断章(28)

(28)日々の思い
昭和の時代を考える(その21)
「日本の戦争賠償と戦後補償」
日本の第二次世界大戦後の戦争賠償および戦後補償については、戦争によって損害を与えた国々および人々に対する賠償・補償問題が戦後処理の重要な課題の一つであった。なお項目名では便宜上「戦争」「戦後」としているが、同時期の戦争とは直接には関係ない、補償についても含めて述べる。
それらを含んだ戦争賠償・補償については日本と各国との間で条約・協定等が締結、履行された事と各地の軍事裁判で判決を受け入れたことで償われており、国際法上既に決着しているが、敗戦国の日本が戦勝国側(連合国)から一方的に裁かれたとする見解も存在する。
【定義】
戦争賠償(英:war reparation、戦時賠償)とは、戦争行為が原因で交戦国に生じた損失・損害の賠償として金品、役務、生産物などを提供すること。通常は講和条約において敗戦国が戦勝国に対して支払う賠償金のことを指し、国際戦争法規に違反した行為(戦争犯罪)に対する損害賠償に限らない。例えば*下関条約*において清が日本に支払うとされた賠償金3億円なども戦争賠償に含まれる。
*下関条約*
明治28年(1895)日清戦争講和のため、下関で清国の全権大使李鴻章(りこうしょう)と日本の全権大使伊藤博文・陸奥宗光(むつむねみつ)との間で調印された条約。清国は朝鮮の独立、2億両(テール)の賠償金の支払い、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲などを承認。別に馬関条約とも言う。
一方、戦後補償(英:compensation)は、戦争行為によって損害を与えた人々に対して行われる補償のことで、広義の戦後補償は戦争賠償を包含する。
*一般には、戦争賠償は国家間で処理される問題、戦後補償は被害者個人に対してなされる見舞い金的な要素として言われることが多い。
外務省の調査によると、1945年8月5日現在の在外資産の総額は次の通りである:
地域名 金額(円)
朝鮮 702億5600万円
台湾(中華民国) 425億4200万円
中国 東北 1465億3200万円
華北 554億3700万円
華中・華南 367億1800万円
その他の地域(樺太、南洋、
その他南方地域、欧米諸国等)
                        280億1400万円
合計 3794億9900万円(現在の通貨だと200兆円)
同調査には合計236億8100万ドル、1ドル=15円で3552億1500万円という設定であるが…
これら在外資産は戦後、全て現地の保有となり、この在外資産によって現地の産業や文化に、どれ程大きな貢献したかは知られていない。
連合国捕虜に対する補償 
連合軍捕虜に対する補償とは、サンフランシスコ平和条約第16条に基づき、中立国および日本の同盟国にあった日本の在外資産またはそれに等価の物によって連合国捕虜に対し行った補償である:
日本国の捕虜であつた間に不当な苦難を被つた連合国軍隊の構成員に償いをする意味として、日本国は、戦争中中立であつた国にある又は連合国のいずれかと戦争していた国にある日本国及びその国民の資産又は、日本国が選択するときは、これらの資産と等価のものを赤十字国際委員会に引き渡すものとし、同委員会が衡平であると決定する基礎において、捕虜であつた者及びその家族のために、適当な期間に分配しなければならない。
これにより日本は1955年の取り決めにおいて450万ポンド(45億円)を赤十字国際委員会に支払った。
次回に続く

断章(27)

