中沢家の人々(130)

しかし不景気の波は徐々に速度を上げ、銀座の灯りも少しづつ影が薄く見え出して来た。都内の一流料亭も値段を下げ集客に努め出した。デパートの売り上げは軒並みに数字を落としていた。不動産業は壊滅状態に追い込まれていた。サラリーマンの給与は凍結状態になっていたが、物価水準が下落を続けているので生活そのものに大きな痛手を負う事はなかった。
1994年4月、翔太は高校へと進学した。部活も勉学も励み、剣道は初段になっていた。清吉55才、紀子51才となっていたが仲道は76才で、本人は盛んに退職を願っていたが清吉と紀子の二人は決して許さなかった。もちろん以前の様に厨房に入って料理の腕を振るうと云う訳には行かなかったが、背筋は一本通っており眼光にも衰えは全く見られなかった。仲道がそこにいるだけで周囲の空気が締まって来る。板前ではなく、副社長としてこそ彼の存在意義は大きかった。
清吉と紀子の二人にして見れば、仲道はただの使用人ではなく、人生の師であり心の支えであった。自分達の親以上の存在であったから、例え彼の足腰が立たなくなったとしても死ぬまで面倒を見させてもらうつもりでいた。
それから3年、1997年3月に翔太は東京大学の文化 I 類に現役で合格を果たした。高校2年の夏までは部活にも精を出し、剣道は2段になっていた。彼等夫婦にとっては正に自慢の息子であった。
一方、「ことぶき」グループは縮小を余儀なくされ店舗数は12店舗から3店舗へと大幅に後退して行った。付け焼き刃的に「ファミレス」も3つぐらい手がけてみたが、その原価主義と素材の価格抑制には長年「ことぶき」グループで馴れ親しんだ料理人の発想では経営思想が違い過ぎて、彼等夫婦には「ファミレス」の運営は困難を極め全てが失敗に終わってしまった。
仲道は78才で帰らぬ人となってしまった。病名は急性心筋梗塞である。病院に担ぎ込まれてから、わずか3日間の命でしかなかった。彼らしい死に際の見事さであったとも言えるだろう。翔太が高校2年の冬であった。寒波の強い2月初旬にトイレで倒れたのだが、早朝の事なので発見が少し遅れたのかもしれない。
2001年4月、翔太は大学を卒業して外務省に入り、高級官僚への道を歩み出した。清吉は62才、紀子は58才になっていた。「ことぶき」グループの店は全てが閉じられ、彼等夫婦は店の跡地にテナントビルを建て賃貸収入で悠々自適の生活を始めていた。
➖ 完 ➖
長い間のご愛読に厚く御礼を申し上げます。次回からの作品は「霜月の夕暮れ」をお送りいたします。作品内容は認知症患者を抱えた家族の多数の悩みが中心の物語です。

中沢家の人々(129)

