霜月の夕暮れ(100)

   ➖ 終章 ➖
「明日は東京に帰ろう。懐かしい母の元に戻ろう。そして母と共にこころ静かに、その老後を過ごしていこう。たとえ、認知症であろうと、なかろうと…私を産み育ててくれた母ではないか」
心晴れやかに伸枝は、そう意志を固めた。
【追記】
この後、伸枝と吉子の母子がどの様な人生を送ることになったのか…?
筆者は知らない。恐らくブラジルから俊治も帰り、吉子がさらに入退院を繰り返すような事があっても共に仲睦(なかむつ)まじい日々を送ったのでないだろか、筆者はそう信じたい。
さて、現在我々を悩ませている「認知症」の将来はどうなるのであろうか。現時点の治療法の根本は生活療法(規則正しい生活リズム、便通コントロール、睡眠の質を高める)、生活習慣病の適正な調整、喫煙、飲酒を控える。そして根気強い脳トレの持続が主体である。それらを支える為に、薬物療法が補助的に使用される事となる。
しかし医学の発展と共にアルツハイマー型認知症の原因物質と推測されているアミノβやタウ蛋白を除去出来る根本治療が見つかるかもしれない。それ以外にもピック球やレビー小体の除去法も見つかる可能性は強いのであろう。
では、それで認知症の全てが治るのかと言われれば、未だ疑問が残る。
それは、さらに未知なる微細ウイルスが我々の脳細胞の変性要因となる危険性があるからだ。それ以外にも食生活の変化、アレルギー性疾患の増大なども認知症を起こす危険因子となるかもしれない。
つまり、医学の進歩と新しい疾患の出現は永遠のテーマなのだろう。
そして最後に言える事は、現時点における認知症の根本治療は「患者家族の大きな愛」であると、私は考えたい。それなくして認知症の治療は有り得ない。人間の本質が心と感情で支えられている限り、精神のバランスが崩れてしまった「認知症」患者に最も必要な物は「家族の愛」による心の安定感ではないだろうかと、思えてならないのだ。
浅学非才の私ごとき者が、この様な発言をした事を、お許し下さい。
2017.05.22.
    緑協和病院 成川 有一 著
なお次回作は6月2日よりブログ上に「想い出は風の彼方に」が掲載されます。【ー我が医師としての半生ー】が副題となります。
隔日ペースで掲載して行く予定でおりますが、仕事の都合上不定期になる日が出るかもしれません。ご容赦の程ねがいます。
つまづきながらも50数年間、悪戦苦闘で過ごして来た恥ずべき日々の物語です。実在する他人に与える影響を考え、6割以上がフィクション化されています。引き続きご愛読下されば幸いです。

霜月の夕暮れ(99)

