潮騒は聞こえず(42)

吉次は考えていた。仕事が大きくなれば危険も大きくなる。儲けの大きさにばかり欲を張り過ぎると全てを失ってしまう恐れさえある。出来れば今回の仕事に自分は直接加わりたくはないが、儲けの美味しい所だけは欲しい。「さあ、ここが思案のしどころだ。そうよ、先ずは情報と言う餌をちらつかせてみるべきだ。実際の仕事はチャーリーと徳治の奴らにやらせれば良い。情報と云う美味しそうなネタを徳治の奴に売りつけてやるのよ。そして俺は何時でも逃げられる様に高みの見物を決め込むんだ」
そんな自分勝手な考えを懐に隠し持って吉次は徳治を上野の小料理屋に誘い入れた。そして思惑通り徳治は誘いに乗って来た。水の一杯も飲まず、吉次の話しに目を輝かしている徳治の姿は愉快だった。大きな真鯛を見事に釣り上げた様な爽快感である。「それでね徳さん、先ずは少なくてもトラック2台は必要なんだよ。3台だともっと良いんだがね。そのトラックをGHQに徴収させるのさ」「そんなに上手く行くかね」「そりゃ訳ないよ、何たってGHQの将校が仲間にいるんだ」「ふん、それからどうするんだい」「そのGHQに徴収されたトラックに徳さん、あんたの欲しい物を目一杯詰め込むのよ」「そのトラックをどうするんだ」「2台、上手く行けば3台分の積み荷を徳さん、あんたが指示する隠し倉庫に持ち運び、後は処分の機会を窺うのよ」「そんなに上手く行くかな」「上手く行くかどうかは徳さん、あんたの根性しだいだ。GHQの将校さんと念入りな打ち合わせをしてやる事だ、下手を打つ訳はないだろうが」「まあ、そりゃそうだろうが、話しが出来すぎてるんじゃないかい」「徳さん、良いんだよ嫌なら嫌で話を別の所に持って行くだけの事だからさ」「まあ吉さん、誰も嫌だとは言ってないよ。ただずいぶんと危ない橋じゃないかと心配しているだけだ」「危ない橋が怖けりゃ、このご時勢にどうやって金儲けをするんだよ」「まあ、そう言われちゃうと身も蓋もないがね」「で、どうするんだい徳さん、仕事はやるのかやらないのか。こっちだってここまでの話をしているんだ、ガキの使いじゃあるまいし、それなりの落とし前は着けてもらうよ」「まあそんなに凄まなくても良いよ。あたしなりに考えてみたが、この仕事はやらせてもらうよ」「そうかい、そうかい、始めからそう言ってくれりゃ俺は何もグズグズ言う事もないさね」と少し機嫌を損ねかかっていた吉次の顔に笑顔が戻って来た。「で、これからはどうするんだい。先ずはGHQの将校さんには会わせてくれるんだろうね」「そりゃ言うまでもない。徳さんさえ良ければ段取りは何時でもつけるさ」「分かった、それで良い。それなら私も一杯飲むか」「そうよ、それで良いのよ。お~い、姐さん熱いのを2本ぐらい頼むよ」と、吉次が2階から下に声をかけた。「ところで徳さん肝腎な事を忘れちゃ困るよ」「肝腎な事って」「冗談はよしにしてくれ、肝腎な情報料を忘れちゃ話にも何もならないじゃないか」「あぁ、その話か。でも未だGHQの将校さんにも何も会っていないんだよ」「なに、それじゃ俺の話が与太話とでも言うのか」と、再び吉次の顔が気色ばんで来た。「そうは言ってないよ、ただこれだけの話で1万円の全額は出せないね」「じゃ幾らなら出すって言うんだ」「まあ吉さんの顔を精一杯立てて、5千円って所でどうだい」「ふ~ん、5千円かい」「だってそうだろう。話は半分も進んじゃいないんだ、5千円でも多いくらいだ。私たち商人(あきんど)の目から見れば、今日はそんな所だよ。後はその少尉さんに会わせてもらってからだ」と言われ、吉次も渋々頷いた。
明日に続く

