診察室からコンニチハ(56)

次は嗅覚障害についてのお話です。昨今ではアルツハイマー型認知症発症の3年ぐらい前から、嗅覚障害が発生している可能性があると指摘する医学者が多くなっています。
日本の認知症患者に最も多いアルツハイマー型認知症の症状は記憶障害から始まるといわれてきました。脳の中の記憶をつかさどる海馬という部位が萎縮することにより記憶障害が起きるのですが、それより前に、鼻の奥にある嗅神経(きゅうしんけい)の細胞がダメージを受けることがわかってきたのです。
嗅神経は鼻から吸い込んだにおいの粒子を電気信号に変えて脳に送る働きをしているため、嗅神経がダメージを受けると、においが感じられなくなります。このことから、においに鈍感になったら、アルツハイマー型認知症の初期症状が疑われるのです。最近では、においの認識により認知症を早期発見する検査方法などの開発も進められています。
アルツハイマー型認知症では、嗅神経の障害を起こしたあと徐々に記憶障害を起こすようになっていきます。しかし、早い段階で対策をすれば、嗅神経を回復させ、認知機能も改善させることも可能です。
私の外来では、小さな薬壷に醤油、ソース、コーヒー、ニンニク、ワサビなどを少量ずつ分け入れて、患者さん方には目を閉じて頂き、私の手で薬壷の一つ一つをその鼻先に運んで行きます。通常の会話は成り立っても認知症の方は、5種類の薬壷に入った匂いの素の一つも当てる事が出来ません。匂いの種類を当てられないと云うより、匂いそのものに感覚が極めて鈍感です。一方若く健康的な方ですと、匂い刺激に極度の反応を示す人が多いのです。
「気持ちが悪い」
「吐き気を催す」
などの発言をする人さえいます。
つまり嗅覚障害も、年齢と共に少しずつ障害が始まっている、と考えた方が良いのかもしれません。
次回に続く

診察室からコンニチハ(55)

これから数回は、このブログで認知症予防のリハビリについて考察してみます。先ずは「運動療法」からです。
加齢により、少しずつ身の回りの動作が行えなくなって来ますと、筋力低下、心肺機能の低下、持久性・耐久性の低下、関節可動域の低下などが起こります。身体機能が低下すると、日常生活動作がますます困難となり、やがては寝たきりへと進行します。転倒のリスクが高くなり、骨折や怪我の原因となったり、関節拘縮を起こす危険性さえ生じます。
運動療法を行い、身体機能を維持することで、生活の質を向上させ脳の活性化が促されます。10 分間の軽運動でも「実行機能課題成績が向上すること」や、「音楽体操群で、視空間認知が有意に改善」するなど、認知症で障害される認知機能の改善にも効果があるとの報告も多くなされています。
特に朝の規則正しい散歩は、認知症予防に良いと言われています。事実愛犬に死なれて、犬と散歩する習慣が途絶えてしまったお年寄りが認知症になる話はよく聞きます。
さらに認知症の方は、他動的に身体を動かされることに不安を感じる方が多く、散歩する、ボールを転がすなどのレクリエーション要素を取り入れた活動の中で、自動的に身体を動かせるプログラムを行うことが有効であると言われています。風船バレーでは、自発性の低い方でも反射的に手を出すことが見られますし、音楽を流したり、リズムをとったりして、身体を動かすきっかけを作ることも効果的です。コミュニケーションがとりづらい、指示が入りにくいといった症状が見られる場合には、対象者の身体を直接的に誘導して運動を促すこともあります。寝たきりの方では、他動的に関節を動かして関節拘縮の予防を図ることや、ベッドから起き上がる、座るなどできるだけ抗重力姿勢をとることが重要です。
次回に続く

診察室からコンニチハ(54)

