小さな贈り物(4)

8月も末頃になって彼女の病状は、その峠を越え薄紙を剥ぐ様に少しづつ快方に向かって行った。先ずはタンパク尿が大幅に減少して来た。一日に3~4gも出ていたタンパク尿が1g以下になった。熾烈を極めていたDIC播種性血管内凝固症候群(はしゅせい けっかんない ぎょうこしょうこうぐん)も何とか軽快しつつあった。
夏休みも終え、妻と子供たちは実家に帰って行った。また一人孤独の闘いが始まるかと思うと寂しさを禁じ得なかった。そんな私の思いを察して妻は、こっちの小学校と幼稚園に子供たちを転校させ様かと言ってくれたが、折角厳しい受験に打ち勝って入った私立の名門校だ。
それを私の都合だけで田舎の小学校に転校させられる訳がない。
それでも妻は私に、これ以上厳しい単身赴任の仕事を続けさせたくないと言う。
「田舎の小学校でのんびり過ごさせるのも悪くないんじゃない。子供たちの事は未だ中学も高校もあるのだから、幾らでも取り返しが効くわよ。それよりは、あなたの体の事が心配だわ」
と言われ、私の心も一時は迷いかけたが、子供たちには小学校や幼稚園で仲の良い友達も沢山いる事だし、やはり私一人の都合で転校させる事は出来かねた。その頃の私は仕事の合間を見てスーパーで食料品を買い溜めして置く事を妻に教わり、一人になった後も夕食も取れず空腹のまま寝る様な生活からは一歩前進していた。
9月に入って彼女の病状は一気に改善して行った。28才と云う若さだけあって、一度回復の波に乗ると病状の軽快も早かった。
彼女の病状が落ち着いた所で、今度は保険請求の病状併記に私は専念した。
何故これ程の高額医療費になってしまったかの嘆願書である。通常100万円を超えると、病状併記が必要になって来る。それでもA4コピー用紙に20行も書けば充分である。
しかし1カ月の保険請求金額が200万円も超えるとA4コピー用紙に2枚ぐらいの病状は書かなければならない。それでも時に50万円ぐらいは削減される。
私は一日がかりでA4コピー用紙に10枚の病状併記を書いた。2カ月半にわたる検査データーを幾つもの表にまとめ、その中に使用薬剤の投与量と日数、その使用薬剤により検査データーがどの様に改善したかを詳細に記した。
それは、まるで学会論文の発表に似ていた。さらに28才の女性の命を救う為に検査技師、ナース達がどの様な努力を払ったかも付け加えた。もちろん自分の事は何も書かなかった。
私としては全身全霊の嘆願書である。
これで私の医療行為に過剰診療の烙印を押されるなら、もう諦めるしかないと腹をくくった。
それでも私に課せられるペナルティは何ヶ月分かの給料がもらえなくなるぐらいだろう。そう考えると気も楽だ。
9月12日、ついに彼女の退院する日が来た。正に奇跡の回復とも言えた。
その日、彼女の夫と、その母は幾度も私に頭を下げ感謝の言葉を述べた。
帰る間際に彼女が娘に何かを言っていた。ナナちゃんは頷いて私の側に寄って来た。
「先生、ちょっと座って」
「どうしたの、ナナちゃん」
「ちょっと座って、お願い」
「そうかい、こんな風で良いのかな」
と、私は少しばかり腰を屈めた。
するとナナちゃんは、私の頬にその小さな唇を寄せて軽くチュをしてくれた。
「先生ありがとう」と言って、
ナナちゃんと、その家族は何度も私を振り返り病院を後にした。
何とも言えない小さな贈り物を残して…
➖ 完 ➖
予告 : 明日からの連載小説は「青空を求めて」が始まります。

小さな贈り物(3)

