想い出は風の彼方に(25)

吉村が言う様に、綾子の料理の腕前は中々の物だった。じゃがいもの煮ころがし、細切りのきんぴらごぼう、刺身の盛り合わせ、味噌汁の味も良かった。成る程、今の高2の女の子で、ここまで料理の出来る子はいないだろう。彼等の母親も加わり、楽しい夕餉の時が流れた。雑談の合間に母親が、
「綾子が大学に行きたいって言うのよ。兄の徹夫が高校中退だと言うのに、その妹が大学に行くなんて…ちょっと悩んでしまうけど、浩司さんはどう思います?」
私は味噌汁をこぼしそうになりながら、辛うじて答えた。
「おばさんの悩みは尤もですが、吉村の意見はどうなの?」
「俺としては、綾子の希望通りにしてやりたいと思っているのさ。俺の場合は、偶々(たまたま)親父が病気で倒れてしまったので仕方なく家業を継いでしまったが、今は家も落ち着いて綾子を大学に行かせる事ぐらいは出来るよ」
同じ二十歳と言っても学生と社会人とでは、ここまで違うのだ。
改めて私は軽いショックを覚えた。未だ親から、あの手この手で小遣いをせびり勉強こそしてはいたものの、一方では飲み代(しろ)を捻出する事に汲々としている自分がいるのに、吉村のこの堂々たる妹への労わりは何だ!
恥ずかしさで身の竦(すく)む思いだ。医学部に合格したぐらいの事で何か有頂天になっていたのではないか、人間の価値とは何かを考えずにはいられなかった。
彼の母親がしみじみと語った。
「それでもね、徹夫が何か不憫に感じてしまうのよ。二十歳と言えば未だ遊びたい年頃なのに、殆んど一人で一家を支えているんだもの。自分は朝から晩まで働きづくめで妹は大学まで行かせようなんて、墓の下で亡くなったお父さんがこの子に手を合わせて感謝しているに違いないわ」
吉村は照れ笑いしながら、
「お母さん、何もそこまで大袈裟に考える事もないだろう。俺は大体が勉強なんか好きじゃあないのよ。酒瓶を担いでいるのが性に合っているのさ。それに比べ綾子は上の学校に行きたがっているだけじゃあないか!
お母さんが言う様な大仰な話ではないよ。夫々が好きな事を目指しているだけの事だ」
何と言う男振りだ!
自分はこの吉村の足元にも及ばないと、考えずにはいられなかった。しかし、これ以上湿っぽい話を続けていても仕方がないので私から話題を変えた。
「綾ちゃんが大学に行きたいのは素晴らしい事だと思うけど、具体的にはどんな方面に進みたいの?」
と、私から彼女に問い返した。
「未だ、そこまで突き詰めて考えてはいないんだけど、出来たら手に職を持ちたいの」
「獣医とか、歯医者さんとか、あるいは税理士とか言った資格が目的なの?」
「うん、未だ何かぼやっとしているんだけど…出来たら医療関係が良いかな!」
「それはお前の影響だと思うな」
と、横から吉村が口を挟んだ。綾子が幾らか恥ずかし気に…
「それは否定しないけど、でも人間の命に関わる仕事って少し魅力を感じるのは事実だわ」
「ふ~ん、そうなんだ。こんな俺で良ければ何か助言ぐらいなら惜しまないよ」
次回に続く

想い出は風の彼方に(24)

