診察室からコンニチハ(100)

元号が今年5月1日から新しく変わろうとしています。新元号 は「令和」であると、この4月1日菅官房長官から首相官邸で発表されました。その意味は
「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育ち…
梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる国でありますように」
との説明でした。
出典は日本最古の歌集「万葉集」から引用したそうです。日本の書物(国書)が元号の出典となったのは初めてと言われています。これまでの元号は全て中国の古典から引用されていたのです。何か中国との関係が考慮され、国書からの引用となったのでしょうか?
それはともかくとして、和暦として西暦とともに大切にされてきた元号はベトナムや中国などでも使われたことはあったようですが、現在に至るまで元号を使い続けているのは世界中で日本のみとなっています。日本書紀によると元号が使われ始めたのは645年の「大化」が始まりのようです。
さて、最初の元号と言われる「大化」から2017年の今日に至るまでの「平成」にはいくつ元号があったかご存知でしょうか。応仁や享保など、社会科でとにかくたくさん習った記憶があります。30?50?100以上?
さて、答えはなんと「平成」を含め247個あるそうです。ただ、南北朝時代において南朝元号・北朝元号を加算した場合の総数なので、南朝を基準とした場合は231個が総数とされています。社会科で元号が多いように薄々感じられてきたとはいえ、改めて知るとなかなかの数に圧倒されますね。元号の変わる基準が現在とは異なり、天変地異や戦、占いなどで元号を変えるきっかけを得ていました。そのため数年、または数ヶ月で元号が変わっている事があり、ここまでの数となっているようです。現在の感覚で考えるとあまり頻繁に変わってしまうとこんがらがってしまいそうですね。
さて、それでは明治神宮による元号の解説より明治からの元号の由来をお話していきます。
まず明治の由来は五経の一つである易経より「聖人南面して天下を聴き、『明』に嚮ひて『治』む」という言葉からきています。これには「聖人が北極星のように顔を南に向けてとどまることを知れば、天下は明るい方向に向かって治まる」という意味が込められています。
次に大正です。大正も明治と同じく易経より「『大』亨は以って『正』天の道なり」という言葉が由来となっています。意味は「天が民の言葉を嘉納し、政が正しく行われる」というものです。
そして64年と最も長い元号である昭和です。昭和も五経の一つである書経から「百姓『昭』明・協『和』万邦」という言葉が由来となっています。込められた意味は国民の平和と世界の共存・繁栄を願うものとなっています。
そして2017年現在まで続く平成です。史記からの「内『平』かに外『成』る」と書経からの「地『平』かに天『成』る」という言葉それぞれから平成と付けられました。「内外、天地ともに平和が達成される」との意味で、元号が重ねられるたびに平和を尊いものとする意味が強まっているように感じられます。
ちなみに明治は江戸時代から計10回も候補となってきたものの採用を見送られ続け、1868年で11回目にしてやっと元号となることができたという、なんだか胸が熱くなるようなストーリーも持っています。
元号が変わるという状況に新たな風が吹き込んできた昨今、新元号の予想に勤しむ方々もいらっしゃいますね。有識者の方々が練りに練って考える元号は手帳やカレンダーにも記載される日本にしかない暦です。由来や込められた意味を汲み取って大切に時を過ごしていきたいですね。
さて、話は脱線しますが本年2月頃までのネット情報での新元号は「安久」であるとの噂がもっぱらでした。それが何故変わってしまったか、一総理大臣「安部首相」の「安」を使うのは好ましいないとの批判が相次いだとの話もあります。
まあ、何を置いても新元号の「令和」が私たちに幸福な時代となります事を心から願っています。
次回に続く

診察室からコンニチハ(99)