(27)日々の思い
昭和の時代を考える(その20)
【朝鮮戦争による日本への影響】
*日本の再軍備化への示唆
韓国への米軍支援部隊は当時、日本に駐留していた約7万5000人を即時参戦させた。アメリカ軍はすでに韓国からほぼ撤退しており、韓国内には僅かな数の軍事顧問しか存在せず、朝鮮戦争の勃発では日本での駐留軍を派遣するしかなかった。
そうなると、どうなるか?
日本は戦後GHQによって徹底的に非軍事化を進められていたため、旧日本軍はすでに解体されており、軍事的には空白状態になっていた。
その状況を知ったソ連が東アジアでの勢力を拡大するために日本へ侵攻して来るのではないかと云う事を、アメリカは恐れた。
そこで、アメリカは日本政府の吉田首相に対して、「National Police Reserve」≒「警察予備隊」の設置を命令した(形式上は「許可」)。
朝鮮戦争勃発の翌月の50年7月、マッカーサーは日本政府に対して7万5000人の警察予備隊の結成を指令した。憲法9条に違反する実質的な軍隊が、改憲を経ずにポツダム政令によって創設されたことは注目に値する。先ず警察予備隊は、朝鮮に出兵する米軍の空白を埋めることを直接の目的とし、兵器や装備は米軍によって供給され、訓練も米軍が実施した。訓練を担当したアメリカの大佐は「小さいアメリカ軍」と呼んだ。警察予備隊は52年10月には保安隊に、54年7月には自衛隊に改組され、再軍備が進んだ。
*朝鮮特需
朝鮮特需とは、「朝鮮戦争」によって必要となった在朝鮮アメリカ軍および在日アメリカ軍から日本に対して発注された物資やサービス全般のことを言う。
朝鮮戦争勃発直後の1950年8月25日には横浜に在日兵站司令部が設置され、主にアメリカ軍から日本企業に直接発注する「直接調達方式」により大量の物資が買い付けられた。その総額は1950年から1952年までの3年間に10億ドルとも言われ、インフレによる不景気に喘いでいた日本経済の回復と成長に大きく貢献した。
また、アメリカ軍による直接調達のほかに、在日国連軍や外国関係機関による間接的な調達も存在し、こちらの金額は1955年までの間に36億ドルにものぼると言われている。
同時期の朝鮮特需以外の貿易による輸出総額は年間10億ドル程度であったので、朝鮮特需の規模がどれだけ大きかったかが伺いしれる。
朝鮮特需により立ち直った日本経済は、敗戦直後には生産の極度の低下と悪性インフレによって混乱を極めていたが、1949年にアメリカの特使ドッジ(デトロイト銀行頭取)によって実施された強力な引き締め策によってインフレは収束した。その一方で不況が深刻化したが、まさにその時に朝鮮戦争が起こった。鉱工業生産は50年後半から急上昇に転じ、同年平均でも、前年比22%増、51年は35%増、52年は10%増、53年には22%増と高成長を続け、51年には戦前の水準を回復した。実質でみたGNP(国民総生産)や個人消費も、総額で51年度には戦前水準を超え、53年には一人あたりで戦前の水準を突破した。
1951(昭和26)年9月8日 : サンフランシスコ平和条約締結→連合国による占領が終結、日本は主権回復を成し遂げたが「日本の戦争賠償と戦後補償」と云う大きな問題が残っていた。
次回に続く

断章(26)

