されてしまう危険が大きい。つまり麻薬の使用量と便通コントロールの調整は、それなりに厄介な問題なのだ。
5月28日(月曜)
あさくら病院での十二日目
母の呼吸状態は安定しているが、精神的には「うつ症状」が強く出始めて来た。食欲も少なくなり、見舞いに来る親戚や孫たちとも余り話をしたがらない。疲れ切った眼差しを見舞い客に、ただボーッと向けているだけだ。
麻薬による作用もあるだろうが、それだけでもなさそうだ。
もう、この押し寄せる病魔との闘いに疲れ果てたのかもしれない。
5月29日(火曜)
あさくら病院での十三日目
母の呼吸状態は安定している。
鼻腔からの酸素濃度は3LでSpO2が97%と穏やかに推進しているが、母の精神的な落ち込みは厳しくなるばかりだ。あれだけ話し好きの母が、殆ど口を効かない。胸腺癌の病巣も拡大している。
午後3時半、父親が母の見舞いに来る。
そのベッドサイドで余りに無神経な発言をする。母の意識が充分に覚醒しているにもかかわらずだ。
「人間、死んで逝く時はこんなにも惨めな姿なのか!」と、
言い出した。如何に80才の老父とは言え、その常軌を逸した物言いに私は逆上した。自分の父親でなければ、確実に手を上げていただろう。
50年以上も連れ添った夫に、そこまでの言われ方をした母の心情はどの様なものであったのか、怒りを通り越して哀しみで私の心は震えた。
明日に続く

迷子の医者(33)

その日の夕方、北山大学の野村教授に私から抗議の電話を入れる。担当医だった吉田医師しか居なかったので、仕方なく彼に退院直前の野村教授の診断の間違いを指摘して教授自身からの謝罪を要求する。
5月24日(木曜)
あさくら病院での八日目
母の病状は落ち着いている。鼻腔からの酸素濃度は3LでSpO2は96%で順調だ。朝方、野村教授から謝罪の様な電話を受けるが真心が感じられない。
「先生、電話で詫びを入れて済ます積もりですか。母の病室に来て心からの謝罪を述べるべきでしょう」と、
私はやや硬い口調で教授に申し入れた。大学と云う権威の上に胡座(あぐら)をかいて母の許に謝罪に来ないなら、私は教授を告訴する積もりでいた。
5月25日(金曜)
あさくら病院での九日目
午後2時、野村教授が謝罪の為にあさくら病院にやって来る。院長室で、この数日間の母の胸部CTを並べて見せる。
北山大学で見せてもらった右肺野全域が真っ白になっていた写真とは大違いである。私から口火を切った。
「先生が、あの時ラッシュなどと言った所見は明らかに間違いでしょう。癌細胞の急激な浸潤ではなく、放射線照射後の間質性肺炎だったのでしょう。だから私のステロイド療法で、こんなにも右肺が正常に近い状態に戻ったのではないですか!」
教授は私の示したCT所見を丁寧に見て
「汗顔の至りです。先生の仰る通りです。返す言葉が全くありません」
と言われた。ここまで明確に自分の非を認められると、それ以上はなかなか糾弾しにくいものである。
そして母の病室に入り、母の手を取って一言
「立派な息子さんを持って幸せですね」と、話した。
母も嬉しそうに頷いていた。
何か教授の方が役者が一枚上手の様な気がしないでもなかったが、これで事は収める事にした。
それに一様は学会の大御所と言われる野村教授が、ここまで遜(へりくだ)って来たのだから、同じ医者としてこれ以上の追求は自分の品位を落とすだけかもしれないと考えた。
昨今のただ金欲しさの、少し首を傾けたくなる様な医療訴訟を目の当たりにしている私から見れば、これ以上の追求は医療人としては逆に恥ずべき行為とも考えた。
アメリカ流の謝罪は心の問題ではなく、金銭の大きさが誠意であると云う考え方が支配的だ。しかし私はその様な考え方に馴染めなかった。
午後3時、野村教授を病院玄関まで見送る。彼の社会的地位を考えれば充分な謝罪がなされたと、私は受け取りこれ以上の言及は避ける事にした。
昨日、常勤医の桜井医師からのアドバイスで400mlの輸血をしてみた。
「貧血の有無にかかわらず、ヘモグロビン量を増やせば、酸素運搬が効率的になるので呼吸状態は楽になるはずです」と言われ、
そのまま輸血を実施してみたら彼の言う通り、今日の母の呼吸状態はすこぶる良い。鼻腔からの酸素濃度2LでSpO2が97%だ。
5月26日(土曜)
あさくら病院での十日目
小学二年生、娘香子の運動会だ。昨晩私が寝付いたのは午前3時頃で、とても運動会に出かけて行く元気がない。
幼稚園の年少から始まって5度目の運動会だが、今回が始めての不参加だ。
妻と娘が小学校に出て行くのを夢の中で聞いていた。
明日に続く