認知症の生活療法

のりおさんへの回答
先ず82才のお父さまが、どの様なタイプの認知症なのかは分かりかねますが、少なくとも何日間は禁酒しようとなさっているのですから問題行動の多いピック病と言うよりはアルツハイマー型認知症と考えてよろしいのでしょうか。それと認知症そのものも文面から拝察する限り未だ軽度ではないかと思われるのですが。後は飲酒量の問題ですが昼間から飲み続けていると言うのであれば困りますが、夕食後に楽しむ程度(日本酒なら1、2合程度)なら構わないと思います。又その程度の飲酒量なら認知症の薬と同時に飲まれても殆ど問題は発生しません。それよりは82才のお父さまの生き甲斐を奪ってしまう方がお可愛いそうな気がします。今や認知症の根本治療は薬よりは生活療法に主眼が置かれています。もちろん飲酒の問題もその中に含まれて来ます。飲酒は飲酒として日々の生活の中でどの様に運動療法(散歩等)や脳トレーニング(日記を書く、新聞を読む、社会情勢に興味を持たせる)、さらに規則正しい生活または家の掃除等を出来る限りしてもらう等の努力の積み重ねが認知症予防には最大の効果を発揮するのですが。


認知症と診断を受けている82才の父ですが、お酒が好きでかかりつけ医からは何度も禁酒を勧められています。父も何度かはその気になり10日間ぐらいは禁酒をするのでが、長続きはしません。その度に又かかりつけ医から禁酒が出来ないなら認知症の薬なんか飲んでも仕方がないと叱られます。今のかかりつけ医は認知症専門医ではありません。この先、どうしたら良いのでしょうか。

潮騒は聞こえず(41)

チャーリーは軍需物資の横領を続けていた。週に1、2度の横領で日々の生活は何とか維持出来たが、それ以上の贅沢は望むべくもなかった。もっと何か大きな仕事を手がけなければと、彼の欲望は膨らんで行った。そんな折も折、耳よりな情報が流れて来た。来月6月12日横浜にサンフランシスコから大型の貨物船が大量の軍需物資を運んで来ると言うのだ。トラック100台分以上はありそうだとの話である。GHQのトラックだけでは足りず日本のトラックも何10台かは徴収するらしい。このニュースに接してチャーリーは全身に身震いを感じた。直ぐ吉次に連絡を取った。何としても、このチャンスを物にしたい。100台以上ものトラック輸送だ。1台や2台のトラックが何処かに消えたって不思議でも何でもないだろう。それにGHQ以外のトラックも使用すると言っている。
これ程のチャンスが何処にあると云うのだ。座間基地近くのGHQの兵隊がよく行くバーでチャーリーと吉次は、一杯のビールにも殆ど手を付けず小声で目だけは血走った面持ちで話し合っていた。一人二人で出来る仕事ではない。チャーリーの仲間も他に必要だし、信頼出来る日本人も欲しい。トラック2台分の物資ともなれば利益は計り知れない。これまでの様なボストンバックにウイスキーを10本やそこら横流ししていたケチな仕事とは大違いだ。二人とも溜息ばかりが多かった。グラスに半分ぐらいビールを一気に飲んだ所で吉次がキッパリと言い切った。「チャーリー、分かった。日本人とトラックの事は俺が何とかする。しかしGHQの仲間集めはお前さんの仕事だ。そして儲けは半分づつだ。それで良ければ協力する」と、自信あり気に答えた。チャーリーもビールを少しだけ飲んで「よし、それでOKだ」と、自分を励ます様に言った。この時、吉次の頭には素早い計算が出来上がりつつあった。「あいつしかいない。でもただでは仲間には入って来ないだろう。何とか恩を売りつける格好が必要だ。自分から進んでこの仕事に首を突っ込む様にさなきゃならなえ」と吉次が秘かに思った相手は、あの米問屋の徳治だった。上野のバッタ市場で幾度かちょっとした仕事をした事があり、少しは気心も知れている。気っ風も良さそうだし、いつも目をギラつかせ儲け話を探している。小金も持っているみたいだ。俺みたいな一匹狼と違って使用人もかなりいそうだ。問題は奴をどうやって丸め込むかだ。
明日に続く

潮騒は聞こえず(40)