(26)日々の思い
昭和の時代を考える(その19)
【朝鮮戦争】の続き
混乱を狙った奇襲攻撃に加え、軍事力でも圧倒的に優位な北朝鮮軍は開戦3日後の6月28日にソウルを陥落させた。指揮系統が混乱した韓国軍は漢江にかかっていた橋を避難民ごと爆破(漢江人道橋爆破事件)して、軍の士気をさらに下げる要因を作った。
これを見たアメリカは、7月4日応戦のために日本に駐留していた陸軍を投入した。しかし、想像以上に強い北朝鮮の装備にあっさりと蹴散らされ敗北、撤退の結果となった。その後も国連軍が参戦するも、韓国軍同様に敗走を続け8月には釜山(朝鮮半島最南端)まで追い詰められ、後ろは海という絶体絶命の危機に陥いる。
しかし敗走を続けていた国連軍ではあったが、GHQの最高責任者であり、国連軍総司令官となったマッカーサーが「仁川上陸作戦」を立案。仁川上陸作戦とは兵をソウル近郊の仁川に上陸させ北朝鮮の補給路を断つ作戦である。国連軍の陸軍、海軍は「郡山上陸作戦」を押していたが、マッカーサーは「仁川上陸作戦」を決断。その結果、「仁川上陸作戦」は大成功。北朝鮮の補給路を断つことが出来た。
「仁川上陸作戦」の成功を機に形勢は一気に大逆転し、9月28日にはソウルを奪還した。
その後も「祖国統一」を目指していた韓国軍の進撃は続き北緯38度線を超え、10月には北朝鮮の首都平壌を制圧。さらに北進を続け、10月下旬には北朝鮮軍は中国の国境付近まで追いつめられた。
こうして北朝鮮軍が崩壊の危機に瀕すると、金日成は先ずスターリンに本格的な軍事介入を要請した。しかし、アメリカと全面戦争をする事を嫌ったソ連に要請は断られた。そこで金日成は中華人民共和国に支援を要請。10月2日に金日成からの部隊要請の手紙が届くと、介入は不可避とし中国は参戦を決意した。中国もアメリカとの全面戦争を避けるため、中国人民解放軍を義勇軍(中華人民の自発的な参加者)」として参加させた。
中国兵は最前線だけで20万人、後方支援は100万人という圧倒的な数の兵を使って敵を圧倒する人海戦術で戦った。それは中国兵の3分の2が武器を持たず、ラッパや鐘を打ち鳴らしながら前進し、戦死した仲間の武器を拾って戦うという人道無視の作戦であった。しかしこの人海戦術が非常に効果的で、中国の参戦を想定していなかった国連軍は立て続けに敗走。1951年1月に再びソウルが陥落した。
それでも国連軍は3月14日に再びソウルを奪還した。その後、多少の動きはあったものの二年以上38度線付近で、膠着状態となってしまった。
第一線では偵察や警戒が昼夜を問わず行われ、死傷者が出ない日はなかったものの両軍ともに大規模な作戦は行われなかった。
この様な膠着状態となつて、国連軍総司令官のマッカーサーは政府の許可なしに「中国軍を徹底的にたたきつぶす」と発言し、進撃の命令をしたり、政府の意向に沿わない原子爆弾の使用を提言したりと、ソ連を巻き込んで第三次世界大戦を起こしかねない暴走が目立ち始めた。そのため、トルーマン大統領は1951年4月11日にマッカーサーをすべての軍の地位から解任。国連軍総司令官の後任は第10軍司令官のマシューリッジウェイ大将が着任した。その後アメリカに帰ったマッカーサーは退任演説をし退役。軍歴を閉じた。
1951年6月からソ連の提案で停戦協定が模索されたが、双方が利益を少しでも有利な条件の停戦を要求するため交渉はなかなか進展しなかった。しかし、1953年に入ってアメリカの大統領がアイゼンハワーに変わり、ソ連のスターリンが死去すると情勢は一変。38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、三年続いた朝鮮戦争はひとまず終結しした。
次回に続く

断章(25)