春合宿が終わると、四月の新学期までは何の用事も無い。久しぶりに酒屋の吉村の家にでも遊びに行ってみる。昼過ぎのせいか、彼は暇そうに店番をしていた。私の顔を見るなり、
「何だ、その真っ黒な顔は…」
と、尋ねて来た。
「何、部活で四国まで行って来たんだ」
「部活か…」
吉村は少し羨まし気な顔をした。
「何のクラブに入ったのだ?」
それでも彼は幾らか興味を示した。
「ワンダーフォーゲルだ」
と、私は無造作に答えた。
「何だ、そのワンダーフォーゲルって言うのは…」
「まあ簡単に言えば、山歩きが中心のハイキング部かな」
「へぇ、随分と気楽そうなクラブだな」
「ところが、そんなに楽でもないんだ。40kg近い荷物を背負って10日も山の中を登ったり降りたりして、かなり厳しいんだ」
吉村は少し感心した様に、
「それでお前の身体も引き締まって来たのか。以前はもっとポッチャリしていたのにな…」
「吉村にそんな言われ方をすると何だか恥ずかしいよ」
「どうして?」
「だって、お前の様に労働で鍛えた身体とは違うし」
そんな二人の会話の最中に、綾子が帰って来た。
「あら篠木さん、お久しぶりね。一年ぶりくらいかしら…」
久しぶりに会う綾子だが、私には妙に眩(まぶ)しく輝いて見えた。わずか一年の間に若い女性とは、こんなにも変わってしまうものか?
我知らず、顔が紅くなって行く自分に当惑していた。
「でも随分と真っ黒ね、身体も引き締まって…ちょっと良い男になったんじゃない」
「兄貴の友だちを揶揄(からか)うもんじゃあない」
そう言って吉村が、少しばかり綾子を睨んだ。
「あら、悪口を言った訳じゃあないんだし、感じたままを言っただけよ」
吉村が私の方に向き直り、
「高校に入ってから、こいつは生意気になって困っているのよ」
「女の子は基本的に口が早いから、今頃の高2だと普通じゃあない」
彼女の顔には目を向けず、私はさらりと言葉をはぐらかした。
「そうよ、兄ちゃんは仕事一筋だから…世間の事は何も知らないんだ」
「全く、お前の口には勝てないよ。もう分かったから夕食の支度にでも行きな。篠木にも何かご馳走してやってくれ…」
「いや、俺は良いよ」
私は一応辞退した。
「そう言うな、久しぶりに来たのだから飯ぐらい食べていけよ。お前の大学生活の話も聞きたいしな」
「そうか、それなら言葉に甘えてご馳走になって行くか。綾ちゃん、甘えても良いかい?」
「もちろんよ、ろくな物は作れないけど…皆んなでご飯を食べる方が楽しそうだわ」
綾子は満面の笑みを浮かべて答えた。
「こいつ、ああは言っているがお袋にかなり鍛えられているからそれなりの物は作れるよ」
「お兄ちゃん、変なプレッシャーを与えないで…私自信がなくなるから」
次回に続く

想い出は風の彼方に(23)

春合宿は追試験も全て終了した3月中旬から10日間に及んだ。場所は四国の大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)だった。追試験で留年生が18名も出てしまい、新入生5名中の2名が合宿辞退となってしまった。昨年の30名には至らなかったが、140人中で18人と云うのはそれでもショッキングな数字だ。
合宿中にも、しばしばその話題が出た。
「えっ、あいつも落ちたのか?
何の科目で引っ掛けられたのだ…
何だって、哲学で落ちたのか!」
別の先輩は
「医学部に入って、哲学なんかで落第したなんて聞いたら親は情け無いだろな」
などと、溜め息を付いていた。
それはそれとして、新入生が二人も欠如したので私達にかかる負担は相当に厳しい。
四国とは言え、3月の水は未だ冷たい。飯盒の米を洗う手が冷たさで痺れて来る時がある。先輩への給仕も頻回で忙しい。自分の茶碗には山盛りにして、出来る限りご飯を押し込む。そうやって自分の食べる分だけは何とか確保するのだ。まごまごと先輩の給仕に追われていると、自分が食べるタイミングを失ってしまう。この過酷な合宿中には食べる事と寝る事が最重要だ。1日に8時間は歩き続ける。50分に10分の休みがあるものの、天気図の確認、予定通りのスケジュールが熟されているか、次の水場は確保されているかのチェックポイントは幾つもある。
この一年間の6回の合宿で、それなりの熟練度も達成しているが、そうは言っても未だ一年生だ。未熟な部分も多い。それでも徳島の大歩危小歩危の峡谷美は圧巻である。日本の自然美を心行くまで味わって幸福だった。辛い合宿生活が続く中で何度も挫折しそうな思いに駆られた事も多かったが、この春合宿は厳しいなりに充実感も強くした。大学合格時には、ブヨブヨだった体躯も10kgは体重が落ちてスリムな筋肉質の体型に様変わりしていた。40kg近いザックを背負って、1日に8時間も歩き続けるのだ。そんな生活を10日も過ごすのだから、どんなに食べても肥るなんて事はあり得ない。しかし、そんな合宿で最も閉口するのは10日前後も一切風呂に入らず、下着も全く替えない事だ。合宿の途中過程で稀にバスに乗ったりする事もあったが、そんな時は多くの乗客が必ず私達を避けて通る。だって、その悪臭たるや乞食の集団そのものだったから。
しかし若さと云う者は、図太いもので部員の誰もそんな事は気にしていなかった。こうして私も少しづつ汚い山男にと成長して行った。
どんなに長い合宿生活でも下着は常に一揃いだけである。一度も下山する事のない山歩きをする為に必要な食糧の重量はかなり厳しく、余分な下着を持ち歩く気分にはなれなかった。
その掛け替えの無い一揃いの下着は合宿解散後の入浴時に使用するものだ。もちろん、それまでの下着は全て捨て去る。そんな変色した下着は二度と身に着ける気にはなれない。そして入浴後の解散式には浴びるほどビールや日本酒を飲み尽くした。一人で650mlの瓶ビールの6本や7本は平気で飲んでいた。焼き鳥も20~30本ぐらいは食べていたかもしれない。
次回に続く

