想い出は風の彼方に(126)

    ーーー終章ーーー
浩司は支店長の話にかなり乗り気だった。しかし、綾子は消極的であった。確かに病院の経常利益は格段に向上したが、未だ5億円もの借金があるのだ。国は、とにかく医療費抑制政策に懸命になっている。この数年は老人ホームとの繋がりが増えてベッド稼働率は向上しているが、この先の事は不安定な要素が多すぎる。そんな綾子の考えに、
「今は責める時期だ。病院の運気は上昇傾向にある。老人ホームは増える一方じゃあないか、その連係を活かして病院のベッドは増やして行くべきだ。こんな絶好のタイミングを逃したら、後で後悔するのは目に見えている」
そう言って、浩司は病院の拡張計画を強く望んだ。しかし、綾子は妥協しなかった。
「あなたは何を望んでいるの?…良質の医療をしたいと言って今の病院を手掛けたのでしょう。それと病院の拡張計画とは結び付かないでしょう。ベッド数の多さと病院の質は結び付くとでも仰るの?…いま景気が良いからと言って、明日も好天の日が続くとは限らないのよ」
そう言われて、浩司は返す言葉がなかった。
その数年後、綾子の危惧は当たってしまった。老人ホームからの入院が激減し出したのだ。ホーム入所者の家族が、ホーム内での「看取り」を望むようになっていた。日本経済が一向に好転して来ない現状で、一般庶民の手取り収入が減少しているにもかかわらず、高齢者は増える一方では誰がそれを支えて行けると云うのだ。こうして病院のベッド稼働率は、また徐々に減少し始めた。
もしあの時、銀行の支店長の誘いに乗って新たな融資を受けていたら…そう考えるだけで綾子の心中には何とも言えない悪寒が走るのだった。
その後の「さくら町病院」が、どの様な流転を辿るのか筆者は知らない。
            ー完ー
次回の作品は「哀しみの果て」です。
引き続きお楽しみ頂ければ、幸いです。

想い出は風の彼方に(125)

それにしても病院の負債額が年々増加して行くのは、経理を扱っている綾子からすれば毎日が針の筵(むしろ)に座っている様だった。
この3月、長女の智美は現役で何とか公立の医学部に合格出来て、学費にかかる費用の心配だけからは解放された。それだけでも綾子の気持ちは、かなり楽だった。
無事に入学式も済んで桜の花も散り始めた4月半ば、ある知人の紹介で老人ホームの施設長から面談の申し入れを受けた。断る理由もないので、40代前半の施設長と面談する事になった。彼の相談内容とは、こうだった。
「これまでの配置医が高齢で老人ホームでの往診が厳しいと勤務の辞退を言われている。それで急なお話しで申し訳ないが、何とか『さくら町病院』で配置医の仕事を引き受けてもらえないか?」
との、申し入れである。渡りに船とは、この事で浩司は直ぐ快諾した。話はトントン拍子に進み2週間後の5月1日から、週1回の頻度で往診に行く事に決まった。
相手の老人ホームは、さくら町病院から車で10分程にある特別養護老人ホームであった。入所者は100名で週1回の午後3時間で25人づつ診て行く予定だった。1時半頃に病院を出て5時には戻れる計算だった。しかし初めての老人ホームでの往診は予想以上に時間がかかった。平均年齢84才の入所者は、正に病気のジャングルだった。高血圧、糖尿病、慢性心不全、脳血管障害の後遺症、腎不全そして認知症と病院での医療しか経験した事のない浩司にとって、それは困難極まりない仕事の山が眼前に巌の様に突き立つていた。とても3時間ぐらいで終わる内容ではなかった。
嚥下(えんげ)障害の強い老人も多く、誤嚥性肺炎で入院する入所者も多かった。仕事は厳しかったが、老人ホームからの入院は引っ切り無しでベッド稼働率は一気に向上した。それに伴い病院の経常利益は大幅な黒字に転化した。一年もしない間に別の老人ホームから、また配置医の依頼があった。浩司の忙しさは倍加したが、病院の黒字幅も拡大した。
さらに厚労省の意向で老人ホームの建築ラッシュが始まった。病院での医療費より、老人ホームでの介護費の方が割安だったので、医療費削減の効果が大きいと考えたのであろう。医療保険と介護保険の両立てで、何とか超高齢者社会を乗り越えようと計画したのだ。
しかし、一般国民の社会保障費は拡大する一方だった。給与所得から源泉徴収される金額も増える一方で、名目の年収が幾らか増えても手取り額は目減りするケースさえあった。国内の経済活動は縮小するばかりだ。抜本的な政策転換が必要であるのは言を俟(ま)たないが、赤字国債は増大し、この国の官僚体制では姑息的な数字合わせに終始するのみだ。
それでも、さくら町病院の黒字は増大して危機的な収益の悪化から逆転して銀行の融資額も確実に減って来た。一時は10億円近くまで増大した融資額は6年で5億円にまで縮小した。それに伴い銀行の対応も格段に丁寧になって来た。金利も年々低下し、新たな融資まで申し入れて来た。
「昨今これだけ経常利益の高い病院は何処にもないですよ。もっと積極的に病院の建築を拡大して行きましょうよ」
と、ニコニコの笑顔で銀行の支店長は浩司に迫って来る。
次回に続く