認知症の公開質問をスタートさせて3年半、これらの質問を通じて私は随分と勉強させて頂きました。また、それ以上に「認知症専門誌」の記述もかなり変わりました。治療方針も多くの専門医から様々の意見が出され混沌さが増している感じが強くなっています。
認知症と言えば、アルツハイマー型認知症と言われた時代が長く続いていましたが、時代の流れと伴にレビー小体型認知症にも多くの関心が集まり始めました。認知症+パーキンソン症候群とつけらていた病名の多くはレビー小体型認知症であったと現在では言われています。
また、それ以上に単独のアルツハイマー型認知症というよりは、レビー小体型認知症や脳血管性認知症などが微妙に混在していると云う認識も多くなっています。認知症治療薬にしてもドネペジルなどの全面肯定から、全面否定そして一部肯定(使い方によっては効果が認められる事もある)と変わっています。それ以外にも「脳トレ」の効用や「生活習慣病」改善が認知症になりにくいとか、食生活の改善とか、実に多くの意見が出されています。
また認知症と遺伝的要因に関しても、アルツハイマー型認知症(AD)のAPP,PSEN1/2がその原因遺伝子として同定されています。一方,ADの大半を占める孤発性ADに対する最大の遺伝的リスクはAPOE多型であると言われています。さらにレビー小体型認知症とパーキンソン病は同一機序との認識が一般的になりつつあります。その危険因子としてグルコセレブロシダーゼ遺伝子や(GBA)α-シヌクレイン遺伝子(SNCA)などが報告されています。
それ以外の前頭側頭葉変性症にしても、遺伝的な要因が研究されつつあります。さらに軽度認知障害(MCI)とアルツハイマー型認知症への移行形態も、より深い研究報告が数多くなっています。
今回は少し難解な話になってしまいましたが、まだ認知症と云う学問には未知の領域が多すぎるのです。
次回からは認知症予防のリハビリについて色々な観点から考察してみます。今回のブログの内容は多くの読者にとって、あまり有意義なものではなかったかと少し反省していますので…
次回に続く

診察室からコンニチハ(53)

話は再度病院運営の事になります。
病院の職員数は160名ですが、この程度の規模ですと、中小企業とも言えず大規模に属するとも言えない組織体です。1人のトップで目を配るのは少し困難さを感じます。トップが30~40歳代の若さですと、当然スタッフも若い人が多くなりますので、随所で不満の声はあるものの若いエネルギーで、多くの困難は何とか乗り切れるものです。さらに若さのエネルギーは遊びにも向かいますから、病院開設10年ぐらいの間は院内のクラブ活動も活発でした。英会話教室、テニス部、華道部、スキー部、旅行部などがあって参加者も多く仕事以外にも爽快な汗を沢山流していました。秋の職員旅行は盛り上がり過ぎて、箱根の旅館では出入りを禁止される様な醜態を演じた事もありました。病院10周年の職員旅行では韓国旅行まで実施されました。
この様に仕事と遊びを通してスタッフとのチームワークも良好になり、病院運営も極めて順調でした。
しかし、この10年近くはクラブ活動の参加者が日々少なくなり、全く活動を停止しています。また職員旅行も参加者が激減して、旅行計画そのものが実施困難になっています。
日本全体で若者の酒離れも顕著になっていると言われています。
集団での活動よりは、少数での交際が好まれている様です。日本経済の長引く不況と若者たちの質素な生活が蔓延しているのでしょうか?
ともかく元気のない人たちが多すぎます。そんな日本人と比べ、銀座などのデパートを見ると高級店に群がっているのは外国人ばかりです。
病院経営も厚労省の度重なる医療費抑制政策で、何処も採算の悪い状況が続いています。それでも常に新しいアイディアを出して病院に明るい未来の展望を打ち出して行くのが、経営者の使命だと自らを叱咤激励している日々です。
次回に続く

診察室からコンニチハ(52)