想い出は風の彼方に(22)

この問題は学部長を経て教授会に諮られた。かの講師も問責の席に呼ばれた。彼は自己主張を堂々と述べた。
「医学部の学生と雖(いえど)も核医学や放射性同位元素を扱っているので物理学の素養は絶対に必要であると思いますが…」
と、自己の正当性を訴えた。これに対して核医学の専門医からは、
「物理学専攻の学生が知るべき基礎学力とは区別があって当然ではないか」
との、反論が投げかけられた。さらに試験問題の難易度にも分析が入れられ、医学生が本来知るべき知識からも大きく逸脱し専門性に走り過ぎているとの指摘も受けた。多くの議論が噴出して、物理学講師の立場はどんどん悪くなって行った。学生の半分以上が0点しか取れないテストに疑問を投げかける教授陣も多くいて、素養としての知識と趣味的な問題を取り違えているのではないかとの疑問も投じられた。
30代前半の物理学講師は、自己の立場が少しづつ逆境に立たさられている状況を理解しはじめた。
「教育の理念は、自己の専門知識をただ押し付ける事ではない」
と、述べる教授陣もいて若い少壮学者は返答に窮していた。
この日の教授会の結論は、前回の試験は無効として1年生全員に再試験を受けさせるべきだとの意見で多数の教授達が同意した。
前代未聞の結論であったが、物理学講師も承諾した。講師は自分が就任する前の3年間に及ぶ過去問を整理して再試験の問題を作り直した。テスト結果は平均が56点だった。60点未満の学生にはレポート作成が義務付けられて、それにより全ての学生に及第点が与えられた。
かく言う私もレポート組で、このレポート問題に3日間も悪戦苦闘した。
一方のクラブ活動は、夏合宿の早池峰山(岩手県)と秋合宿の北アルプスを通じて私の体力も向上して行った。こうして一年間の学生生活は、あっと言う間に過ぎて行った。学年末の試験で追試験は一つもかからず、2月中旬からは授業も終わり悠々自適な生活を楽しんでいた。カント、ニーチェなどを読み漁っていた時期でもある。
ちなみに、この追試験に一つもかからなかったのは学年140人中で16名だけであった。
この結果を見て父は大いに喜び、私への信頼感が増して、どんなに哲学書を読んでいても叱られる事はなくなった。
それ以外に私はタバコを吸い始めていた。高校時代にもタバコを吸っていた同級生は多かったが、それらは三流校の劣等生ばかりである。そんな彼等には常に蔑視的な思惑でいたからタバコへの興味はまるで無かった。
それが大学に入って、自分より優れた学生の多くがタバコを日常的に愛用しているのを目の当たりにして、私のタバコに対する偏見はすっかり消えた。
それどころか、タバコを吸っていない自分が子供に見え出した。アルコールも覚えた。特に合宿の後の解散日には浴びるほど飲んでいた。年も二十歳を過ぎたし、何が悪いのだ。大学に合格した日の父の訓戒は完全に忘れ去っていた。
次回に続く