想い出は風の彼方に(124)

「すると今の医療保険制度が崩れ去ってしまうって仰るの?」
綾子は怪訝な面持ちで、浩司を見つめた。
「いや、5年や10年で今の保険制度が消え去ると云うのは考えにくいが、現実に自己負担額が年々増えているのだから、この状況が進行すると保険制度は何時の日か形骸化する危険はあるかもしれない」
「そうなると、日本の医療制度はどうなるのかしら?」
「まあ俺の勝手な推測だが、もしかすると自動車保険の様に、強制保険と任意保険の様なものが両立するかもしれない。つまり、最低限の肺炎や脳血管障害の急性期治療は強制保険の範疇でやるが、最先端の医療やリハビリ、人工透析など長期的に高額な医療費を要するものは各自の任意保険でやるとか云った制度に移行するかもしれないな…」
「そうなると、満足な任意保険に入れない人は癌などの治療は受けられないのかしら?」
「それは北欧などの医療制度が一つの参考になるかもしれない」
「それって、どんな制度なの?」
「年令制限を適応しているのだ。
例えば65才以上になると高額な医療費は全て個人負担に近い形で治療に当たってもらうのだ。もちろん心臓カテーテルやMRIなどは65才以上では保険適用にならない。高齢者は介護保険の範囲で対応して、医療行為はなるべく行わない制度だ。胃瘻や人工呼吸器などは65才以上で使用するなんて事は有り得ないのだよ」
「すると延命治療なんかは存在しないのね」
「その通りだろうね…」
「そうなると、高齢者を中心に診ている病院は全て倒産するって事なの」
「全てではないだろう、高額所得者の老人に特化した様な病院なら生き残れるんじゃあないかな…」
「それって貧富の差が、生命の値段にも関わって来る事になるんじゃない…!」
そう非難がましく、綾子が浩司を責めた。
「まあ、そう言う事になるだろな。しかし、我々の歴史上で身分差別がないとか経済格差がないった実情が存在した事があるのか?…現在では先進諸国だけが表面的に社会的な平等を、保っているかの様に見えるが、それだって怪しいものだ。19世紀までは、貧富の差が生命の重さに露骨に現れていたんだよ。例えばフランスなどでは平均所得以下の庶民の平均寿命は30才ぐらいまでが良い所だったが、貴族階級になると平均寿命は50才以上にまで上昇しているのだ。これは一般庶民の過酷な肉体労働と貧しい食生活が大きな原因であると言われているらしい。
それが第2次世界大戦後に、欧米諸国が専横していた植民地政策が次々と崩壊して、世界中で民主化の動きが活発になって経済格差も徐々に是正されて行ったんだ。だからと言って、現代社会で貧富の格差がまるで無いかと言えば、そんな事はないだろう」
「確かにそうね、特に先進諸国の雄と言われているアメリカでも貧富の格差は大きいものね」
そう言って、綾子も素直に頷いた。
次回に続く

