想い出は風の彼方に(11)

叔父は私の父に向き直り、
「浩司から大方の話は聞きました。弟の私がこんな事を言うのも出過ぎた真似(まね)かもしれませんし、兄貴にも色々と考えはあるでしょう。でも、浩司だって18才ですよ。一昔前なら元服を挙げていたっておかしくない年じゃあないですか。
それに、子供なんて所詮は親の思い通りに育つもんではないでしょう。兄貴だって、俺だって死んだ親父の意向とは全く違った人生を歩いているじゃあないですか。
本人が医学部を受験したいって言っているんだ、何が理由でそんな決意を固めたって良いじゃあないですか。それが動機で、この一年間は猛烈に勉強しているって話しなんでしょう。立派な事じゃあないですか、うちの中3の坊主なんか野球クラブに熱中して日曜だって家にいたためしがないんですよ。親の私が何を言ったって、プロ野球の選手になるって言ってばかりで勉強なんかしているのは見た事もないんだ。
それに比べ浩司なんか、この秋の校内模試で一番の成績だって言うじゃあないですか。大したもんだ」
父親が急にムッとした顔になって言い返した。元々が仲の良い兄弟なので、話に遠慮がない。
「校内模試で一番だって言ったって、あんな三流校じゃあ医学部に合格するもんか。それに浩司は昔から、むらっ気が多くてどんな事にも長続きしないんだ。医学部なんて大学だけで6年間もあって、それを卒業したって10年近い修業時代が続くって話しだ。そんな長丁場、浩司が忍耐出来るもんか、親の目にはとても無理だと思うよ」
私は自分の膝頭を震わせながら、
「お父さん、僕にもう一度だけチャンスを下さい。これまでの僕は確かに何をやっても長続きしませんでした。でも今度だけは何かが違うって気がしてならないんです。どうか、お願いです」
そう言って、父親に深々と頭を下げた。
「兄貴、浩司もここまで言っているんだ。俺からも頼むよ…な!」
父は仏頂面(ぶっちょうつら)をしながら、
「本当にお前は心の底から医学部に行きたいと言うのか。今までの様に決してあれこれ迷う事はないのだな」
「はい、必ず合格するまで脇目は振りません」
「よし、そこまで言うのなら許してやる。『一念岩をも徹す』ぐらいの意気込みを忘れずに頑張れ!」
と、言い残し席を立った。
その後は叔父と二人で父の部屋に行き、碁を打ち始めた。
これで第一関門は突破した。
年の暮からは正月も忘れ、勉学に励んだ。公立の過去問は何処も手強かった。国語以外の科目は規定時間以内に全問を解き明かせなかった。数学は規定の倍以上の時間をかけて8割の正解がやっとだった。英語も文法は何とか熟(こな)したが長文には手間がかかり、ミスも多かった。結局、現役合格は夢で終わった。4校の国公立を受けるも一校だけが一次試験を通過したに過ぎない。
父親は始めから分かっていたのか、不合格の結果には何も言わなかった。むしろ一校でも一次試験に合格したので驚いていた様だ。後で母から聞かされた話しである。
次回に続く

想い出は風の彼方に(10)