1946年11月のララ物資の援助が始まるまでの日本は全国的に飢餓状態が続いていた。終戦直後の救援物資は同じ白人同士のヨーロッパに集中していた。日本人への救援物資活動は当初マッカーサーの意識には昇っていなかった。基本的に彼は白人社会の超エリート集団としての教育を受けていたので、人種差別の強い人間であった。
ララ物資(LARA: Licensed Agencies for Relief in Asia :アジア救援公認団体)は 1946年1月22日サンフランシスコ在住の日系人浅野七之助が中心となって「日本難民救済会」が設立された。反日感情が残るなかで「アジア救援公認団体」認可に際しては日系人と知日派のキリスト友会員の必死の努力があって1946年11月から1952年6月まで行われた。重量にして3300万ポンドの物資、乳牛や2000頭を超える山羊などもあり、食糧75%、衣類20%、医薬品その他5%と成っており、現在の推定金額で5千億円以上と言われ、この20%が日系人の血と汗の結晶であるとも言われている。戦時下では彼等日系人も白人社会の中で強い迫害に遭い、彼等自身が窮乏生活をしている時代の血の滲む様な救援活動であった。
当時のGHQは日本と言う国が再び国力を付け世界の脅威にならない様に憲法改正を含め三等国に貶める様な占領政策を基本方針としていた。朝鮮、中国、シンガポール、フィリピンその他の如何なる国の工業生産力をも上回ってはならない事が最大原則であった。つまりアジアでは最貧国の地位を半永久的に維持させる事が重要であったのだ。そしてマッカーサー率いるGHQの占領政策は着実に遂行されていた。1946年当時マッカーサー元帥は66才、彼はともかく日本の占領政策を速やかに成功させ、1948年のアメリカ大統領選挙に出馬したくてならなかった。しかし彼の思惑通りにはならなかった。1946年5月3日から始まった東京裁判(極東国際軍事裁判)が思った以上に長引いた。当初1年もかからないだろうと予想されていた裁判が2年半もかかり終結したのは1948年11月2日だった。こうして彼の大統領選の夢は実現しなかった。そして1950年6月25日の朝鮮戦争勃発、これにより日本の運命は大きく変わって行く。自由主義経済国(連合国)と共産主義国(北朝鮮、中国、ソビエト連邦)との正に世界を二分する大戦争が1953年7月27日までの3年間にわたり続いたのである。日本の占領政策など瑣末な問題と化してしまった。日本の工業生産力を最大限にアップさせなくては共産主義国との戦いに対応出来なくなったのである。日本をアジアの最貧国に貶める占領政策は根本から崩れ去ってしまった。話が大きく脱線している。
チャーリーと鈴枝はどうなって行くのかに話を戻さなければならない。しかし彼等二人の運命もこの大きな歴史のうねりの中で間違いなく翻弄されて行くに違いない。
明日に続く

潮騒は聞こえず(39)

ともかく予定の2日前には何とかチャーリーと鈴枝の二人は座間基地近くの借家に新居を構えた。本物の新婚生活が始まる様で、鈴枝の目には何もかもが新鮮に見えた。こうして1946年4月半ばから彼等の新しい生活がスタートした。東京一面の焼野原だった荒れ果てた土地にも、桜の花は所々ではあるが季節の香りを誇るかの様に咲き、そして散って行った。それは彼等の未来を祝福しているのか、それとも散り際の儚さを予言しているのか誰も知るべくもない。
彼等は互いに知り合って2ヶ月弱しかたっていない。しかし男と女の関係は時間の長さだけで推し量れるものではない。何年もダラダラ付き合っても一緒に成れない男女は数多(あまた)いるし、一瞬の出会いで燃え尽きる様な恋に陥ってしまう事だってある。真の意味での恋愛とは「一種の逆上」でないか。打算や理性が働いたものは恋愛ではなく、結婚と言う名の就職活動の様なものに過ぎない。「恋は盲目」と言うが、正に恋愛の一つの真理を言い当てている。理屈ではなく、ともかく恋しい、苦しい、会いたいのである。それがどれ程に長続きするかは別の問題である。そしてチャーリーと鈴枝はその恋愛のただなかにいる。しかし現実の生活は窮乏のどん底に差し掛かっていた。
チャーリーの財布の中身は殆んど空に等しかった。鈴枝には未だ僅かばかりの貯えは残されていたが、それさえも新しいテーブルや洋服箪笥その他の日用雑貨も買いだすと切りがなかった。それに前の旦那の匂いの付いた物は出来る限り捨て去った。あの熱海の一枚の記念写真さえも捨て去ったのである。
ちゃーりーは軍所属の会計事務所から既に2ヶ月分の給与を前借りしていた。そこの会計事務所の下士官がたまたま、かってサイパンの激戦区でチャーリーに命を救ってもらった黒人であった為チャーリーが無理を承知で頼みこみ、何とか借り出した2ヶ月分の給与だ。このあと残された手は一つしかなかった。
チャーリーは軍需物資に手を出すことにした。始めの内は恐る恐る目立たない様に注意深くやっていた。中ぐらいのボストンバックに出来る限りのウイスキーやタバコを詰め込んで、何気ない顔で吉次に手渡し、それを彼が闇のルートで換金した。言うまでも無い事だが吉次も自分の取り分は、それなりにに確保していた。週に1、2度のペースで横流しは続けられた。誰でも多少はやっていたが、その多くは見過ごされていた。ウイスキーの2本や3本で目くじらを立てていては軍隊というシステムは成立しにくい。将校も下士官も暗黙の内にやっては、ちょっとした小遣い稼ぎにしていた。
戦争が終わって軍隊の規律も少し緩んでいる。ポツダム宣言受諾後の日本人達は思った以上に従順で、GHQの指揮下に何の抵抗も示さなかった。財閥解体、貴族制度の廃止、大地主からの土地開放、憲法改正そして東京裁判による戦争犯罪人の処刑とGHQの思う通りに日本の国家体制そのものが徹底的に改革されて行った。
明日に続く