想い出は風の彼方に(123)

「まあ、医師会あたりでも色々と教えてくれるんだ。今は日本全体が不況の真っただ中だから、国も中小企業の倒産を防止しようと必死なんだ。そんな状況下だから、出来る限り低金利で時には無担保でも融資してくれるらしいよ」綾子は信じられないと云った表情で、
「無担保って…何の事?」
「いや何でも融資してくれって意味ではなく、それは過去数年間の事業内容を見てからの事だけどな。今の不況の嵐を乗り越えれば、融資額を返せる企業であるかどうかの判定基準はあるらしいがね」
「そう云う意味なの…いずれにしても景気の悪いのは病院だけではないのね」
「そうだよ…バブルが弾けて以来、不動産業を始め建築業その他で倒産している業者は幾つもあるよ」
「そう言えば、新聞でもテレビでもそんなニュースは毎日流れているわね」
「だろう、だから政府が先頭に立って中小企業への融資対策を積極的に進めているんだ。医療機関も年々赤字を出す所が増えているしね…」
「でも高齢社会で、患者さんはどんどん増えて行くはずなのに、どうして病院ベッドの空きが増えるのかしら…?」
「それはバブル以前は老人医療費は全額公費で賄われていたんだ。それが高齢者の増加で、公費では追いつかなくなって来たんだね。それで自己負担分を1割に、所得に応じては3割にまで上げ更に病院での食費負担まで個人負担にしてしまったんだ。それやこれやで高齢者と雖(いえど)も1ヶ月の入院による自己負担額が10万円を超えたりする事が多くなって来たのだ。それも公的年金で支払い切れる間は良いのだが、中には子供の世代で不況の波に呑み込まれ失業する人も出て来たりして、そんな親の年金を自分達の生活費の一部にする人さえいるんだよ。そうなると、以前の様に経済的な理由から親が肺炎になっても入院させないと云う子供達だって存在するのだ」
「へえ、随分と酷い話なのね」
「ともかく国は医療費を少しでも縮小させたいと願っているから、2年に一度は薬剤費を大幅に減額させたり、介護保険制度を作り高齢者は出来る限り病院に入院させない方針を露骨に打ち出しているのだ」
綾子は心配気に、
「それでは病院の経営に未来は無いって事なの?」
浩司はゆっくりとした口調で、
「そんなに悲観する事ばかりでもないだろう…」
「どうして?」
「それは経済的事情で入院しない人がいるかもしれないが、逆にもっと快適な医療を望む人が一方には増えているのだ。つまり、これまでの様に社会保険制度の中でしか考えなかった医療行為を、もっと社会的なそして経済的なニーズに合わせて提供する発想が必要になるのかもしれない」
「どんな風に?」
「まだ考えが纏(まと)まっている訳ではないが、病室にも個室や特室がある様に、リハビリなどにも経済的事情によりサービスの提供に変化があっても良い様な気がするんだ。ともかく現在の均一化した医療行為には何処か制度疲労の様なものが生じている気がしてならない」
次回に続く

想い出は風の彼方に(122)