「いえ、ちょっと前にラーメンと餃子を食べたから今は大丈夫」
「そうなの、じゃあ…お風呂に入っていらっしゃい」
そう言えば昨晩は風呂に入っていなかった事を思い出し、
「じゃあ、お風呂に入って来ます」
と、私は言って風呂場に向かう。
「下着はあるの?」
と、叔母が追いかける様に聞いて来た。
「ちゃんと持っていますから大丈夫…」
と答えると、叔母が
「ずいぶんと用意が良いのね」
と呆れた調子で、顔をしかめた。家出の確信犯を見る視線だと、私は感じた。
夜になって叔父が帰って来た。家族の夕食は終え、叔父はビールを飲みながら…
「浩司、今回の家出の原因は何だ?」
と、斬り込む様に聞いて来た。父親ほどではないが、この叔父もそれなりに恐い。私はこれまでの経過を出来る限り素直に説明した。
さらに自分が何故「医学部」を志望するに至ったかも話した。話す間に私の言葉も少しづつ熱を帯びて来た。
「そんな訳で、僕は心の病を治す医者に成りたいのです。それを父は嘲笑って相手にしてくれませんでした。家の帳簿を付けられる様に成れば、それで十分だと言い張るのです。私には一生帳簿だけ付けて過ごす人生なんて考えられません。
だから家出を決断したのです」
「成る程な、それで浩司は医学部に合格する自信はあるのか?」
「自信って聞かれると、そんなには堂々と胸を張って答えられるだけの学力が身に付いたとは未だ言い切れません。それでも先日の校内模試では学年で一番になりました。一年前までは中以下の成績だった僕がです」
「それを兄貴は知っているのか?」
「もちろんです。でも僕が通っている高校で一番になったくらいで医学部を志望するなんてのは、考えが甘いと思っているんです」
「でもお前の努力は立派なもんだ。『鶏頭になるも、牛尾になるなかれ』と云う格言もあるくらいだから、いくら三流高校とは言え一番に成ると云うのは認められて良いだろう。努力こそ、人生だ!
よし、俺が兄貴に掛け合ってやる。明日にでもお前と一緒に行って兄貴を口説いてやる」
「僕も一緒に行くのですか…!」
「当たり前だ、お前自身の事だろう。兄貴の恐さは俺も知っているつもりだ。それでも自分の事を他人任せでは仕方がないだろう。心配するな、俺が責任を持って兄貴を納得させるから…」
翌日の夕方近くに、私は叔父の後に従って恐々と実家の門を潜(くぐ)った。予(あらかじ)め、叔母が電話で知らせておいたので父と母は居間で私たちを待ち構えていた。
「この度は浩司の事で次雄(つぐお)さんには、大変な迷惑をかけて済みませんでした」
と、先ず母が叔父に礼を言った。
叔父は照れ笑いをしながら、
「別に何が迷惑ですか、肉親の浩司の将来がかかった重要な事じゃあないですか。私だって子供を二人抱えているんです。とても、他人事とは思えませんよ」
叔父は母の挨拶を利用するかの様に、早くも説得の口火を切った。
次回に続く

想い出は風の彼方に(9)

翌朝は礼を言って吉村の家を出た。私服のままでは学校にも行かれず、近くの図書館に行って勉強をした。志望する大学の過去問に挑戦する。英語の問題が、かなり難解だ。サマセット・モームの長文である。分からない単語が随所にある。英和辞典を片手に2時間以上もかけて何とか和訳する。模範回答を読み返すと、かなりの誤訳が目立つ。このモームの「人間の絆」は、モーム自身が医者になって書き上げた自伝的小説である。私の現在の心境と幾らか相通じる所もあって、途中からは過去問に取り組むと云うよりは自己陶酔型の意訳(異訳?)が多くなっている。私の最も悪い癖が露骨に出ていた。試験問題に立ち向かっている間に、何時の間にか文学作品の世界に入り込んでしまうのだ。英語、現代国語、古典などの解釈でも、この性癖が時に出てしまう。
その結果、驚くほど適切な回答に導かれる事もあれば、問題の趣旨とまるで関係のない意味不明の回答を書いてしまったりする事もあった。
模範回答と照らし合わせている間に絶望的な焦りを感じる。
「やはり医者に成りたいなどと云う思いは、この自己陶酔型の性癖の為せる業(わざ)か?」
父親の言っている話も、それなりの的を得ているのかもしれない。
自己嫌悪を味わいながら図書館を出る。それでも何故か空腹感だけは人並みに感じている。そんな自分を呪いながらも、中華料理屋に入ってラーメンと餃子を食べる。
昼食を済ませて考える、さて今夜はどうするかを…。期末試験は終了しているので、このまま学校に行かなくても数日間で冬休みに入ってしまう。まさか出席日数が足りないなんて事は起きようもない。
公園のベンチでしばらく座っているが、北風が強く寒さが厳しい。
当時、高校生の私には一人で旅館に泊まると云う発想は未だ持ち合わせていなかった。
あれこれ考えた挙句、下北沢の叔父の家に行ってみる事にした。父親の二番目の弟で、中3と中1の子供二人がいる。父親とは碁敵で週に一回ぐらいはどちらかの家で夜を明かす事もある。その意味では今夜にも父親と鉢合わせをする危険がある。そうは言っても他の親戚は皆んな遠くに離れている。
前もって下北沢の家に電話で、探りを入れてみた。叔母が直ぐに出た。
「あれ、浩ちゃん。いま何処にいるの?…昨晩から何度もお母さんから電話がかかって来て、皆んな心配しているわよ」
「あの今晩、泊まっても良いですか?」
「良いも悪いもないでしょう。直ぐにいらっしゃい!」
「でも、僕が行くまでは父と母に何も話さないで下さいね」
「分かったから、ともかく早く来るのよ。ご飯はちゃんと食べているの?」
「はい、大丈夫です。叔父さんは何処にいるのですか?」
「心配はないわよ、仕事で出かけているから。それに浩ちゃんのお父さんも今晩は家に来る予定はないから…」
叔母は私の不安を見抜いて、安堵の言葉を投げかけてくれた。下北沢の家に着いたのは4時過ぎだった。玄関の呼鈴(よびりん)を押す間も無く叔母が出て来た。
「さあ、家に上がって…何か食べる」
と、叔母は心配そうに私の顔を見た。
次回に続く