ともかくナナちゃんのママに私は自分の知り得る限りの最新の医療を実施した。その結果、7月分の医療保険請求金額は300万円を超えた。上司の内科系の病院長と事務長が、この請求金額を見て震え上がった。
こんな小さな町立病院では想像を超える保険請求金額である。大学病院ならいざ知らず一人の患者さんに300万円の保険請求金額と云うのは度を超えていると、病院長と事務長から注意された。恐らく医療保険の審査で過剰診療と査定され100万円以上は削られるだろうとの心配であった。
だから患者さんの事のみを考え出来る限りの手を尽くすと、病院自らが多額の身銭を切る必要さえ出て来たりする事もある。
病院からの忠告にもかかわらず、未だ血気盛んな私は自分の思う存分の治療をした。
繰り返される肺炎とDICによる血小板減少に対し、これまでのヘパリン持続点滴と抗生剤、ステロイド療法に加えガンマーグロブリンの大量投与を実施した。この私の治療法を見て病院長が激昂した。
「君は、この小さな町立病院を潰す気か?未だこんな高額医療を続けているのか。こんな事が保険審査で認められる訳がないだろう。病院が大きな赤字となったら、君はどんな責任を取るつもりだ!」
とまで、言い寄られた。
私もかなり頭に血が上り、
「それなら病院が背負った赤字分は私の給料で埋め合わせて下さい。半年分でも一年分でも結構です。ともかく私は自分の信じる医療をやりたいだけです」
病院長は少し驚いた顔をして、
「君には奥さんも子供もいるだろう。半年も一年もここで、ただ働きをするというのか。それで君の家はどうやって食べて行くの!」
「ご心配には及びません。多少の貯えはありますから」
「まあ、それはそうかもしれないけど。しかし何故そこまで一人の患者さんの為に自分の犠牲を払うのかね」
「私の医者としての意地です」
「意地ね、君も変わった人だね。そこまで言うならば、もう君の好きな様にやったら良い。私はこれ以上は口を挟まない」
「有難うございます。お言葉に甘えて私の好きな様にやらせて頂きます」
それからの私は誰にも邪魔をされず、自分の信じる医療を徹底的に貫いた。
そうは言ってもナースや検査技師の人達には、かなりの犠牲を強いた。毎日の血液検査、特に出血傾向の検査は神経質なまでに行い、毎日が一喜一憂の連続だった。彼らは通常の一時間前には出勤してくれて、その日のデーターを午前9時半には届けてくれた。
そのデーターに基づいて私はその日の治療計画をじっくり練る事が出来た。
もちろん彼女だけが患者さんではないから、朝から晩まで私は働き続けていた。外来患者さんも沢山待っているし、胃カメラ等の検査もある。入院患者も一人で20名以上は受け持っている。それでも彼女の治療計画だけに毎日5時間以上は費やしていた。
夏休み中は一日として、自分の子供と遊ぶ時間は取れなかった。それでも妻は文句の一つも言わず、子供を連れ近くの町立プールで楽しそうに過ごしていた。朝は8時前には病院に出て夜は12時過ぎになって宿舎に戻る。それでも妻の温かい夕食が待っている。
病魔との闘いの一番辛い時に妻が側にいて私の愚痴に付き合ってくれた事で、私はどれ程に慰められた事か。
明日に続く

小さな贈り物(2)

しかし、そんなナナちゃんの期待を裏切るかの様に彼女の病状は悪化して行った。ステロイド療法でネフローゼ症候群はやや軽快し始めたが、その2週間後に肺炎を合併してしまいステロイド療法を大幅に後退させ、抗生剤とガンマーグロブリンの併用治療に切り替えた。
約一週間で肺炎はかなり軽快するが、次に襲って来たのがDIC播種性血管内凝固症候群(はしゅせい けっかんない ぎょうこ しょうこうぐん)である。

*注DIC*とは、本来出血箇所のみで生じるべき血液凝固反応が、全身の血管内で無秩序に起こる症候群である。早期診断と早期治療が求められる重篤な状態で、治療が遅れれば死に至ることも少なくない。