「綾子の言う通りだ。常識的にはね。でも借金をしているのは俺じゃあない。医療法人のさくら町病院だ」
「でも、その連帯保証人になっているのは理事長のあなたでしょう。つまり病院の赤字はあなたの責任になるって事よね」
「その通りだ。借金の返済義務は理事長である俺にある。でも俺が破産宣告したらどうなる。病院は競売物件になって、何処かの医療法人が買い取る形になるだろうな。俺は銀行預金も含めて全ての私有財産は管財人に取り挙げられるだろう。そして理事長と病院長は解任されるだろうな、それだけの話だ…」
綾子には浩司の、その淡々たる説明がまるで理解出来なかった。
「それだけの話って…つまり私達は丸裸になってしまう事ってじゃあない。それで私達はどうやって生活して行けるというの」
「生活なんて、どうにでもなるさ。今と同じくらいの地味な生活なら楽勝だよ。まあ、俺に任せておけよ。お前と子供達に苦労はかけないから大丈夫だよ」
「そんな事を仰っても今の病院を建てる時も、病院倒産の危険度は10%ぐらいだから心配するなって言わなかった!…それが10億近い借金を重ねて2年も赤字経営を出して、それでも大丈夫だなんて言われたって心配でならないわ…」
「俺もこの事では弁護士と税理士に色々と相談しているのだよ。その結果、俺の中には秘策が出来たのだ。今はまだ詳しくは語れないが、ともかく智美の大学の事は心配するな…どうにでもなるから」
綾子は、
「ハッ」とした表情になって、
「まさか、あなたお父様の財産を当てにしているんじゃない…」
「ハッハァ、ハッハァ、何を言い出すかと思えば…今更、親父の金なんか当てにするかよ。俺も50才を過ぎているんだ…お前も妙な取り越し苦労をするな。ともかく俺の給料は当初の年収に戻す。次にお前は事務長にして、年収をそれなりの待遇にする。どうだ、これだったら智美を医学部に行かせるのも難しくはないだろう」
「それなら、私大の医学部の月謝だって払えるわね。そうなると病院の借金は雪だるま式に膨れ上がるわよ、それでも本当に大丈夫なの」
「全く心配はないよ。借金なんて何も恐れる事はないさ…銀行との巧妙な掛け引きは必要となるがな。その事は実戦を通じて徐々にお前にも教え込むよ。ともかく俺に任せておけ。智美を医学部に行かせる事なんて、どうって事はないよ」
綾子は未だ心配そうに、
「本当に大丈夫なの?」
と、念を押して来た。
「少なくても銀行から融資が受けられる間は、大丈夫だ」
「その融資が受けられなくなったら…?」
「市中銀行が融資を止めたとしても、商工中金とか日本政策金融公庫とか政府系の金融機関から融資を受ける方法だってあるさ…」
綾子は驚いた風に
「そんな情報を何処で知ったの?」
と、尋ねて来た。
次回に続く

想い出は風の彼方に(121)