想い出は風の彼方に(8)

夕食の支度を待つ間、吉村が思い出した様に言い出した。
「篠木、お前。この頃はすっかりガリ勉になったんだってな」
「誰がそんな事を言っているんだ」
「誰って事もないが、秋の校内模試では1番だったって皆んなの噂になっているぜ。ガセネタか?」
「まあ、ガセネタって言う訳でもないが、ガリ勉は言い過ぎだろう」
私は少し恥ずかしそう顔を紅らめた。
「だって、高1の時は俺と同様に成績はいつも下の方をウロチョロしていたじゃあないか。それが650人中1番って云うのは、どういう訳だ!…まさか、カンニングだけじゃあ1番には成れないだろうが」
「実は今日は、その事で親父から散々に嫌味を言われたんだ」
「何だ、それは。成績が上がって嫌味を言われたのか?」
「そう言う意味ではないが、俺が急に医学部に行きたいと言ったもんで、親父が呆れかえって俺みたいな出来そこないには無理だから馬鹿な夢を見るのも大概にしろって、怒鳴ったんだ!」
「成る程な、うちの高校から医学部に行ったなんて奴は一人もいないな。学年で一番って言ったって早稲田か慶応か、それさえ数年に一人ぐらいだろう。親父さんが言うのも、もっともな話かもしれない」
親友の吉村にそう言われ、私は忘れかけた興奮がまた蘇(よみがえ)って来た。
「吉村、お前までそんな事を言うのか。誰が何と言っても俺は医者に成りたいのだ」
「そこまで言うのなら、医者に成れば良いだろう。俺がとやかく言う事でもないからな」
綾子が心配そうに、
「もう、お兄ちゃんも篠木さんも言い争うのは止めて…折角のご飯が不味くなってしまうわ」
「すみません、勝手にやって来て皆さんに不快な思いをさせて」
私は何か居場所を失くす様な孤独感に襲われだした。
「良いのよ、若い時は大いにやり合って…それが若さの特権だもの。徹夫だって久しぶりに篠木くんと会えて、うれしいのよ。さあ、楽しくご飯を食べましょう」
彼の母親は鷹揚に笑ってテーブルの前に皆んなを座らせた。店の中からカニ缶を取り出し、キャベツと混ぜ合わせ即席の野菜炒めを器用に調理してテーブルの上に置いた。
「ご飯だけは沢山あるから、幾らでもお代わりしてね」
そう言い残して、台所に戻り今度はトン汁を作り始めた。
自分の突然の闖入(ちんにゅう)で、彼の母親をかなり忙しくさせてしまった事に申し訳なさを感じたが、緊張から解き放れたせいか私は猛烈な空腹感に襲われ出した。そして言われるままに3杯もお代わりをしてしまう。
そんな私を見て、彼の母親はニコニコと微笑んで…
「食べ盛りの男の子は良いわね、見ているだけで清々しい感じだわ」
と、娘の綾子と目を合わせていた。
私は食べるだけ食べると、すっかり興奮も覚め…
「ご馳走さまでした。お陰さまで気持ちも落ち着きました」
と、満足気に礼を述べた。
「それだけ食べれば気持ちも落ち着くだろう」
と、少しばかり吉村が嫌味な言い方をして、ニヤリと笑った。
次回に続く