それら遺書の一つづつを読むにつれ伸枝は目頭が熱くなるのを、どうしても禁じ得なかった。遺書の多くは毛筆で堂々と大書されている。中には鉛筆文字もあったが。
「字は体を表す」と、
昔から言われているが、この威風堂々たる毛筆から考えて、今の若者のへなへな文字は一体どうなっているのであろうか。
やはり、それだけ精神が脆弱(ぜいじやく)化したと考えるべきなのか。現代の私たちは、あの若くして亡くなった特攻隊員に顔向けが真面(まとも)に出来るのか…
伸枝は改めて深い疑問を抱いた。
国の為に若き命を散らした英霊や、祖先の御魂(みたま)に献げる敬虔な想いが現在の日本人からは随分と稀薄化している様な気がしてならない。自分達に命を授けてくれた生命の流れに、もっと畏敬の念を持つべきだろう。
古代中国では3年も喪に服した事実が知られている。祖先の霊を3年にも渡り祭り続け、一切の公務には付かなかったとの話もある。
合理精神と利便性のみを追求する現代社会では、考えられない時間の流れである。
「科学万能主義が、本当に私たちを幸福にしてくれるのか?
霊魂崇拝は時代遅れの遺物なのか…核ミサイルも原爆ドームの遺跡も科学万能主義が生み出した、余りにも大きな副作用と言わずして、何と説明がつくのか!」
知覧からの帰りのバスの中で、伸枝は自問自答した。昼食を摂る事さえも忘れていたが、空腹感はまるでなかった。
さらに伸枝の疑問が続く…
「科学の進歩が我々を必要以上に忙しくさせているのではないか?
情報の氾濫とコンピュータの処理能力が加速化するにつれ、人間の精神が追いつかなくなってはいないのか!…現代社会の心の病、その多くは膨大な情報量に人間が翻弄されているせいではないだろうか。長い間、雑誌記者などと云う職業に携わっていた分、自分もそんな現代病に侵されていたかもしれない。何かを早急に結論を出したがる現代病、それらはコンピュータに従属して行けば必然的に付きまとう副作用なのだ。
あるがままの自然を受け入れて行くと云う生物本来の特性が日々失われ、常に何かに追い立てられ情緒を不安定にしている。
母、吉子との関係もそんな所に幾らかは起因してはいないのか?
認知症ならば認知症で、上手にこれからの人生を楽しんで行く方法があるのでは…なにも焦る事はないのだ。認知症、それも老化現象の行き着く先ではないか。人間としての自然の流れなのかもしれない。いたずらに科学の力を過信して振り回されていたのではないのか、これまでの自分は!」
そんな堂々めぐりの思考を繰り返している間に、バスはまた指宿に戻って来た。宿に戻り、また昨日の「砂むし温泉」で、ゆっくりと身体を暖める。全身の発汗とともに、これまで母の介護で悩み、行き詰まっていた心の襞(ひだ)の塵(ちり)が全て洗い流されて行くような爽快感を覚えた。
7時、夕食の膳に着く。急に空腹感を思い出した。ビールも少し飲んだ。何もかもが美味しかった。
次回に続く

霜月の夕暮れ(98)

電話の向こうで俊治の微かに笑う声が聞こえる様だった。
「まあ、2年間もお母さんの介護生活でお前も随分と大変な思いをしたのだから、それぐらいのご褒美があっても良いだろう」
相変わらず俊治の声は優しかった。
「所で今は何処にいるんだい?」
「はい、昨日から九州の指宿に泊まっています。ここの『砂むし湯』が良いと聞いていましたから」
「そうか、それは良かった。しかし指宿にまで行ったのなら、知覧の方に足を向けてみたらどうだ」
「知覧って、何かあるのですか?」
「まあ、ともかく行ってごらん」
と言われ、伸枝もその気になった。今日は指宿の街並みを散策するぐらいの積もりでいたので、特にこれと云った予定がある訳でもないし…夫の勧めに従ってみる事にした。宿の仲居に知覧の行き方を尋ねてみた。
指宿から知覧までは鹿児島交通バスが便利だと教えられる。バスだと指宿駅から知覧までは1時間程度の所要時間であるとの話であった。
伸枝は指宿駅から10時21分のバスに乗り込み知覧には11時24分に到着した。
知覧、そこにあった建物は「知覧特攻平和会館」であった。
第二次世界大戦末期の沖縄戦において特攻という人類史上類のない作戦で、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃をした陸軍特別攻撃隊員の遺品や関係資料が多く展示されている。
特攻隊員や各地の戦場で戦死された多くの特攻隊員のご遺徳を静かに回顧し、再び戦闘機に爆弾を装着し敵の艦船に体当たりをするという命の尊さ・尊厳を無視した戦法は絶対とってはならない、また、このような悲劇を生み出す戦争も起こしてはならないという情念で、貴重な遺品や資料をご遺族の方々のご理解ご協力と、関係者の方々のご尽力によって展示されていた。
特攻隊員達が二度と帰ることのない「必死」の出撃に臨んで念じたことは、再びこの国に平和と繁栄が甦ることであろうと念じて、その若き命を散らせていったのであろう。
この地が出撃基地であったことから、特攻戦死された隊員の当時の真の姿、遺品、記録を後世に残し、恒久の平和を祈念することが基地住民の責務であろうと信じ、ここに知覧特攻平和会館を建設したとの趣旨が書かれてあった。何千と云う多くの遺影が飾られていた。中には未だ10歳代としか思えない幼気(いたいけ)な少年飛行士の写真もかなり見られた。
それら若き特攻隊員の遺書の一枚一枚に伸枝は、しばし釘づけになっていた。
「僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。
お母さん、良く顔を見せて下さい。
しかし、僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。
十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。
お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。
それが僕の別れのあいさつです」
「婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って往きたい。
あなたの幸を希う以外に何物もない。
徒に過去の小義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない。
勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。
あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。
智恵子。会いたい、話したい、無性に。
今後は明るく朗らかに。
自分も負けずに朗らかに笑って往く」
読む程に、伸枝の目頭が熱くなる。
次回に続く