この認知症ブログを始めて、満4年が過ぎさろうとしています。私のブログへのアクセス件数も15万件に近い数字となっています。多くの支持者と、時に厳しい叱咤を受けながら今日までやって来られたのは偏(ひとえ)に皆さま方の、ご質問の数々に支えられて来たものと心より感謝を申し上げます。
アクセス件数15万件の内訳を説明しますと、日本国内からが95%で海外からは5%近いアクセスです。海外は米国、次いでデンマーク、カナダ、中国、韓国、ヨーロッパ、ロシアとなっています。それ以外の国からもポツンポツンと稀にアクセスがあります。海外からのアクセスは向こうで結婚された日本人の方からのアクセスではないかと想像しております。
私も70歳を超えて、ややもすると不勉強な日々に安住しがちとなります。そうなりますと、自分自身が認知症になるかもしれないとの不安に駆られたりもします。
そんな自分に叱咤激励する意味では、このブログが重要な存在となっています。自分自身が出来る限り現役の医師として仕事を全うする為には、常に新しい知識を追い求めなければならないのです。
過去の経験だけに頼っていては、新しい医学の時代から取り残されてしまいます。そんな私に認知症ブログを通して、寄せられる難問は刺激的です。時に頭を抱えて回答に窮す事も稀ではありません。そして、この認知症ブログの質問と回答は私の日々の外来診療にも、とても有益です。ブログを通しての知識から、数々の治療方針を考え出す事が出来るのです。医学雑誌では得られない情報も多いのです。大袈裟な言い方をすれば、そこには生きた学問がある様な気がしています。その意味で、これからも多くの質問が寄せられる事を心から望んでいます。時には、質問者の意義に沿わない回答となってしまう事があるかもしれません。その様な時には、ビシビシと叱咤して下さい。
よろしくお願い申し上げます。
次回に続く
  

診察室からコンニチハ(98)

それからも平均寿命の伸びと出生率の低下が続き、我が国の高齢化率は驚異的に上がって行きました。1960年代の高齢化率は、わずか5.7%でした。それが2000年には17.3%、2015年には26.7%まで上昇しました。これにより医療費は膨らみ続けます。
この医療費の膨張に対応する為に、政府は平成元(1989)年ついに消費税の創設(3%)に踏み切ります。さらに平成9(1997)年には消費税が5%に引き上げられました。
そして平成12(2000)年には介護保険制度が実施されました。これまでの税金に加えて、40才以上では介護保険料の徴収が始まったのです。これにより国は老人医療費の増大を医療保険と介護保険とに区分して社会福祉の効率化を目指しました。
しかし、この効率化は介護保険制度の実施に伴い逆に高齢者の介護需要の増大を招き、医療保険と介護保険は共に収支バランスを悪化させて行きました。そこで国は平成26(2014)年4月1日より消費税を5%から8%に引き上げました。それでも加速化する少子高齢化の勢いに国の財政負担は増すばかりでした。
さらに日本経済は平成の時代に入って、長い不況のトンネルから抜け出せずにいます。これ以上の医療費と介護保険費の増大に歯止めをかける為、種々の施策を実施して来ました。医療費の個人負担も徐々に増やし、薬価は2年毎に引き下げています。
また特別養護老人ホームの入居条件を厳しくして、在宅ケアを推進しています。その結果、「介護難民」と云う言葉さえ出始めました。「老々介護」の問題も深刻化しつつあります。
種々の病気で一度寝たきりになってしまうと、家庭崩壊の危機さえ出て来ました。病院に入院させるにしても、老人ホームに入居させるにしても自己負担額は増える一方です。
「在宅介護」と一口に言っても、核家族化された現代社会では、在宅介護が可能な住宅環境も整っておらず、それを支える人手もありません。介護保険制度でホームヘルパーを利用するにしても、それだけでは足りません。家族の支え無くして在宅介護は成立しないのです。
「寝たきり老人」にとって、その置かれた状況は経済的にも厳しいものとなっています。日本経済が低迷する時代が続く中で、各個人の年収は右肩下がりに減っています。自分たちの生活が精一杯で親の面倒は見られない世帯が確実に増えています。生活保護受給者も20年前に比べて倍増しています。
次回に続く

診察室からコンニチハ(97)