(25)日々の思い
昭和の時代を考える(その18)
1950(昭和25)年6月25日 : 朝鮮戦争勃発(1953年7月27日休戦)
朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争で、1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が中華人民共和国の毛沢東とソビエト連邦のヨシフ・スターリンの同意と支援を受けて、国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発した。
アメリカとソ連は1946年の1月16日から朝鮮の独立国家建設のために米ソ共同委員会を設置した。しかし、李承晩をはじめとする信託統治に反対する団体や政党を臨時政権から追い出すように主張するソ連に対し、アメリカはすべての団体を参加させることを主張した(アメリカは反信託統治と同時に反共産運動をしている団体を支持)。その結果、米ソの意見は対立して、5月6日に委員会は決裂。信託統治案は頓挫した。
1948年8月15日、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言した。
一方、朝鮮の北半分では金日成を中心にしてソ連の支援を得ながら共産主義国家成立への道を歩み始めていた。同年の9月9日に金日成は朝鮮民主主義人民共和国を成立させる。これによって、北緯38度線は占領国が引いた占領境界線ではなく、事実上の国境となってしまった。
しかし、朝鮮統一を目指す金日成はソ連の指導者であるスターリンに、南半部への武力侵攻の許可を求めた。だが1948年の時点で、ソ連はアメリカとの全面戦争を避けるために北朝鮮の申し出を却下した。
その一方で韓国の李承晩は、反共主義者であると同時に反日主義者でもあった。そんな李承晩はアメリカ政府に対し、対馬と竹島を日本領土から除外することを主張したが、アメリカはその要求を再三にわたって拒否した。
また1950年にアメリカのディーン・アチソン国務長官が「アメリカが責任を持つ防衛ラインはフィリピンー沖縄―日本―アリューシャン列島までとし、それ以外は責任を持たない」と発言した。この発言から推測すると、この防衛ラインに朝鮮は含まれておらず、これを聞いた金日成はアメリカが南半部を見捨てたと判断した。
このような経過で、大韓民国に攻めるチャンスだと考えた金日成はスターリンに南半部への侵攻を許可するように求めた(許可を求めるため、毛沢東が南進に積極的であることを示した)。その結果、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に侵略を容認し、軍事支援を開始した。ソ連の軍事顧問団は南侵略計画である「先制打撃計画」を立案した。これを受けて中華人民共和国を訪れた金日成は毛沢東からの中華人民共和国の支援を約束させた。
そして1950年6月25日午前4時に北緯38度を超えて北朝鮮軍の侵攻が開始された。宣戦布告は行われておらず、さらに韓国の大部分の部隊は農繁期だったため警戒を解除していた。また、前日には首都ソウルで陸軍庁舎の落成式の宴会があり、軍司令部の幹部の登庁が遅れ指揮系統は混乱に陥った。さらに李承晩が奇襲のことを知ったのは、奇襲から6時間たった後であり、絶妙なタイミングを狙った北朝鮮軍の作戦は大成功だった。その上、当時の北朝鮮と韓国の軍備の差は圧倒的に北朝鮮が優勢であった。戦車の数は北朝鮮:韓国=240 : 0/砲552門:91門/航空機221機:22機であった。
次回に続く

断章(24)