「病院は多額の借金を抱えたまま倒産してしまうのだろうか?」
綾子にとって眠れぬ日が幾度となくあった。だから病院長など成るべきでは無いと思っていたのに、浩司は少しも耳を貸そうとしなかった。子供が二人もいて、一体この先どうするのであろうか?
赤字決算が2年続いた年の3月に、綾子は思い切って浩司の意向を質した。
「ねえ、あなた。娘の智美もこの4月からは高校3年になるのよ。大学受験はどうするつもり?」
「当然、行かせるべきだ」
何を今更分かり切った事を聞くんだといった顔つきである。
「そんな事を仰っても、我が家に智美を大学に行かせるだけの余裕があるの?」
「別に智美を大学に行かせるぐらいの事は、どうにでもなるだろう…」
「どうにでもなるって仰っても、あなたの給料は半分にカットしてあるのよ。他の常勤のドクターよりはずっと安いんだから…」
「そうか、昨年からそんな取り決めになっていたな…!」
浩司は少し思案気に黙っていたが、
「だったら、俺の給料を元通りにすれば良いだろう」
「そんな事をすれば病院の赤字は拡大するわよ、それでも良いの…」
「まあ、それも仕方がないな。それでも智美は大学に行かせるべきだろう。俺とお前の二人が大学に行っているのに、自分の娘を行かせないって訳にはいかないだろうが…」
「そりゃ、そうでしょうけど…あなたの給料を元に戻せば、智美を大学に行かせるのも訳はないかもしれないけど、でも智美は医学部に行きたいって言っているのよ…」
「医学部?…そうか智美は医学部に行きたいのか」
「そうなのよ、恐らくあなたの影響だと思うわ…」
浩司は少し嬉しそうに、
「それが本人の希望なら、医学部に行かせてやれば良いじゃあないか…!」
「そんな事を仰っても、公立ならともかく、私立の医学部にでも行くとなったら、あなたの給料を元通りにしても月謝は払い切れないわよ…」
「そんな事はどうにでも成るよ」
「どんな風になるの?」
「智美の学費に困るならば、お前の給料を上げれば良いだけだよ」
「どうやって?」
「別に名目はどうにでもなるだろう。俺がこの病院の理事長であり、病院長なんだ。お前の給料を上げるなんて事は簡単な事だ…」
「ふ~ん、そうなんだ。でも、そんな風にあなたと私の給料を好き勝手に上げて、病院の赤字拡大はどうなるの?」
浩司は少し嫌な顔をして、
「赤字の拡大は頭の痛い所だが、俺が他の医者と同程度の給料を貰っても文句は何処からも出ないだろう。大体今までが変だったのだ。病院長の俺が看護部長と同じくらいの給料に抑えられていた方がおかしいのだ。お前にしたって時給1050円なんてパートの事務員並みの給料でいたんだ。それもこれもお前が病院の経理をする様になってからだ」
「だって病院の赤字状態を見ていたら、先ずは自分達の給料を、下げて行くべきでしょう?」
次回に続く

想い出は風の彼方に(120)

こうして綾子は、病院の経理を担当する事にした。勤務は週に4日程で勤務時間も子供が学校に行っている時間の朝10時から午後3時ぐらいまでのパート勤務だった。
先ず綾子の最初の大仕事は、何と言っても土地の権利問題である。前院長の息子から借地権を買い取り、地主からは底地を買い取る事であった。いづれにしても1200坪の堅固な病院と云う建物が建っているのだ。その建物の所有権は医療法人「さくら町病院」にある。この新病院の建築に当たっては、地主からも借地権者からも公文書で許可も得ているのだ。それでも前院長の息子は、借地権の売却に3億円を要求して来た。今回の新病院建築の許可を得る為に、その息子には印鑑料として既に1千万円を手渡している。その上で3億円の売却費と云うのは、とても承服しがたいものがあった。弁護士に相談すると、
「そんな要求は、余りに法外で納得出来る金額とは程遠いから私、が交渉に当たりますよ…」
と言ってくれたので、彼に任せてしまった。結局、売却費は5千万円で話し合いがついた。地主からの底地権は見送る事にして、借地の更新に留めた。20年の更新延期で1千万円を支払った。
綾子は病院として、これ以上の借入れを起こしたくなかった。バブル崩壊後の不景気の波が目前に迫って来る様な危機感があったのだ。事実、ベッド稼働率は年々減少傾向にあった。デパートの売り上げは減る一方だと報じられていたし、高齢者は自己負担額の少ない療養型の専門病院へと流れている。ともかく全て、より安いものへと日本中が目の色を変えていた。一般庶民の年収も低迷している。年老いた親の面倒を見るよりは、自分たちの生活で精一杯になっていた。
医療費の抑制政策は年々厳しさを増している。それでいて、看護職を始めとする人件費は徐々にではあるが増加していた。
この翌年に病院経営には最大のピンチが訪れた。数キロ先の総合病院が倒産して、ある不動産会社に買収されたのだ。もちろんダミーの病院長が飾りの如く据えられていた。しかし、この事実を知った看護婦の多くが一斉に退職届けを出した。この事態に慌てた不動産会社の社長は看護職320名の基本給を一気に4万円も上げた。昇給が年に数千円の時代にである。この常軌を逸した昇給で看護職320名は全員が退職届けを引っ込めた。しかし、この事態に近隣の病院の経営者は震え上がった。
昇給にあてる財源など何処にもないのに、この総合病院の昇給で「さくら町病院」の看護職も動揺し始めた。数人が、かの総合病院に転職して行った。事態を重く見た綾子は、この年だけ看護職の基本給を一律に2万5千円上げた。60名からいる看護職の昇給で、「さくら町病院」は浩司が病院長に就任して以来、最大の赤字となった。銀行の態度は急激に冷たくなって来た。浩司の父親から譲り受けたマンションを綾子は6千万円で売却して、何とかその赤字を補填して、自分達は泣く泣く賃貸マンションに引っ越した。浩司の病院長としての給与も限りなくゼロに近かった。正に崖っぷちに立たされた状況である。
次回に続く