想い出は風の彼方に(21)

問題の発火点は、昨日教室の後ろに掲示された物理学の成績表にあった。一年生140名の半分以上が0点なのだ。最高得点は12点と云う散々な成績だ。その最高得点者も今年、早稲田の理工学部から転入して来た生徒である。
物理学の教師は昨年に東工大から赴任して来た非常勤講師だ。今年の新入合格者は110名だったから、30名の留年生で私達の学年は140名に膨れ上がっていた。その30名の留年生の内25名が新任の物理学講師によって落第させられたとの話だから、事は重大である。大学側も初年度の事なので知らぬ間に見落としていた。
しかし、毎年の様に一学年で25名もの留年生を物理学だけで出されたのでは学校運営から言っても好ましくはない。
そして今回のこの成績だ、昨年の事があるので生徒達の多くは教養学部の部長に談判を申し入れた。
生徒達の抗議内容は、
「学年の半分以上が0点しか取れない成績なんて、テストの名前に値しないじゃあないですか?」
と云う話しだが、物理学講師の言い分は…
「この問題は東工大の物理学の生徒にも出している似たような物だから、出来ないのは君達の不勉強が原因だろう」
との、突っ張り方だ。その返答を聞いてクラス委員の松宮が挙手をして発言を求めた。
「先生、それは理屈が通らない説明ですよ。ここは医学部で、物理学部ではないですよ。ロシア文学専攻の学生に中国語の試験問題を出して、出来ないのは君達の不勉強が原因だと言っているのと同じではないですか」
講師はムッとなってさらに言い直した。
「それこそ、君達の屁理屈だろう。物理学と云うのは、この大学では正規の授業として義務付けられているものだ。その問題がまともに解けないと云うのは誰の責任だ。自分達の不勉強を棚に上げて、教師の私に食ってかかると云うのは了見違いだろう」
そこに教養学部の部長が中に割って入った。
「先生のご説明も充分に理解出来ますが、一般に良質な試験問題と云うのは学生の平均点が60点近く取れるのを目標として作成されるべきものだと私は考えます。学生の半分以上が0点しか取れないテスト問題とは、失礼ですが先生の授業の形態が、無効と断じられてしかるべきでしょう。私は学生の肩だけを持つばかりに見えますが、良質な分かり易い授業を考えだすのも教師の大きい一つの仕事なのです。東工大の物理学の生徒がどんな良い成績が取れたと云う事実と今回の問題は本当は見当違いの考えではないでしょうか。良質の教師があってこそ、良質の生徒は育つのです。学者の感覚だけでは健全な学生の精神は育ちにくいと思いますがね。先生、分かりますか、教育とは育て上げる事なのです。自分の得意分野だけを話していれば良いと言うものではないでしょう。
現に、ここの学生だって数学や化学ではそれなりの成績を上げているのです。物理だけが極端に成績が悪いのです。それを教える先生にも問題はあるでしょう!」
学部長は、そう言い切った。
次回に続く

想い出は風の彼方に(20)