病院運営の最大の悩みは、いつも人手が足りないとの危機感です。それは時に医師だったり、看護師だったり、薬剤師その他の種々の職種で常に人手不足の問題は抱えています。何もこれは病院に限らず日本の全ての企業が抱えている問題なのでしょう。
それでも病院が他の業種と違うのは、無資格者の人手集めに苦労の種が尽きない事です。薬剤師や検査技師などの有資格者は、医療関係で働くしかない訳ですから比較的に人手の確保はしやすいのですが、事務系や看護補助者などは世間の景気にかなり左右されます。
不景気の時代には事務系や看護補助者なども容易に応募に反応してもらえたのですが、景気が良くなると他の業種に流れてしまいます。特に患者さん方の食事や入浴など縁の下の力持ち的な仕事をしてくれる人達の確保は大変です。
少子高齢化と高学歴化で、若い人たちは地味な仕事からは確実に遠ざかっています。デパート駐車場の整理係、道路工事の誘導など多くは高齢者の仕事になっています。同じ様に病院でも介護者の高齢化が目立ち始めています。かつてはブラジル日系人の方々により介護要員の多くを担っていましたが、風土の違いや女性同士の細やかな感情の行き違い、あるいは日本の島国根性などが重なって海外からの人員補充は先細りになるばかりです。
病院も開設35年目を迎えると、色々なルールや形式が知らない間に芥(あくた)の如く溜まってしまいます。もちろん良き伝統もあるのですが、「悪貨は良貨を駆逐する」の譬(たと)えにもある様に、組織と云うものは常に自己改革に努めなければ、何時しか消滅して行く運命にあるものです。
日本を代表する大手企業と雖(いえど)も例外でない事は、昨今の社会現象が証明しています。
さて私たちの病院は、これから先どの様な自己改革が出来るのでしょうか?…病院長である私の責任は重大です。
次回に続く

診察室からコンニチハ(51)

現在社会では、多くの情報が氾濫しています。医学情報も同様です。時に少し疑わしい情報もあります。マスメディアからの医学情報は膨大な量です。テレビ、新聞、週刊誌そしてネット上で流される情報は洪水の様で、多くの人達に戸惑いを与えています。
それら情報の中には、医師として納得の行くものもあれば、かなり怪しいものも多分に含まれています。
外来診療の合間にも、
「テレビで血圧の話をしていたんですが、私の血圧は高くないですか」
とか、
「サプリメントが認知症に効果があるって聞いたのですが、先生はどう考えますか?」
など、質問も様々です。
結局は自分の40数年間の医師生活の中で学んだ事でしか、答えようがありません。後は自問自答して、
「正常血圧とは何だろう。高齢者に正常血圧の概念は当てはまるだろうか?…コレステロール値と動脈硬化の因果関係は?…海外と比べ日本での使用薬剤が、一般的にかなり多いのは何故だろうか?」
あれこれ考えながら、日常診療では自分なりの方針を打ち出して行くしかないのです。それが10年ぐらい経て、自分の方針が間違っていなかったと学術文献で実証される事もありますし、自分の勉学の浅さに気付かされる事もあります。それ以外に間違った医学情報を鵜呑みにしていた事もあります。医学文献でも情報は常に修正されているのです。
そんな日々の中で、患者さん方から熱い信頼を受ける事もありますし、逆に大病院志向から私の説明が受け入れられない事もあったりします。
嬉しさと、プライド、そして挫折感の入り混じった日々です。
次回に続く

診察室からコンニチハ(50)