想い出は風の彼方に(119)

こうして浩司は、8億5千万円をかけて、本格的な改修工事をスタートさせた。子供は二人になっていたが、綾子も積極的な協力を惜しまなかった。設計に1年、工事に1年2ヶ月をかけ念願の新病院が完成した。浩司は53才になっていた。綾子は49才で子供たちも上の女の子が高校生で、下の男の子が小学生になっていた。
新しい門出を迎えようとしていた時、丁度借地権の更新時期が迫っていた。40年前に契約した当事者は、亡くなった前の病院長だった。その権利は当然の如く、相続の一環として前院長の息子の手に渡っていた。さくら町病院の理事長は浩司であったが、借地権は又貸しになっていたのだ。その息子は区役所に勤めているサラリーマンで、病院に顔を出す事も殆どなかったから病院スタッフと浩司は、すっかり彼の存在を忘れていた。
だからと言って、土地の権利問題をこのまま放置してはおけない。
浩司は10年以上も事の成り行きで病院長を務めていたので、土地の問題は初めから念頭になかった。毎月の地代は事務課長から事務長に昇進した村上が、水道光熱費を支払う感覚で処理していた。
どちらかと言うと、医者馬鹿に近い浩司は医療関係と離れた事務問題の対応には疎かった。
新病院はベッド数を115から150床に増やし、一般病棟が40床、療養型病棟が110床の体制で職員数もかなり多くなっていた。この組織を運営して行くには医者馬鹿の浩司には重荷で、綾子は外から見ていても不安になる事が多々あった。今回の土地問題にしても、8億5千万円の借入れを起こして新病院を建てたにもかかわらず、借地権の権利が棚上げになっていた事実に驚かさるばかりだ。
新事務長になった村上は、それなりの実績を上げてはいるものの、綾子の目には完全に運営管理させるには一抹の不安を残していた。
綾子は色々と悩んだ末に、浩司の父親に土地問題を相談した。80才になった父親は現役こそ引退していたが、知り合いの弁護士を紹介してくれた。彼女は夫のプライドを傷つけない様に、
「ねえ、あなた。この際、土地の権利問題は綺麗に整理しておいた方が良いわよ」
と、それとなく話した。
「そうだな、後にゴタゴタを残しておくのも面倒だから、誰か適切な人に相談して借地権と底地の両方を一つに纏(まと)め上げておくべきだろうな」
「私もそう思うわ…それでね、あなたにお断りしなかったんですが、お父様に相談して弁護士の先生を紹介してもらったの…」
そう言って、浩司の顔をチラリと見上げた。自分の独断専行が彼のプライドを傷つけないかと恐れたのだ。
「そうか、それは良かったな」
彼は屈託の無い笑顔を綾子に向けた。基本的に浩司は医療以外の問題には、あまり頭を突っ込みたくなかった様だ。これを機会に綾子はもう少し踏み込んでみた。
「ねえ、私も少し病院のお手伝いをしても良いかしら?…子供も大きくなったし、フルタイムとは行かないけど何かお役に立ちたいわ」
彼女は幾らか甘える様に頼んだ。
次回に続く