想い出は風の彼方に(7)

父親の話はさらに続く。
「中学校に入って今度は、剣道をやりたいとお前は言い出した。映画で『宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘』を見て、剣こそ人の道…とか言い出して剣道部に入ったが、これも1年と続かなかった。それからしばらくして空手だったかな、あれは半年ぐらいで断念しただろう。そんなお前に医者など出来るものか、今度は何にかぶれたのだ」
私は消え入りそうな顔で、
「でも、お父さん。それは子供時代の話でしょう、この1年間の努力の成果を見て下さい。劣等生だった僕が今回の校内模試では1番になったんですよ」
「確かに、お前の顔つきが変わって来た事はお母さん共々気付いてはいた。学校での成績が飛躍的に上昇したのも喜んでいる。だからと言って、お前が考えるほど医者になるのは簡単ではない。基本的にお前は昔から懲りやすく、飽きやすいのだ。そんな性格を知り抜いているから医者などになるのは辞めた方が良いと言うのだ」
「しかし、お父さん」
「お父さんも糞もない。医者になどなりたいと言うのは、お前の一時の気まぐれだ」
「それは言い過ぎでは…!」
「黙れ、これ以上の口答えは許さない。お前は大学の商学部でも行って、家の帳簿でもつけていれば良いのだ」
そう言うなり父親は立ち上がって外に出てしまった。
私は一人戦慄(わなな)いて、屈辱感に震えていた。しかし、このまま黙って引き下がるつもりはなかった。
「一度家を出て、父親との距離を置くべきではないか。このままでは故なき力の行使に負けてしまうかもしれない」
そう考えた私は、家出の決意をする。ボストンバックに2、3日分の着替えを詰め込み、細やかな預金通帳を持ち出し、行く宛てのないまま冬の夕暮れにもかかわらず家を出てしまった。
始めは親戚の家にでも行くつもりでいたが、それだと直ぐに居場所が分かってしまう。あれやこれやと悩んだ末、酒屋の吉村の家に向かった。吉村の家に着いたのは7時過ぎで、彼の母親と妹の綾子さんが夕食の準備に追われているところだった。
突然の珍客に、皆んなは驚いて一斉に私の顔を見た。吉村が、
「どうした、こんな時間に…」
と、訝(いぶか)し気に尋ねて来た。
「すまない、家出をして来たんだ」
「家出…まあ、どうしたの!」
吉村の母親が心配そうに声をかけて来た。
「はい、父が私の話をまるで聞いてくれないもので仕方なく実力行使に出た訳ですが、ご迷惑とは思いますが一晩だけ泊めて頂けませんでしょうか」
「その事は構わないけど、お父さんやお母さんがご心配なさるでしょう」
「良いんです、少しぐらい心配をかけた方が…父は一方的で話にも全くならないんです」
「まあ、その辺の事情はゆっくり聞くとして飯でも食っていけや」
吉村はぶっきらぼうではあるが、優しく受けとめてくれた。
「そうね、何もないけど一緒に食事をしながら話を聞きましょうか」
彼の母親も気持ち良く同意してくれた。
次回に続く

想い出は風の彼方に(6)