霜月の夕暮れ(97)

翌3月27日(金)も天候には恵まれた。伸枝は広島から九州の指宿(いぶすき)に向かった。広島から新幹線で鹿児島中央駅まで2時間20分、そこから指宿まで指宿枕崎線で1時間半、指宿の宿に着いたのは3時半だった。鹿児島の指宿に泊まるのは初めての体験である。宿は指宿白水館に予約してあった。旅行雑誌で目にした、名物の「砂むし温泉」を味わいたかった。湯の町、指宿にて心行くまで温泉三昧に浸りたかった。
これから先の人生で、ここまで贅沢な一人旅を味わえるチャンスはもうないだろう。今回の旅行で伸枝は雑誌記者時代に稼いだ自分の貯金の大半を使う積もりでいた。女一人で稼いだお金だから、それほど多額の貯金がある訳ではない。それでも300万円ぐらいの定期預金はあった。その中の100万円ぐらいは使用する積もりでいた。
女の一人旅で100万円もの散在をする事に幾らかの後めたさを感じない訳にはいかなかったが、妹の静子から見れば途方も無い浪費に映るかもしれない。しかし女も50才を過ぎると、肚が据わって来る。
結局、「この世は成る様にしかならない」と思い定めて来るものだ。思い切り遊べば、それだけ明日への活路も拓けて来るものだろう。伸枝は、そう考えようとしていた。宿の部屋で一休みすると、さっそく名物の「砂むし湯」に行ってみる。
部屋のタオルを持って行き、脱衣場で専用の浴衣を受け取る。
下着を付けずに専用の浴衣に着替えた。ハンドタオルを持って砂場に寝転がると、係りの者が砂をかけてくれる。5分ぐらいで身体がジワジワと暖かくなって来た。15分もしない間に全身が汗だくになって来た。そこで砂から上がり、よく落とす。
そして大浴場へ直行し、浴衣を脱ぎシャワーで砂を流した。サウナ風呂の様な息苦しさはなく、体感温度は50℃程度で砂の重みにほんろうされ、足の先からどくどくと感じる血液の流れが全体まで行き渡って珠のような汗が出て来る。全身の老廃物が排出される様な爽快感があった。砂むし風呂は普通の温泉の3~4倍もの効果があると言われている。
関西なまりの老婦人が二人で、
「ほんまに極楽やなぁ」
と囁いていたが、伸枝もそんな印象を強くした。
そして夕食は豪華な懐石料理となる。少しビールを飲みたかったがウーロン茶にした。毎日こんな料理ばかりを食べていたら、東京に帰って体重を測るのが恐くなると思って、ビールは我慢した。
夕食後は売店に出向き静子に、指宿の土産として「かるかん」と云う和菓子を送った。この旅行中は静子に一切の電話は入れていない。何かあったらケータイに連絡が入るだろうからと、母の事はなるべく忘れる様にしていた。
これからの長い介護生活を考えると、一度は全てを切り離すべきだと決意していたのだ。
翌日の朝食後ブラジルの俊治に電話を入れた。時差が12時間だから、向こうは夜の9時のはずだ。俊治は直ぐに出た。
「あなた、夕食はお済みになったの?」
「あゝ、今ちょうど終った所だ。
俺が勧めた宮島の岩惣はどうだった!」
「とっても素敵な旅館でしたわ。私には贅沢過ぎるわ、それにお値段もビックリ!!」
次回に続く