(24)日々の思い
昭和の時代を考える(その17)
「昭和の四連続超巨大地震」の続き
*3)1945年の三河地震
1月13日 三河地震(M6.8*M7.1という説もある)が発生
地震によって、延長20kmの大規模な地震断層「深溝断層」が出現した。
東南海地震のわずか37日後の午前3時に内陸直下型の三河地震が発生したので、この地震は昭和東南海地震の余震だとも言われている。
三河地震については死者2652人と報告。未明の発生で「人的被害が非常に大きかった」とされている。
その他、負傷者3866名、住家全壊7221戸に上ったと言われる。死者が多数に上ったのは、全壊家屋の多さに加え、被災時が夜半で、ほとんど就寝中であったからと思われる。
軍需産業地域直下の地震であったため、特に”ナゾ”の多い地震とされている。そんな影響もあってか、規模の割に大きな被害を出したとも言われている。
また、この地震が敗戦を早めたとの説もある。(中部工業地帯の軍需産業の拠点が壊滅状態に陥ったため)
この地震では、最大震度7の局地的な大被害をもたらしたが、東南海地震と同様、「隠された地震」である。
*4)1946(昭和21)年12月21日 南海道地震(マグニチュード8.1)
「南海地震」と呼ばれる海溝型の巨大地震の、その最古の記録は、「日本書紀」に記された684年の「白鳳南海地震」であるが、それ以来1946(昭和21)年の「昭和21年南海地震」まで、8回の南海地震の記録が残っている。このうち一番新しい時代に起きた三度の南海地震、すなわち昭和21年南海地震(1946)、安政南海地震(1854)、宝永地震(1707)を比較すると、それらの間にはかなりの規模の差があって、昭和南海地震が一番小さく、安政南海地震が中程度、宝永地震が大型の南海地震であったことが知られている。
この南海地震は紀伊半島南方から四国沖に起こった巨大地震で、マグニチュードは8.1に達した。
この地震は、奥羽地方の北部と北海道を除くほとんどの地域で有感観測され、関東大震災を上回る規模のものであった。
とくに強震であったのは、和歌山・徳島・高知・三重・愛知・岐阜の各県で、被害は全体で、死傷者・行方不明6603人、全半壊家屋3万5105戸、焼失家屋2598戸であった。
この地震で最も大きな被害をこうむったのは四国地方で、なかでも高知県西部は、音信不通でしばらく消息がつかめなかった。24日の「朝日新聞」は、第一報として「土佐中村、瞬時に八割全壊」「惨状は言語に絶す」と報じている。また、徳島県の被害については「最もひどかったのは浅川で、満足な家は一軒もない。田畑はすべて砂河原と化し、町の道路という道路は、家のかけらで足の踏み場もない。人々はなべ一つぶらさげて、たき出し米にありつこうと右往左往している状況だ。沖には数千の屋根が、破船の材木などとともにプカリプカリと浮いている」と惨状を報じた。
この地震による津波は静岡県より九州にいたる海岸に来襲し、高知・三重・徳島沿岸で高さ4~6mに達した。
室戸・紀伊半島では南上がりの傾動を示し、室戸で1.27m、潮岬で0.7m上昇、須崎・甲浦で約1m沈下、高知付近で田園15平方キロメートルが海面下に没した。
このため家屋流失1451、浸水3万3093、船舶破損流失2991の被害が生じた。
また高知市付近は、地震発生と同時に地盤が1m位沈下したため、完全に海水がなくなるのに1ケ月位かかったという。
「4大地震」の2年後に発生した
*福井地震(マグニチュード7.3)は、
1948年6月28日福井平野に起こった大地震で、死者3895人、負傷者2万2203人という大きな被害が出た。正に地震列島の我が国である。
次回に続く

断章(23)

(23)日々の思い
昭和の時代を考える(その16)
戦中戦後の歴史に埋もれた「昭和の四連続超巨大地震」
第二次世界大戦中と大戦後に起きた四大地震は、戦中戦後の国民の士気を下げない為に、殆どの記録が闇に葬り去られてしまったと言われており、現在僅かに残されている資料の数字もかなりの修正を掛けられている可能性が高い。
*1)1943年の鳥取地震、*2)1944年の東南海地震、*3)1945年の三河地震、*4)1946年の南海地震が、「戦中戦後の4大地震」と言われている。
*1)1943(昭和18)年9月10日 鳥取大震災(マグニチュード7.2)
激しい揺れにより、鳥取市の中心部は壊滅し、古い町並みは全て失われた。木造家屋のほぼ全てが倒壊した一方で、五臓円薬局ビルなど鉄筋コンクリートの建物は比較的持ちこたえた。総被害は、死者1083人、家屋全壊7485戸、半壊6185戸、焼失251戸、被害総額は1億6000万円(当時)で、現在の貨幣価値なら数千億円とも言われている。
この地震は、鳥取平野付近を震源域として発生した陸域の浅い地震で、鳥取市で震度6、岡山市で震度5が観測された。
また、地震の影響による液状化現象も見られた地域も存在し、山陰本線や因美線といった鉄道もこの被害を受けたため、長期間にわたって鉄道が不通になった。
さらに時間帯が夕食前だった事も災いし、市内数か所にて火災の発生をみるが、市民による必死のバケツリレーにより大火にならずに済んだという。
*2)1944年12月7日 東南海地震(マグニチュード8.0)
現在の三重県紀勢町錦支所に残されている『昭和大海嘯記録』という記録によると、「午後1時40分前後に遠州灘を中心とする一大地震が突如として起こり1分8秒に及んだ。錦地区の町民一同は驚き戸外に飛出、津波の襲来を心配したが、10 数分にして大津波が押寄せた」「大半の民家は見る見るうちに将棋倒しとなり、間もなく津波はひき始め、倒壊家屋の古材が浦に充満した。」と書かれている。
九州から東北・北海道の一部でも揺れが観測されるほどの強い揺れだったとも言われている。別に昭和東南海地震とも言う。
海洋プレートの沈み込みに伴い発生した地震で、授業・勤務時間帯に重なったこともあり、学校や軍需工場等を中心に死者1,223人の被害が発生した。
建物の被害としては、橋梁172カ所、道路773カ所、堤防351カ所の損壊に加え、工場全壊1731棟、同半壊1281棟、流失81棟があったと報告されている。
特に三重県では、地震後に発生した津波による被害が大きく、志摩半島以南熊野灘沿岸の町村では、多くの死者・行方不明者が出た
『出典 : 戦時下の三重県に大きな被害、東南海地震』
三重県での被害は、死者・行方不明者 406人、負傷者 607人、家屋の倒壊 11,558戸にも達した。
しかし、同地震の被災記録は戦時中の報道管制でほとんど残っておらず、詳細ははっきりしていない
発生時が戦時中であったため、軍需産業の拠点が壊滅的被害を受けていると海外に知らせないために軍部が情報統制を行っていた。
次回に続く
 