まさに寝る間も惜しんで勉強した。幾つかの予備校で行なわれている公開模試にも積極的に参加した。段々と数学と云う数の定理にも魅力を感じ始めた。そこには紛れもない人類の叡智と真実が隠されている。ピタゴラスの定理を遅ればせながら(中学3年の過程)知り得た時は感動で心が振るえた。三角関数、統計、無限の数式には汲めども尽きない知識の泉が内蔵されているではないか?
解けぬ方程式の前で5時間も6時間も問題用紙を睨み続けながら、それでも飽きらめず解き明かした時の全身を貫く戦慄。また化学方程式の謎、芳香族化合物の囁き、これらの何も知らず生きて来た事への屈辱感、17才にして、こんなにも知らない事が多かったのか、改めてショックを覚える。しかし、一年間の死にものぐるいの勉強で高3秋の校内模試では、一躍学年トップに踊り出ていた。
わずか1年でも若い力には、無限の可能性が隠されていた。1年前の担任教師は何も言わなかった。
ただ同僚の教師に職員室で、
「自分も教員生活を30年以上もやっているが、若い人間の常軌を逸した爆発力が存在する事を始めて身近に見た」
と話していたとか、そんな噂を誰からともなく聞かされた。
その年の12月、学期末試験も終え一段落した日の夕方に私は始めて父親に医学部への志望を伝えた。
「医学部?」
父親は驚いた顔で、私を穴の空くほど見つめた。そして、
「医学部に行って、どうする…!」
と、尋ねて来た。私にとって父親は余りに恐い存在だった。高校に入っても未だ往復ピンタなどの制裁を、時に加えられたりしていた。夜遅くまでテレビを見ていたぐらいの事でだ。この1年はひたすら勉強ばかりしていたので、その様なパンチを浴びる事もなかったが。
しかし、幼い時からの癖で父親に真っ正面から話を切り出す時は常に緊張感を強いられた。
「お父さん、僕は医学部に入って人の心の病を治す医者になりたいのです」
と、恐る恐る答えた。
「ほう、人の心を治す医者にね…お前が何にかぶれて、そんな大それた考えを持つ様になったかは知らないが、辞めとけ。お前には無理だ。大体、医者なんてのは人が寝ている時間にも働かなきゃならないし、一時の気まぐれなんかで務まる仕事じゃあないんだ」
「でも、お父さん。僕は医者の仕事が自分の天職であると思うのです」
「天職…ね!」
やや下げすんだ視線で、父親は話を続けた。
「お前は小学5年になったばかりの時、泣きながら柔道をやらせて欲しいと言って、後楽園にある講道館に通い始めたよな。確か10ヶ月間ぐらいは毎日の様に都電に乗って練習に励んでいたみたいだった。ある日、お前は興奮して俺にこう言ったんだ。『僕は今日、三船十段に始めて稽古をつけてもらい、見どころのある少年だと褒められました。僕は講道館の鬼になって三船十段の薫陶(くんとう)を受けついで行きます』とか、言わなかったか?」
私は黙って話を聞いていた。
「それから半年もしない内に、昇級試合で1年下の5年生に投げ飛ばされ…お前はそれきり講道館に行かなくなってしまったな」
私は返す言葉もなく下を向いたままだった。
次回に続く

想い出は風の彼方に(5)

そんなイラ立ちを発散させる為に、何となく私の足が吉村の家に向いただけである。吉村は高2の1学期を最後にして正式に退学届を出していた。
吉村の家に行くのも4ヶ月ぶりぐらいになる。11月も中旬になって秋風もかなり冷たくなっているのに、彼は半ズボンにランニングシャツと云う格好で汗だくになって働いていた。とても自分の下らない愚痴を聞いてもらえる雰囲気ではなかった。
しかし、吉村の方から私を眼ざとく見つけ…
「おや、浩司じゃあないか?
学校はどうした、休みなのか」
と、懐かしげに声をかけて来た。
「うん、ちょっとお前に話がしたくなってな。でも、忙しそうだから帰るわ」
「あと少ししたら仕事が一段落するから、それまで待ってろよ。俺も久しぶりに話もしたいし…どうだ、コーラでも飲むか」
そう言って吉村は、私にコーラ一本を差し出した。
「悪いな、じゃあ遠慮なく…」
私はそう礼を言って、彼から受け取ったコーラを一気に飲み干した。喉の渇きが鎮まると共に私の興奮も少し覚めて来た。問屋から仕入れて来たアルコール類を倉庫に運び終えて、吉村もコーラを飲み出した。
「ところで、俺に話って何だい?」
「別にそんな大げさな内容でもないんだ。お前が汗水を流して働いている姿を見たら、とても俺の下らない話なんか恥ずかしくて出来なくなったよ」
「そうか、お前がそれで良いと言うなら無理に聞く事もないが…まあ、こんな俺で良ければ愚痴の一つや二つなら話してくれても構わないぜ」
「うん、有難う。お前の顔を見ただけで気がおさまったから、今日はこれで帰るよ。仕事の邪魔をして悪かったな」
「別にどうって事もないさ。気が向いたら何時でも来いよ」
「じゃあ、また来るよ。お前も頑張り過ぎないようにな」
そう言って、私は胸の鬱積を十分に晴らせないまま吉村と別れた。
同じ年頃の彼が汗水を流している姿を目の当たりにしては、私の夢想とも云える愚痴など話す勇気はなかった。後は家に帰って6畳間に所狭しと積み重ねられている本の山の中に寝るしかなかった。そんな寝具と乱雑な本の中で、私は男泣きをしていた。
「今に見ていろ、男がこうと決めたからには絶対にやり抜いてみせる。たかだか医学部じゃあないか、何も天下を取ろうとか云った大それた事でもあるまい。ひたすら勉強をすれば良いだけではないか…」
そう決意を決めると、後は何冊かの受験参考書を買い求めてガムシャラに勉強するばかりだ。自分の弱点を克明に分析して、同じ数学でも代数の方が多少なりとも理解しやすかったので、先ずは代数の攻略を…英語は英文法から先に手をつけて行くと云った具合に、夫々の学習方法を自分なりに考案して行った。ともかくは得意科目を少しでも多くして行く事が重要である。それが又、次の自信に繋がって行くからだ。
次回に続く