潮騒は聞こえず(38)

ともかく吉次は座間の近くの貸し物件を探しに探した。3日目に手頃な借家が見つかった。8畳、8畳、6畳にキッチンとバスルームがある。それも全てが洋間だ。米軍基地の周辺ではGHQ相手のそういった借家が少しづつ増えていた。何と言っても今やGHQ相手の仕事が最も商売の効率が良い。特に基地周辺では、その傾向が強かった。敷金、礼金を含めると少し割高感があったが、何にしても時間がない。わずか10日間で引っ越しまで済ませようと言うのだから滅茶苦茶な話である。それでも吉次はこれから得られる大きな獲物を目前にして、懸命に今はチャーリーの家来にでもなったかの様に忠実な仕事をした。この不動産物件探しの為にチャーリーからは50ドルを預かっていた。昭和24年の外為法が成立する以前は多少は緩やかだったが、それでも日本人が勝手にドルを持ち歩く事は許されなかった。日本国内では終戦直後、極端にドルが少なかったのである。1ドルが360円の時代である。海外から必需品を輸入しようにも購入する為のドル保有が国家としては無いに等しかった。ドル保有率を上げる事は国として至上命令であった。そんな時代に一民間人が50ドルもの紙幣をふらふらと持ち歩いて許される訳がない。警察にでも見つかれば直ぐに尋問され厄介な事に巻き込まれる。しかし闇屋の吉次は裏の裏まで知り抜いていた。闇ルートでの為替交換屋は上野辺りのバッタ市場には幾つかあって彼等は常に警察の目を気にしながらも、その日その日を生き抜いていた。その中の一つに吉次が行きつけのバッタ屋があった。60台前半の如何にも強欲そうな顔つきをしたばあさんが、胴巻きにドルと円をはち切れんばかりにしていた。そのばあさんの店に出かけ吉次はいつもの様に声をかけた。「ばあさん、今日のレートは幾らだい。50ドル程を曲げ(交換の隠語)て欲しいんだがよ」「そうだな320円でどうだい」と、ばあさんはがめつい目つきで答えた。「そりゃあんまりだろう。40円もの手数料は高すぎないか。せめて350円が良い所だろう。この前は20ドルしかないのに345円で曲げてくれたじゃないか。今日は50ドルだぜ、それを320円って言うのは、足許を見るのもたいがいにしろよ」「事情が変わったのよ」「どう変わったんだい」「ガサ入れが多くなったのよ。3日前にも仲間が一人ガサ入れを食らって500ドルもサツの野郎に持って行かれちまったのよ。俺たち弱いもんばかり虐めてどうするんだ。だから前の手数料じゃあ合わねんだ、危険手当てが入っているのさ。嫌ならよそに行ってもらったって構わないんだよ」と、ばあさんはかなり強気だ。「仕方ないな、じゃあ後10円だけ何とか色を付けてくれないか。頼むぜ、そうじゃないとこっちも持ち出しになっちまう。何とかそれで手を打ってくれ」と、吉次はねだる様に頼みこんだ。結局は330円で話は成立した。こうして吉次は16500円の金を手にした。正規の為替レートから計算すれば1500円もの差損だ。「あの業突くばばあ」と、吉次は胸の中で一人吼えた。
明日に続く