DICの治療経験は私に取って二度目の経験でしかない。一度目は母校の大学病院で10年以上は先輩医師の指導を受けながらの治療である。それも血液内科では誰にも一目置かれる様な実力のある医師であった。
医者になって未だ8年目の私が一人で闘って行くには荷が重すぎた。当然近くの大学病院に送るべき患者である。
しかし近くの大学病院と云っても何処も一時間以上はかかった。救急車に揺られ、そこまで命が持ち堪えられるかも疑問である。
ダンプ運転手のご主人とは何度か話し合った。本来なら大学病院か大きな総合病院で診るべきだと。しかし、そこに転送するまでにも大きな危険が付きまとっているとも説明した。
患者さんの母親も、30才のご主人も判断のつかぬまま28才の患者さんの命は私に預けられたままとなっていた。
そして私にも若さ故の気負いがあった。
「自分一人で何とか、この患者さんを治してみたい」と…
しかし、それは私一人の問題ではなかった。小さな病院のナース、二人しかいない検査技師たちの全てを巻き込んでの苛酷な闘いだった。
私は夏休みや休日の全てを返上した。私の小学ニ年と幼稚園の娘二人は妻共々夏休み中、病院宿舎に来てくれていたので、どんなに疲れ遅くなっても妻の手作りの夕食は口に出来た。
この支えは大きい。家庭と云う精神的な逃げ場と励ましが、どれ程私に力を与えてくれた事か。
それにしてもDICの治療は困難を極めた。全身性の出血班、歯肉出血、性器出血が著しく、血小板数は1~2万(正常値20~30万)と何時、脳出血を起こしても不思議ではない数値が続く。
ヘパリンの持続点滴、凍結血漿の間欠的な輸血、この輸血によるネフローゼ症候群の再然そして繰り返される肺炎と、息つく暇もない病魔との闘いである。1ヵ月半の間に呼吸停止が二度も来た。人工呼吸器も付けたり外したりで、その度に家族も呼び出す。
時にはナナちゃんも付いて来て
「ママは、お家に帰れないの?」
と、泣きべそをかきながら私に詰め寄る。そのつぶらな瞳で見つめられると、自分の医者としての使命が再び呼び起こされる。
「ナナちゃん、ごめんね。先生もママも頑張っているから、後は神様にお祈りするだけだよ」
と、答えるのがやっとであった。
「うん、ナナもお祈りする」
と、言われ私も何とかその場は切り抜けた。
しかし何としてもナナちゃんのママを助けたいと云う思いは強くなるが、事は単純ではない。
明日に続く

小さな贈り物(1)

ある地方都市の総合病院と云うには、やや貧弱なベッド数70床足らずの、2階建ての町立病院に私が大学から派遣されたのは34才の年でした。
小児科と内科、産婦人科、一般外科の標榜科目がありました。
内科の私は小児科と内科を担当し、外科のA医師は一般外科と整形外科を担当していました。それに50才近い産婦人科医が一人います。内科医だけは私を含め三名体制でしたが、それにしても医者は全部で5人だけの所帯です。
「大変な所に派遣されたな!」
と言うのが、その時の私の絶望にも近い思いでした。
人口一万人にも満たないこの町の基幹病院で、一日の外来患者数は150名前後でした。
農繁期になると外来患者は減り、入院ベッドは30床以上も空き、午後3時ぐらいには一日の仕事もすっかり終わり、近くの小川で魚釣りを楽しんでいました。
逆に農閑期には外来患者は一日中、押しかけ午前中だけで内科医の私が一人で100名以上診る事が当たり前でした。入院ベッドも超すし詰状態で、普段は埃だらけの倉庫までが病室に早変わりして、朝は8時半頃から夜は9時過ぎまで働き通しです。
仕事の忙しいのは我慢出来ましたが、単身赴任だった私に取って一番辛かったのは、しばしば夕食に有り付けない事です。
この小さな町では夕方も7時半を過ぎると殆んどの店が閉じてしまうのです。一日中働き通しで夕食も取れず、空腹感のまま布団に入る切なさは辛いものでした。
そんな田舎の病院に28才の妊娠7ヶ月の経産婦が、重篤な妊娠中毒で産婦人科に入院して来ました。血圧210/120尿タンパクの一日量は4g以上、全身浮腫も著明、心肺機能の低下も著しく、とても正常分娩に耐え切れないと判断した産婦人科医は外科医との協力の許、ご主人の同意を得て即刻に帝王切開を実施しました。
取り出された胎児は体重が760gで、その生存は最初から諦めていました。
当初は脊椎麻酔での手術を予定しておりましたが、それでは心肺機能の低下に耐えられないだろうとの判断で全身麻酔に切り替えられました。
手術後も弛緩性出血が容易には収まらず、陣痛促進材と輸血が繰り返されました。
手術後10日経って、弛緩性出血は改善したものの、多量のタンパク尿は軽快せず典型的なネフローゼ症候群の合併が認められました。
この時点で婦人科の患者さんは私の受け持ちとなりました。
医者となって7年目の私には、かなり手に余る患者さんでした。
先ずはステロイド療法でネフローゼ症候群の治療に当たり、そして塩分、タンパク質の制限、抗凝固剤の併用と最新の医学雑誌と首っぴきで、知り得る知識を全て導入しました。
病状は一進一退でした。
患者さんの夫は30才でダンプの運転手ですが、5才になる女の子がいました。時々は二人で見舞いに来て、
「ママは元気になるよね!」
と言って、私の白衣の袖を引っ張ります。私は何と答えて良いか分からず、
「ママは頑張っているからね。おねえちゃんの名前は何て言うの?」
「ナナ」
「ナナちゃんて言うんだ。ママが早く元気になると良いね」
としか、私には答え様がなかった。
明日に続く