想い出は風の彼方に(4)

その年の11月に担任教師の前で
「先生、僕は将来医者になりたいのですが、この学校で何番ぐらいの席次になれば医学部に合格出来ますか?」
と、私は何の恐れもなく尋ねた。
教師は最初、私が何を言っているのか意味を理解しかねていた。
少し間をおいて
「医学部…!」
と聞き直して
「それは獣医とか、歯科技工士とかの医療関係の仕事に就きたいと云う意味か?」
と、怪訝(けげん)な顔で私を見た。
「いえ、内科とか外科とかある医学部です」
私は平然と答えた。教師は何か得体の知れない動物でも見る様な顔で…
「お前ね、医学部って誰にでも入れる所じゃあないんだよ。10月の校内模試の結果を知っているだろうが…あんな成績では医学部どころか、普通の4年制の大学だって合格出来る所は何処もないだろう。お前、何か夢を見ているのか。悪い夢なら早く覚めた方が良いぞ」
「でも先生、クラーク博士の『少年よ大志を抱け』と云う言葉もあるじゃあないですか」
「確かに、お前たち若い者が大きな夢を持つのは良い事だ。それにしても、物には程度と云うものがあるだろう。例え何かのコネがあって、お前が医学部に裏口入学出来たとしてもだ、その後はどうなる。医師の国家試験の道のりは遠いぞ。1学年ごとの進級だって2割近くは留年させられるんだ。そうなったら、お前は表からも裏からも出られないじゃあないか」
何と云う言い草だ。これが担任教師なのか…!
私は怒りで身体を振るわせながら
「分かりました。今日はこれで失礼します」
と言い残して、そのまま学校を出てしまった。家に帰るには未だ早すぎた。行く当てもないまま酒屋の吉村の家に向かった。彼は16才になると同時に軽自動車の運転免許を取り、高校を中退して酒屋の稼業を継いでいた。
母親と二人で、その後も細々と店を続けていた。彼の母親も41才と云う元気な盛りであった。下には4つ離れた妹がいたが、まだ小学生で仕事の戦力にはならなかった。
結局は吉村と母親の二人で酒屋の店を切り盛りするしかなかった。
それでも暮らし向きの事は何とか成り立っている。同じ16才とは言え、吉村には頭の下がる思いだ。
しかし今日の浩司は違っていた。
担任教師に散々馬鹿にされ、彼の心は激しく傷ついていた。
「どうして、俺が医学部に行かれないのだ。男がこうと思いついたら断固実行するべきだろう。今までの成績がどうのこうのなんて関係ないのだ。男が一度覚悟を決めたら、その時が出発点だろう。所詮、学校の教師なんて公務員の端くれだろう。ただその時の成績をみて愚かな進学指導をするに過ぎないのだ。
「男子の一徹」と云う言葉さえ知らないのに違いない。男がこうだと決めたからには絶対に遣り通すのだ。担任の馬鹿教師が何と言っても、絶対に医学部に合格してみせる。そうは思っても私は先程の屈辱感で、心のイラ立ちが収まらなかった。
次回に続く