その一方で「ファミレス」の勢いが増して、本格的な料理店の客足が減り始めた。1970年に東京・国立で「スカイラーク1号店」がオープンしたのを皮切りに1980年代になると24時間営業で店を営業するファミレスも増え多くの人達が手軽で安い「ファミレス」へと集まり出した。さらに1990年代に入るとバブルがはじけ日本経済が急落した為、低価格を売りにしたファミレスがより人気を集め、本格的な日本料理店は少しづつ閉鎖され出した。「ことぶき」グループもその例に漏れず経営が日々圧迫され始めていた。日本経済の不況に伴い企業の多くは接待交際費を極度に切り詰め、社用族が高級料理店で好き勝手に飲み食いする時代が影を潜めていった。
1991年2月、翔太は都内の有名私立中学に合格した。中高一貫教育で東京大学への合格者は日本で一番の学校である。清吉と紀子は共に高校卒なので一人息子の翔太には、それなりの学歴を身に付けさせたかった。そんな思いの第一歩が踏み出せて、親子3人は手を取り合って喜んだ。紀子は喜色満面で、
「翔太、よく頑張ったね。将来の希望はな~に」
と、彼を抱き寄せる様にして尋ねた。翔太は少し恥ずかしがって、紀子から一歩遠ざかり、
「まだ、そんな事は分からないよ。お母さんも気が早いんだから…そんな事よりも中学校に入ったら僕は剣道部に入りたいんだ」
と、翔太は答えた。横から清吉が、
「剣道部か、それも良いな!」
と鷹揚に笑った。幸せに満ちた足取りで親子3人は新大久保の自宅に帰った。
午後3時過ぎ清吉は仲道と川崎に電話を入れた。
「もし、もし、仲道さん。忙しい所を申し訳ないんだが、今夜は新大久保の自宅でささやかなお祝いをしたいのだが…」
「それでは、翔太坊っちゃんが合格したので?」
「うん、何とか第一志望の学校に入れたのよ」
「それは、それは、どうもお目出度うございます。分かりました、その様な事でしたら喜んでお邪魔させて頂きます。お祝いの膳は私の方でご用意させて頂きますから…ところで何時頃にお伺いすれば宜しいでしょうか?」
「うん、全くの親馬鹿ぶりで恥ずかしいのだが川崎君にも声をかけるつもりなので、夕方7時ぐらいにでも来て貰おうか、済まないね!」
「いえ、お声をかけて頂いただけ幸せでございます」
電話の向こうで仲道が丁寧に頭を下げている様子が目に浮かび様だった。
その日の夕方7時半から親子3人に仲道と川崎を加えた5人が、新大久保の自宅で翔太の合格祝いの膳を共に過ごした。
仲道は腕時計を、川崎は万年筆を夫々に持参した。翔太は恥ずかし気に頭を掻きながらも、それらのプレゼントを嬉しそうに受け取った。こうして祝いの夜は楽しく過ぎ去った。夕方から外では雪が降り出したが新大久保の自宅の中は温もりに包まれていた。
「ことぶき」グループは徐々に売り上げを落としていたが、まだ時の流れは緩やかで過去の貯蓄も十分にあったので誰も危機感を抱いてはいなかった。
清吉は社長に返り咲いて8年目を迎え、本業に勤しんでいたが不景気の波には勝てず、事業展開の方向性を悩み抜いていた。紀子とも色々と話し合い「ファミレス」への参入も視野には入れたが決意は固まっていなかった。
次回に続く

中沢家の人々(128)

そして翌10月21日(火曜日)、沼沢の淡い祈りが通じたかの様に東京市場は急激な反騰に向かった。里美と沼沢が抱き合う様に喜んだのは言うまでもない。
昨日3,836円安の21,910円で終えた日経平均が今日は2,037円高の23,947円まで戻したのである。やはり日本経済は強いと、新聞やテレビは盛んに燥(はしゃ)ぎ立てた。沼沢と里美は午前中一杯は株価の動きを静観していたが、午後からは積極的な信用買いに出た。沼沢は里美を励ましながら、
「里美、ここは絶好の買いチャンスだ。
正に千載一遇の機会と言っても良いだろう!ともかく買えるだけ買って行くべきだ」と、
確信する様に言った。里美もそんな沼沢の言葉を心から信じて、
「そうよね、私もそう思うわ。私も頑張るだけ買ってみる!」
と、彼女も沼沢に寄り添う様に買いに走った。
しかし、他の世界中の株価はそんな単純に回復はしなかった。それに釣られ日経平均も乱高下を繰り返し始めた。
11月2日には23,358円まで戻したが、11月11日には20,513円の大底まで下落してしまった。強気の信用買いに走っていた沼沢と里美の二人は、この時点で息の音を完全に止められた。追証の嵐の中で全ての財産を失ってしまったのである。仕手筋の情報も乱れに乱れ、そのグループ会員の多くも破産に追い込まれていた。
11月11日以来、沼沢は完全に消息を絶ってしまう。里美は自己所有のマンションさえ売却しなければならなかった。今更、「葵」にも戻れず、身を隠す様にして三流の安キャバレーで働き出していた。
この株取引にのめり込んでからは、殆んど無断に近い形で「葵」を辞めてしまった里美には誰も手は貸してくれず、安キャバレーだけが彼女の最後の逃げ場となってしまった。沼沢は生きているのか、それさえも分からなかった。その数ヶ月後に沼沢の妻らしき人から警察に捜索願いは出されたが、一向にその存在は確認出来なかった。
その一方、日経平均は1987年11月11日に20,513円の大底を付けた後は2年後の1989年12月29日には38,957円の大天井まで上りつめて行った。
ここで話を清吉と紀子そして翔太へと戻したい。この1989年9月に翔太は11才になり、すくすくと成長していた。小学5年生で中学受験を一年5ヶ月後に控え、この4月からは受験専門の学習塾にも通い出し、上位の成績を確保している。清吉は50才、紀子は46才になっていた。1983年1月末から始まった、この新しい家族の形態もすでに6年以上の月日が流れ本物の家族としての匂いも早や定着していた。「ことぶき」グループは12店舗まで拡大していたが、1986年からは事業拡大が足踏み状態になっていた。日本経済の猛烈な活況の下で、土地の高騰が起き始め、新しい土地の入手が困難となって来たのである。わずか1年で土地の値段が倍以上になった地域さえ出始めては、事業計画そのものが立ち行かなくなっていた。さらに人件費の上昇にもピッチが上がって来た。それ以上に下働の仕事をする職員そのものが少なくなり出して来た。ゴミ出し、店内の掃除は言うに及ばず板前の修業そのものにも年季の入る仕事を避ける若者が多くなっていた。日本全体の経済活動が豊かになるにつれ、清貧に甘んじて内にプライドを秘めながら一つの仕事に精通して行く日本人古来の心の在り方が少しづつ軽佻浮薄になって来た。それやこれやで本格的な料理店の事業拡大をし続けて行くのが困難になっていた。
次回に続く