大学の授業は、語学が数多く大変だった。昨今の医学部と違って当時は教養課程が充実していた。語学は英語、ドイツ語、ラテン語が必須で、フランス語とギリシャ語が選択であった。歴史、哲学、国語、物理、数学、政治経済などの教養科目もかなり豊富にあった。
医学部に入ったと云うよりは、通常の総合大学の授業内容と変化がなかった。
予備校時代から、英語の習得には英字新聞を読む習慣を身に付ける事が最大の近道だと、散々に予備校教師から聞かされていた。そんな理由から18才後半から毎日、英字新聞を読む事が日常化していた。語学と云うものは一つの言語をしっかりと身に付けてしまうと、そこから派生的にドイツ語、ラテン語と苦もなくマスター出来る傾向が強い。特にラテン語はヨーロッパ言語の根源であるから、それを習得する意味は大きい。
さらに哲学は自然科学の中心で、人類叡智の源と言えるから哲学的な発想の乏しい人間は、医者と雖もただの職人に過ぎない。
私は元来が大好きな哲学の分野には砂地に水が吸い込まれるように夢中になって行った。
特に夏休みの哲学の宿題は自由タイトルであった。そこで私はセーレン・オービエ・キェルケゴールの「死に至る病」の感想を書きまくった。宿題の領域(30~50枚)を超えて原稿用紙100枚以上は書き上げた。その時の私と言えばキェルケゴールの感想文を書く事に限り無い喜びを覚えていた。宿題とは無縁の世界にいたのだ。
夏休みが終わり、9月も半ばを過ぎた頃、私は哲学の教師に呼び出された。10畳ほどの教室に招き入れられ突然に賛辞の声で迎えられた。
「篠木くん、君のレポートは読ませてもらった。恥ずかしながら私は一人泣いた。未だ日本にもこれだけ哲学の何たるかを理解する青年がいる事を知って…誤字、脱字は少しあったがね。でも、そんな些末なことは問題にならない。君の哲学に対する真摯な態度だ。君はレポートの冒頭に書いているね。
「哲学とは、人間が人間として存在する尊厳の根本であると」
私は、この一文だけで満点だと感じたよ。キェルケゴールの考察には私は教師として君に脱帽するしかない。肉体と精神の相克を実に見事に書き示している。君は以前からキェルケゴールの事はずいぶん詳しいようだね」
「はい、高2の時からキェルケゴールは愛読していましたから…」
教師は感心した様に、
「道理で、こんなに詳しいレポートが書けるのか…私もこの大学で哲学の講義を受け持つ様になって、こんな素晴らしいレポートに初めて接したので、つい年甲斐もなく感動してしまった様だ。悪かったね、忙しい所をわざわざ呼び出したりして…」
「いえ、貴重なご教示を色々と有難うございました」
そうやって意気揚々と教室を出たのは良かったが、外の世界では正に嵐の渦が吹き荒れようとしていた。私の所属する教室では決起大会が開かれていたのだ。それも物理学教師の解雇問題を巡って、クラス中から罵声にも似た意見が交わされていた。
次回に続く

想い出は風の彼方に(19)

大学に入って最初の問題はクラブ活動をどうするかだ。卓球部、水泳部、スキー部、山岳部と勧誘も多く迷ってしまう。これまでの学校生活ではクラブ活動がまともに続いた経験がない。
しかし医学部だと、そうは行かない気がする。大学生活だけではなく、医者と云う進路方向が同一なので付き合いが相当に長くなるようだ。人間関係も職業上の付き合いから言っても極めて重要な感じがする。
入学式の学長挨拶でも、クラブ活動が人間形成から言っても大きな要素になると説明された。迷いに迷ったあげく、ワンダーフォーゲルに入部を決めた。山岳部と違って冬山はやらず、冬はスキー合宿で代行すると云うのが気に入った。雰囲気も何か楽しそうだった。
入部して一番厳しかったのは、何と言っても基礎体力向上の陸トレだった。2年間の受験生活で体力はかなり落ちていた。週に2度の4~5kmのマラソンと腕立て伏せが辛かった。月に一度ぐらいは何かと理由をつけてサボった。
春のゴールデンウィークが最初の合宿で、場所は尾瀬の燧ヶ岳(ひうちだけ)だった。水芭蕉が見ごろである6月とは違って、4月下旬の尾瀬は積雪がかなり深い。まるで冬山と変わらない。メインルートを一歩でも踏み外すと、ズブっと首まで雪の中に埋まってしまう。20数名の部員が一列に並んで、リーダーの指導の元でただ前の部員の脚だけを見て歩く。雪山の風景を楽しむ余裕などまるで無い。50分の行進と10分の休憩で、起床は5時半、冷たい雪溶けの水で朝食の支度だ。手が凍る様に冷たい。雪の上にグランドシーツを敷いて、エアーマットの上に寝袋を置いて眠る。起床から朝食を終えてテントを撤収し出発まで2時間以内で済ませるのがルールである。
それでも、この合宿は「新人歓迎合宿」との名目なので私たち新人5人には比較的に楽だった。
4泊5日の合宿なので、食糧だけでもかなりの重さになる。通常は1年生の背負う荷物が一番重く、ザックに入れる食糧やテントが35kg以上にはなる。
しかし、この新人歓迎合宿では30kg以下であった。その分だけ2年生は重いザックを背負わされた。
だがザックの荷物が少しばかり軽いと云っても新人の私たちには厳しい行程だった。夕食時に見上げる燧ヶ岳の夕暮れは涙が出るほど美しかった。苦労を重ねた後の自然の光景は、その感動も心に沁みて来る。渇き切った喉には一杯の水が何よりの美味に感じるように…
しかし、そんな感慨に耽る間も無く夕食の後片付けが直ぐに始まり寝る準備にかかる。消灯時間は9時である。合宿中の飲酒やラジオ放送を聞くのは厳禁である。ラジオを聞くのは1日に2度、朝と夕方の天気予報である。この時は全員が座って自分なりの天気図を作成しなければならない。NHK第二の天気解説は新人には早すぎて、なかなか満足な天気図が作成出来ない。天気図の解読と登山地図が読める様になって、やっと部員として一人前だと認められる。
何だかんだと言っても、この最初の合宿は乗り切った。家に帰り、乞食の様に汚れ切った私を見て…
「どうだい、山の景色は素晴らしかったかい?」
と母に尋ねられたが、
「いや、ずっと前の奴の脚しか見えなかった」
そんな答えが、私の偽らざる気持ちであった。
次回に続く