断章(22)

(22)日々の思い
昭和の時代を考える(その15)
戦後日本のハイパーインフレ(1945年~)
戦争は莫大なる支出(武器、食料、修理、兵士給与・死亡保障など)が伴うにも関わらず、まったくモノを生み出さない非経済的行為である。そして負けた国は、戦後相手国の損失を補償[金銭・資産賠償]しなければならないという地獄のルールがあった。
そして、日本やドイツはこの勝負に負けてしまった。
第一次世界大戦でドイツが負けた時は、相手国(フランスなど)から支払い不能な賠償金を請求され、徹底的に国力を搾り取られた。その結果、食糧などの物資不足を伴うハイパーインフレーションが発生し、この苦しみからナチスが台頭。第二次世界大戦へと発展して行ったのである。
この教訓により、第二次世界大戦後、敗戦国には莫大な賠償金が請求される事はなかった。これは戦後日本が急速に立ち直れた要因の一つであった。
・日本のGDP
1941年[戦前] 2045億ドル
1944年[戦中] 1974億ドル
1945年[戦後]  987億ドル
戦後処理費用  264億ドル
(参考)第二次世界大戦前・戦中の主要国国力-UNITED DEFENCE
(参考)日本の具体的戦後処理-財務省
ただ、それでも政府には、戦時中、資金調達手段として利用した戦時国債の莫大な債務負担が残っていた。(1944年の債務残高のGDP比204%)
生産設備に関しては、1944年末から1945年8月15日(終戦)まで、大規模な本土空襲※に遭い、大きなダメージを受けていた。
※全国で200以上の都市が被災。死者33万人、負傷者43万人、被災人口970万人。製鉄所や軍需工場を有する工業都市は艦砲射撃によっても破壊された。(日本本土空襲-wikipedia)
そのため税収も大きく落ち込み、財政赤字[歳出>歳入]は拡大。市場から新たに資金を調達しにくくなった日本は、ドイツ同様、国債を中央銀行に引き受けさせる形[裏づけなしの増刷]で財政赤字分の資金を調達。
また、戦後ほどなく軍需関連企業や兵士・遺族などへの支払いが一斉に行われた。
その結果、第一次世界大戦後のドイツと同様、モノと通貨量のバランスが大きく崩れ、1945年末にハイパーインフレが発生した(月率90%ほどで、1945年10月から1949年4月までの3年6か月の間に消費者物価指数は約100倍)。この事は100万円の定期預金(ほとんどが固定金利)が1万円の価値になってしまった事を意味する。
(参考)戦後ハイパー・インフレと中央銀行-日本銀行金融研究所
また、物価が急騰しても国債の返済額は一定のため、政府の債務負担は急激に減少。1946年にはGDP比で56%、50年には10%台にまで低下。
一方で国債を保有していた国民の多くが、無一文に近い状況に追い込まれた。つまり、財産税と合わせて旧富裕層の資産は国に徹底的に吸い取られてしまった。富の再配分が強制的に行われ、新しい日本経済が台頭して行ったとも言える。
また、戦後フランスに工業地帯を占領されて輸出力をもがれたドイツと違い、日本は1947年から民間貿易を再開。その後、1950年に勃発した朝鮮戦争特需により、多額の外貨を獲得し、輸入力[供給力]が回復。一気に成長路線への転換となった。そして新しい富裕層が出現して来た。
次回に続く