私が医学部の学生時代(1970年代)、医師はまだ権柄尽(けんぺいず)くな人が多かった気がします。特に大病院の医師の中に、その様な人が多かった印象があります。まだ医師が「お医者さま」と、呼ばれていた時代でした。結核を始め、多くの感染症が克服され日本人の平気寿命は飛躍的に向上して行きました。乳児死亡率も激減しています。1955の乳児死亡率39.8(出生1000人に対する死亡率)に対して2000年での死亡率は3.2までに減少しているのです。外科手術も格段の進歩を遂げています。
未来に直面する甚大な不治の病よりは、克服されて来た数多くの疾患の上に医師たちは幾らか慢心の思いを抱いていたかもしれません。
それら慢心の裏返しか、または患者さん方の権利意識の目覚めか、医療訴訟が1997年ごろから急増して来ました。1997年(訴訟数310件)、1999年(678件)、2004年でピーク(1110件)を迎え、その後は軽減して2017年(857件)となっています。医療ミスは医療サイドだけの問題なのか、システムに欠陥はないのか(医師の超過勤務 : 週に80時間以上もあり得る)などの問題も昨今は惹起(じやっき)されています。
いずれにしても医師が「お医者さま」から「お医者さん」と名称の変化が生じたのは確実です。
それは聖職者ではなく、知的技術者になった事を意味しているのかもしれません。
そしてパソコンの発達、画像診断の向上、電子カルテの普遍化などにより、医師と患者さんの生(なま)の会話は少なくなっている様な気がします。
病を通じて感情の共有は激減しているのではないでしょうか?
この患者さんの病気を何とかしたい(仕事ではなく、人間として)と云う医師を見かける事は、昨今では稀有になっています。家に帰って、食事をしていても自分の受け持ちの患者さんがどうなっているか常に気になって仕方がないとの、思いに駆られている医師は今でもいるでしょうが、少数にはなっているでしょう。
かく言う私は、60才代後半から少しずつ医師として気力の衰えを感じ始めています。それでも少しは何かの役に立ちたいと願いながら、このブログを3年以上続けています。
次回に続く

診察室からコンニチハ(49)

かつて大学病院の助手時代、「医師国家試験対策」補助指導を半年ほどさせられた事があります。医師になって9~10年目ぐらいだったと記憶しています。血液内科に籍を置いていましたので、指導教科は当然血液学です。5年間ぐらいの過去問を見ながら、最先端の知識にも目を通して20人一組で90分間の講義をして行きます。詳しい事は忘れましたが、90分間を1単位として4~5単位ぐらいのカリキュラムだったと思います。
未だ骨髄移植のない時代で、急性白血病は不治の病でした。自分より若い20代の人が亡くなった時は、治療をする立場の人間としては精神的にもかなりの苦痛を感じました。治療の基本は抗がん剤で感染症や貧血の悪化さらに止血対策など直面する課題は山の様にありました。関東地方全域から、白血病の患者さんが連日送られて来ました。確定診断としての骨髄穿刺(多くは胸骨から)も週に何度となく行っていました。若い女性からは、検査の不安から手を握る様に頼まれたりもしました。
抗がん剤の集中治療で一時的な効果は、かなり上がっていました。顕微鏡的に白血病細胞の認められなくなった病状を、当時の私たちは「寛解」と称していました。一度寛解に入ると退院になります。後は外来で経過を見て行くのですが、経過の良い患者さんですと1年以上は自宅での生活が可能でした。そして多くは8ヶ月~14ヶ月の間に再発してしまいます。そして、また厳しい闘病生活のスタートとなります。初回に比べると、治療効果はかなり落ちます。30代後半になると、度重なる抗がん剤の治療に体力が持たなくなるのです。白血病で使用する抗がん剤は、肺癌や胃癌で使用する薬剤とは比較にならないくらい副作用が強かったのです。それでも若く体力のある方は二度目の寛解に、何とか成功します。そして無事に退院の運びに漕ぎ着ける事が出来るのですが、三度目の再発で寛解に至るケースは極めて稀でした。
さて話を学生指導に戻りますと、彼等には白血病の分類や、どの様な白血病にはどの様な抗がん剤が効果的であるか、さらに多くの合併症に対する予防と治療法などを説明していました。23~25才ぐらいの若者たちは、皆んな真剣な眼差しで私の話を聞いていました。医師国家試験まで1年間を割りこんでいる時期ですから、彼等が真摯にならざるを得ないのは当然だったかもしれません。
そんな学生たちに授業の最後に、私が決まって送る言葉がありました。
「もし医療が完璧なもので、どの様な病気でも確実に治せるものなら医師は横柄な態度を取っても許されるだろう。しかし、現実には不治の病は永遠に存在するのです。それを現代医療の限界だと居直ってはならない。不治の病に直面する患者さんには、医師自らの至らなさを謙虚に詫びる心が必要です。一つの生命に対する敬虔(けいけん)な気持ちで、患者さん方の最期に贖罪すべきなのです」
こう言って、私は彼等を常に送り出します。
次回に続く