この自宅兼診療所と云うスタイルは、昭和の終わりから平成にかけて激減しました。特に平成バブル崩壊で、不動産不況に陥った借り手のないテナントビルをクリニックとして活用するアイディアが急激に拡がりました。開業を目指す医師たちも、この企画に飛びつきました。自分で建物を購入する必要がないので、初期投資が大幅に軽減したからです。それ以上に診療時間が終わればクリニックのドアは閉じてしまうので、それ以後は自分のプライベートな時間として自由に過ごせると云うメリットが歓迎されたのです。この波は都市部で急激に拡がりを見せました。しかし、土地や建物のコストが安い地方では未だ自宅兼診療所と云うスタイルは存続していました。地方では不動産業がテナントビルを作って医師を誘致すると云うビジネスモデルが成立しにくかったのかもしれません。その結果、都市部ではそれまで一時救急(軽度の発熱や腹痛などで入院を要しないもの)の担い手だった開業医の仕事が病院に回って来たのです。そして病院には、これまであまり診る必要のなかった風邪や軽度の怪我までが夜勤帯に患者さんとして押し寄せて来る様になりました。開業医が解放された分、勤務医の仕事が増えました。この様な診療体制の変化の中で、開業医の経営効率は良くなり、病院の経営効率が悪化して行きました。そんな時代の流れに沿って、病院の勤務医が積極的に開業を目指し始めました。その結果ビル診のクリニックが乱立して、開業医は過当競争へと突入して行きました。そして当然の如く今度は開業医の経営効率が悪くなり出しました。
ここで我が国の保険制度を少し振り返ってみましょう。昭和36(1961)年に国民皆保険制度が確立し、全ての国民が一定の負担で医療を受けられるようになりました。これにより医療需要が増大しました。さらに昭和48(1973)年1月から老人医療(70歳以上)無料化が実施された事により、診療所と病院は黄金期を迎えました。診療所は「老人のサロン化現象」を呼び起こし、病院は寝たきり老人の「社会的入院」が問題となっていました。この様な時代背景にあって、昭和50年代前半ぐらいまでの開業医は、自宅兼診療所で投資した多額の借り入れ額を7~8年で返済出来たと言われました。当時の銀行は医院の開業資金は無条件で全額融資してくれました。病院経営も同じで、まともな医療行為のみに専念するだけで借金の返済を気にする必要など全くなかったのです。
この医療保険制度により日本人の平均寿命は飛躍的に伸びましたが、国民医療費の膨張を招きました。
この為に政府は昭和57(1982)年、老人医療費に一定額負担の導入を実施しました。これ以上の無料化には耐えられなくなって来たのです。
次回に続く

診察室からコンニチハ(96)

私はこの老人ホームとの連携をより強化する為、自分のケータイ番号を全てのホームのナース達に知らせました。1年365日24時間オンコール形式にしたのです。このオンコール方式を取った事により、病院のベッド稼働率は確実に向上し、病院運営は順調に推移して行きました。
問題は私の心と身体がどこまで持ち堪えられるかにかかっていました。60才直前の私は、未だ自分の身体に過度の自信を持っていました。日祭日には連携している老人ホームから、合わせて10数回の電話がかかって来るのも稀ではありませんでした。また夜間帯に数回電話が入る事もありしました。
「熱発しているので今から入院させて欲しい」とか、「意識状態が変なので今からCTを取りに行っても良いか」
など、普通ならば病院の当直医が対応する事まで全て自分で背負いこんでしまったのです。
何故かと言いますと、パートの当直医だと夜間にCTは撮れないからと緊急の患者さんの受け入れを断ってしまう例があったからです。その為に分かりやすいCT撮影のマニュアルを置いてあるのですが、それでも拒否して患者受け入れをしないパート医がいたのです。何年も外来通院していたり、連携している老人ホームからの患者さんを断られたりすると、病院の評判がかなり悪くなってしまうのです。パート医でも数年近く勤めている人ですと、緊急入院を断ったりする事は少ないのですが、そのパート医が自分の都合で他の医師に臨時で頼んでいたりすると、頼まれた医師は勝手がわからず緊急の依頼を断ってしまうケースが多くなるのです。そんな場合には後で、
「先生の病院では夜間でも緊急入院させてくれると言っていたのに、実際は受けてくれない」
と、お叱りを受ける事が幾度かあったのです。そんな事情もあって連携している老人ホームとか、何年も外来に通っていらっしゃる患者さんには私のケータイの電話番号を、お知らせしたりするのです。しかし、この過剰サービスも度が過ぎると私自身が心身ともに疲れ果ててしまうのですが、60才ぐらいまでは何とか耐えられました。
大学病院時代に先輩医師から受けた薫陶(くんとう)が身に沁みついていたのかもしれません。
「医家は眠らず」
との格言が常に頭の何処かにあったのでしょう。事実私より10年以上先輩の開業医は、自宅の1階が診療所で2階を住宅にしている人たちが多かったので夜中に患者さんから叩き起こされる事も度々だった様です。ですから、その時代の医師の平均寿命はかなり短かったと言われています。
次回に続く