中沢家の人々(127)

里美にとっては沼沢に妻子がいようと、自分の経済活動が損なわれない限りは沼沢との関係は大切にしておきたかった。
年令こそ20才は離れていたが、沼沢から与えられる株取引の情報は余りに貴重なものが多く、彼なしに経済的な有利性を確保するのは困難であった。
事実、里美が31才の年には彼女が自分名義で自由に動かせる資金も1億5千万円を越えていた。ただ自己の資金量が豊かになっただけでは無く、株取引に伴う知識と実戦力も格段に向上して行った。
信用買いや空売りの手口も巧妙になって来たし、チャートの解析力はプロ並みであった。日経平均は右肩上がりで日本経済は確実に上昇していた。
平家物語ではないが、「驕れる者久しからず」の例えにもあるが如く、世界経済と日本経済に大きな躓きが突然に何の前触れもなく発生した。
1987年10月19日に起きた米国発のブラックマンデーである。暗黒の月曜日とも呼ばれニューヨークダウ30種平均の下落率は22.6%(508ドルの下げ)と、史上最悪の記録を示した。翌日のアジア各市場も連鎖的な下落で日経平均株価は3,836円安(14.90%の下落率)で売り一色となった。沼沢と里美の二人は10月17日(金曜日)までに相当の買いを入れていた。沼沢は現物で12億円、信用買いで15億円を仕込んでいた。里美も負け知らずの相場展開で現物1億2千万円、信用買い1億8千万円の仕込みをしていた。そして向かえた10月20日の月曜日、二人は箱根の旅館で共に過ごしていたが、朝食もそこそこに茫然自失の態をなしていた。里美が32才になった秋の事である。朝8時半に沼沢が先ず証券会社に電話を入れる。ニューヨークで大暴落を起こしているニュースはすでに耳にしていた。
「もし、もし、沼沢だ。課長の吉川君はいるか?すぐに代わってくれ…何!他の客が殺到していて電話には出れないだと、困ったな誰か信用取引を決済出来るスタッフはいないのか?…何だって全員が電話の前で釘付けになっているんだと!支店長は、支店長はどうしている?
えっ、支店長は電話2本を持って立往生しているって、もう一体どうなっているんだ。それじゃあ何の取引も出来ないのか…」
と言って、沼沢は電話を叩き切った。
「里美、今お前も聞いていただろう!証券会社は完全にパニック状態だ。これ以上はフロントの女子事務員と話をしていてもラチが明かない。昨日のニューヨークでも殆んど株取引は成立していないらしいから東京でも同じだろう。仕方がないテレビで株式情報でも見るか?」
午前9時になってテレビから株式情報が流れて来た。東京市場は全てが売り気配のみで値段が全く付いていない。買い手が誰もいないので売買が成立しないのだ。二人共に朝食は殆んど喉を通らなかった。里美が心配気に、
「この先、株式相場はどうなるのかしら…もしかしたら私たちは破産するの?」と、尋ねて来た。
「うん、どうなるか予測は付かないが毎日が売り気配値のみで売買が成立しないと云う事もないだろ。この1日2日は我慢を強いられるかもしれないが。それにしても狼狽売りと云うのが最悪のパターンだし…何とか起死回生を願いたいが今日は少なくても動きが取れそうにない」
「そうね、今日はどうにもならないわね。売買そのものが成立しないんだから…」
「いゃあ、成行きで出せば何割かは売却出来るかもしれないが万が一にも明日、反騰して来たら悔しいし…」
次回に続く