潮騒は聞こえず(37)

吉次はチャーリーが金に困って泣き言をいう日が何時来るか待ち続けていた。如何に少尉といえどもそんな馬鹿みたいに高い給料を貰っている訳じゃない。国元に女房や子供がいて、その上新しい別の家庭を持つなんて無理に決まっている。チャーリーと鈴江の関係が深まれば深まる程に経済的破綻が訪れるのは明らかだ。国籍も精神風土も違う女に恋愛感情だけで一緒に苦労してくれなどと、どの口で言えるのだ。黒人と言う劣等意識が強ければ強いほど、愛する女の前では見栄を張りたくなるもんだ。吉次はその事を見抜いていた。それ故にわざわざ黒人将校を狙い撃ちしたのだった。そしてその思惑は見事に当たった。ただ鈴江までが、自分の思い通りの役回りをここまで見事に演じ切ってくれるとは、吉次にも予想外の出来事だった。
鈴江の貧しさから身を売らねばならなかったと云う生い立ちが、何処かで激しい心の支えを、それを愛と言うのか温もりと言うのかは分からないが、裸の人間同士の繋がりを切ないまでに求めていたのだろう。そしてそこにチャーリーがいたのである。二つの寂しい魂が出会ってしまったのだ。
人は誰も一人では生きて行かれないものだが、痩せ我慢や虚栄を張り続け孤独を好むかのように振る舞う者もいる。しかし本当は何処かで激しく己の魂の片割れを探し求めているのだ。多くの人たちがその片割れに巡り逢えるかどうかは知らない。しかしその様に出会ってしまった二つの魂はもう離れられない。どの様な障害を乗り越えても共に生きようとする。そこにどの様な罠が隠されていようとも。
そして吉次は用意周到に罠を仕掛けて待っていたのである。軍需物資の横流し、それこそが吉次の最初からの真の狙いだった。それをチャーリーの口から言わせる事に大きな意味がある。仕方なく自分は嫌々協力したと言う体裁が必要なのだ。それがより大きな獲物を手にする近道となる。そしてチャーリーは吉次が思い描いた路線をそのまま歩き始めようとしていたのである。
明日に続く

家族性アルツハイマー

礼子さんへの回答
アルツハイマー型認知症の潜伏期間は10~20年とも言われています。お母さまが67才でアルツハイマー型認知症との診断を受け、その際に脳の萎縮がかなり進んでいたとのお話しですが、そこから逆算すると60才以前にアルツハイマー型認知症の初期段階であったと考えざるを得ない訳です。家族性アルツハイマー型認知症の最大特徴は若年性(65才以下、特に60才以下)で進行が早いと言う事です。もちろん若年性の認知症患者の全てがアルツハイマー型認知症だと言う訳ではないですが、やはり遺伝子検査は受けるべきだとおもいます。当院でも遺伝子検査は可能です。



こんばんは。家族性アルツハイマー検査を母親に受けてもらうべきかどうかで悩んでいます。私の母親は67歳でアルツハイマーと診断されました。その際は、すでに全体的に脳の委縮がかなり進んでいました(特に前頭葉、側頭葉)。 祖父(母方)は若い頃ガンで亡くなっており(もし長生きしていたら認知症を発症していたかも?ですが) 祖母は老衰でして、認知症は患っていませんでした。母親の兄弟で一人、呆けて亡くなった兄がいますが、何歳で発症したかは定かではありません。所謂年相応の呆けかもしれません。その他、姉妹の一人が老人ホームに入ったのち徐々に呆けてしまった姉がいますが、恐らく年齢的なものと考えております。私の母は未だ在宅で看ています。意欲低下はかなり観られますが、なんとかヘルパーさんや父親(特に問題なし)の介護で日々を送っております。このような状況ですが、一度遺伝子検査をお願いすべきでしょうか?(母が家族性アルツハイマーである可能性はかなり高いでしょうか?) 私たち娘に遺伝しないかとても心配です。よろしくお願いします。