断章(21)

(21)日々の思い
昭和の時代を考える(その14)
「農地改革の矛盾」
農地改革で本州の自作農の田んぼの平均耕作面積は、1ヘクタール(1町歩)=10反(100アール)となった。
かなり収穫量の多い田んぼでも、10アールあたりの収穫量は、米で12俵(60kg×12俵)である。
1ヘクタールの田んぼなら、120俵。1俵を3万円として、360万円が年収となる。
この360万円から、農薬・機械などの費用と家族4人の生活費が賄えるのか?
農地改革をせずに、農家一軒が30~50ヘクタールの田んぼを持つのなら、大規模経営だから輸入米とも戦えるはずだ。しかし、1ヘクタールの小規模経営なら、田んぼだけでは食っていけない。
それ故に、アメリカは日本の農業を破壊するために、農地改革をしたのでないかとの推論も成り立つ。
事実、昭和30年代になって1ヘクタールの田んぼでは生活が出来なくなって、都会に出たり工場労働者になった農民が数多く出現している。
日本の農業が衰退したのは、この農地改革にあったとの意見も多い。
現在我が国の食の自給率が低くなったのは農地改革が遠因であると、説く学者もいる。
農地改革で一瞬は、自分の農地になったことにより生産意欲が湧き、日本の農業生産高は飛躍的に増進した。
しかし、一方で、不在地主のみならず自作農からも一定面積を超える農地を没収したため、大規模営農が事実上不可能となり、日本の農業が国際競争力を得られない構造が固定化されることとなった。
戦後に地主とされた者の中には、一家の働き手が外国の戦地から日本に帰還せず、仕方なく田んぼを他人に任せていたところも数多く、不在地主として認定され没収された例も多かった。
農地改革は252万戸の地主から全農地の35%、小作地の75%に相当する177万haを強制的に買収し、財産税物納農地と合わせて194万haの農地を420万戸の農家に売却したものであった。農地買収は正当な価格、十分な補償で行わなければならないとGHQは主張し、インフレによる「物価スライド条項」の導入にこだわった。しかし、時の農相和田(社会党)は徹夜の交渉により、GHQを説得して「物価スライド条項」を撤回させた。
この撤回により戦後の悪性インフレによって貨幣価値がいちじるしく減価したにもかかわらず、農地改革が終了する1950年まで買収価格は据え置かれたのである。この結果、買収価格(水田760円、畑450円)はゴム長靴一足(842円)にも満たない、事実上の無償買収となった。このため、農地を買収された地主階級から*農地買収の違憲訴訟*が相次いだ。
後日、GHQの農地改革担当者ラデジンスキー博士は社会党の実力者となっていた和田と会談した際、和田に農地証券がインフレによりただ同然になることを予想していたのかと質問した。和田は言下にイエスといい、「もし、農地改革を物価にスライドさせていたなら、政府の重い財政負担によって今日のような日本経済の成長はなかった。あの時ラデジンスキー博士が譲歩してくれたのは日本経済のその後の発展への最大の貢献だった」と答えている。
*農地買収の違憲訴訟*
最判(最高裁判決)昭和28年2月18日
~別府農地買収処分事件~から始まった違憲訴訟は、いずれも最高裁で却下された。
次回に続く