診察室からコンニチハ(95)

では、どの様にすれば病院経営は健全になるのか?…良質な医療サービスを提供し続けたいと願っても、時には願えば願うほど悪循環に陥る危険性が増します。現在の様に医療費抑制政策が加速している時代では、総合病院や大病院の運営と云うものは極めて不利です。何故かと言えば規模が大きくなる程、不採算部門が多くなるからです。単科もしくは数科を専門的に特化して行く方が経営効率が高まります。さらに重要な事は、どれだけ優秀な医師が集められるかに病院の評価が大きく左右されてしまうと云う事実です。それでも高度な医療と患者本位の医療を追求した総合病院の幾つかは巨大な赤字経営で破綻の苦しみに喘いでいます。ある大病院は海外から有能な医師を何人も引き抜き看護体制も日本の基準をはるかに超える素晴らしいシステムでした。日本の大学病院より一歩進んだ最先端医療にも率先して取り組んでいました。テレビでもその医療設備の凄さと、病室の快適さは度々放映されました。経営者の親は地元の大地主で遺産額は数百億円以上と言われていました。そんな病院でも開院40年を超えた頃から、銀行の負債総額が500億円を超えたと噂されています。
病室の殆どが個室で、室料差額が最低でも6万円以上だったのです。ベッド数が900床もある大学病院クラスでは、如何に最先端の医療を目指しているとはいえ、それだけのベッドを高額の室料差額で埋める事は不可能だったのでしょう。その例外としては東京都心にある有名な病院ですが、室料差額は10万円以上なのですが、ベッド数が100床未満なので芸能人専用の病院として大幅な黒字決算を継続しています。他にも都心にある総合病院で、ベッド数が400床を超えると高額な室料差額を求める病院経営は赤字決算に見舞われるケースが多くなっています。
それでは私の病院は、どの様にして黒字化が出来るようになったのでしょうか?それは多くの幸運が重なっていたのです。
先ずは平成16年頃から、私の病院近くに老人ホームが開園され始めました。平成21年から23年には5つもの老人ホームが開園され、それらの全てが私の病院を配置医に指定しました。その内の3ヶ所に私が毎週の様に往診に通っていました。1つの老人ホームで入居者が平気100人前後でした。つまり5つの老人ホームと関連している事は500人もの院外患者さんを抱えている事になるのです。この平成21年頃から私の病院は一気に黒字化へと邁進して行きました。
次回に続く

診察室からコンニチハ(94)