想い出は風の彼方に(18)

ともかく父のスパルタ教育は激しかった。私は元来が左利きだったが、この矯正の仕方も半端ではなかった。5才頃から食事の度に左手で箸を握ろうとすると、その左手を散々に叩かれた。その為に父の前では怖くて食事も満足に取れない事が半年ほどは続いた。もちろん鉛筆の持ち方にしても左手を使う事は絶対に許されなかった。
そんな父親の努力が実って、小学校に上がる時分には何とか右手で字が書けるようになっていた。自分の名前が書ける程度の事でしかなかったが。
4月、晴れて大学入学式を迎えた。父はどうしても自分が付き添うと言い張った。
「お前は家で赤飯でも炊いて待っていろ!」
と、母に言い捨てて二人だけで出かけた。以前の高校の卒業式と比べると、堂々たる入学式である。これで自分たちは医者になるのだと云う、限りない未来への夢が満ち溢れていた。親と学生たちの顔は皆んな、誇りに輝いていた。中には国立は落ちて私立に来てしまったと云う、幾らか劣等意識を持った人間も数名はいたが、それは一時の敗北感だけであって誰の頭(こうべ)にも未来の道は明るく開けていた。入学式の後は懇親会が催されていて全員が参加した。保護者はビールで、学生はコーラで乾杯した。高揚した意識で父と私は食べ物に、殆んど手を付けなかった。用意された食事はホテルからのケータリングで何れも美味しそうだったが…父は終始ニコニコと上機嫌だった。
二人が家に戻ったのは4時近くだった。母が居間から顔を出して、
「入学式はどうだった?」
と、私たちに尋ねた。
「いゃあ素晴らしかった。お前にも見せたかったぐらいだった」
と、父は嬉しそうに答えた。自分が母を除(の)け者にした事はすっかり忘れている。居間で母に出されたお茶を飲んでいたが、突然父が思い出したかの様に私に向かって話し出した。
「浩司、お前も今日からは立派な大学生だ。自分の努力で望み通り医学部にも合格できた。その事は俺も認める。言うまでも無い事だが大学と云うのは勉強する為に行く所だ。二十歳を過ぎても酒やタバコは断じて許さないから、そう心しろ。大体が親の金で大学に行かせてもらっている間は酒やタバコなんて、とんでもない話しだ。
そんな事は自分の金で稼ぐ様になってする事だ、分かったな!」
父は一人タバコを吸いながら、私にそう訓戒をたれた。
「それなら、あなたもタバコを止めたら。どっちにしたって健康には良くないでしょう。先ずは父親から見本をお見せになったら…」
そう横から母が口を出すと、
「お前は黙ってろ。これは男同士の話しだ」
と言って、母の顔を睨みつけた。
「男同士ね…」
と、独り言の様に言って母は台所の方に去って行った。
「ともかく、余計な事は考えずに勉強する事だ。大人が一生懸命に働いて家族に飯を食わせる様に、大学生はただ勉強して社会人として役に立つ様になるため努力する事だ」
「はい、分かりました」
そう答えるしか、私にはなかった。
次回に続く