良質の医療サービスを提供しているのだから、それ相応の室料差額が発生しても仕方がないと云う理論は通用しなくなって来たのです。患者さんの自己負担額を少しでも下げなければ、入院ベッドはどんどん空室が目立ち始めました。
生活保護者の入院は、それまでかなり人数を制限していたのですが、そんな事も言えなくなってしまいました。どんな患者さんでも積極的に受け入れるしかないのです。
平成22年頃からは、病院から得られる私の個人収入はゼロになる年が多くなりました。我が家の生活費は、それまでの貯金を切り崩して生活するのが慢性化していました。何枚か持っていたゴルフ会員権を売却したり、リゾートマンションを手放したりして食い繋いでいたと言っても過言ではなかったのです。数年に一度くらいはそれなりの収入が得られる年もありましたが、それでも私の病院で働いている常勤医と同額ぐらいでした。ともかく日本中がダンピング競争の渦に巻き込まれていたのです。デパートの洋服売り場は、何処もガラガラです。昨今では中国人の富裕層が日本で爆買いする傾向が強くなり、一部の高級店が息を吹き返していますが。
都市部の病院は、人件費の増大と室料差額の値下げ競争で経常利益は悪化する一方の状態に突入しています。私立の大学病院と言えども、この例に漏れず巨額な負債を抱えるところが増えています。病院経営は正にサバイバルゲームと化しています。
かって、
「医は仁術でなく、算術になり果てた」
との悪口が世間で盛んに吹聴されていましたが、今や算術ではなく、医は高等数学になっています。ベッド稼働率を如何に高めるか、入院期間をどれだけ短くして1ベッドの収益率を上げるか、リハビリの施設基準や看護基準を効率良くクリアして、どれだけ保険収入を高める事が出来るのか、考えるべき方程式は限りなくあるのです。算術などと云う単純な数式では、病院経営は成り立たないのです。
理想の医療を追求する前に大きな壁が幾つもあって、その壁の厚みが年々増して行くのです。日本経済の衰退と共に医療の規制はより厳しくなって行きます。それでいて医師や看護師の給与体系は、より高くなっています。
正に病院経営は四面楚歌の状態にあると言えるのです。水面下での病院倒産も相次いでいます。医師や看護師の誰もが変わらないから、外見では倒産とは分かりません。人知れずに経営者だけが変わっているのです、個人的な破産宣告を告げられて…
30年以上も病院長と事務長が一度も変わらないのは、横浜市では多分私の病院だけかもしれません。
次回に続く

診察室からコンニチハ(93)

この年の冬は、私の病院でもインフルエンザ患者さんが続出して療養型病棟では点滴の使用量が増大していました。1ヶ月間での点滴使用による薬剤費の病院支出は赤字になっていました。私は心密かに、この痩せ我慢を何時までしなければならないのだろうと案じていました。しかし、その甲斐があってか1ヶ月間の死亡者はゼロでした。
保健所からの医療監視(医師を含めた)の人々は、カルテのチェックを終え驚いていました。療養型で、これほど手厚い医療行為をしている病院は見た事がないと感嘆の声さえ上げていました。その保健所スタッフから、
「こんな手厚い医療行為をしていたら、病院経営は赤字になってしまうでしょう」
とまで、言われました。私はニッコリと頷いて…
「医療には、時にボランティア行為も必要でしょう」
と、答えました。この結果、保健所内での病院の評価はかなり上がったと思います。私も自分の痩せ我慢が報われた思いで満足感に満ち溢れていました。その後も室料差額のアップを続け、病院の経常利益も徐々に上がって行きました。患者さん方の中には、自己負担額が高いと云うので他の病院に転院する人たちもいました。
しかし、他に転院した患者さんの半数近くは数ヶ月もしない間に私の病院に戻って来ました。高くても医療サービスがまるで違うからと云う理由が多かったのです。私は大いに気を良くして、自分の経営方針に間違いなかったと確信して行きました。そんな私の確信は平成14年ぐらいまでしか続きませんでした。バブル崩壊後の日本経済の低迷が国民の年収を徐々に低下させていたのです。平成2年から始まったバブルの崩壊はゆっくりと日本経済を悪化させて行きました。「失われた10年」とか、昨今では「失われた20年」とまで言われ出し、さらに加速度的な少子高齢化の進展に伴って医療費は増大し、国民の医療費負担額も増えて行ったのです。かつては高齢者の医療費は全額無料の時代もあったのに、今では夢の様な話になっています。
その結果、国民の多くは高齢者に対して良質の医療よりは安価な介護を求め出したのです。そして「看取り」と云う言葉も流行り始めました。私は「看取り」と云う概念を否定している訳ではありません。ただ安易な経済的な理由で「看取り」と云う思考に流れて行く発想に疑問を抱く時があるのです。
次回に続く