細胞診

細胞診検査結果を表すために従来はClass分類(パパニコロウ分類)が用いられてきた。
 ・一般的なクラス分類(材料によって、多少内容が異なります。)
パパニコロウ(Pap)分類
 ClassⅠ: 正常
 ClassⅡ:良性異型
 ClassⅢ:良・悪性のいずれとも判定しがたい細胞
 ClassⅣ:悪性を強く疑う細胞
 ClassⅤ:悪性(癌)細胞

迷子の医者(25)

その証拠に、母親の病室に居るのも30分足らずで、すぐに空腹感を訴えだした。一度言い出したら、後は子供と同じである。何かを食べるまでは収まりがつかない。
ものの10分もしないうちに空腹感は怒りへと変わるのだから。そんな父親の気質を誰よりも知りぬいている母親は、
「この上にレストランがあるわよ、一緒に何か食べてきたら」と、
すぐに誘い水を向けてくれた。
北山大学10階にはレストランがあって展望も良く、こざっぱりした雰囲気であった。窓の外は木々の緑が春の陽を受けてまばゆく光っている。母親のこれからの病状の行く末とは、何か対称的な自然の恵みが満ち溢れているようだ。
父子揃って「ざるそば」を注文する。どうせ病院のレストランだから不味いに違いないと決めつけていたが、注文した「ざるそば」は、思った以上の味であった。父親は「そば」が大好きで、味にもうるさいのだが、そんな父親をそれなりに満足させる味であった。
食べ終わって私が会計に立とうとすると
「俺が払うから、お前は良い」
と、言う。
自分の息子ごとき者に、奢ってもらうのは恥でもあるかの様な口ぶりである。私が病院の院長であろうと、否そうであるからこそ、父親自身が支払いをしなければ己の沽券に関わると言った面持ちである。
そんな父親のプライドを傷つける必要もないので、私は素直に「ざるそば」をご馳走になった。
そして後は帰るだけである。母親の病室にもう一度少しだけ顔を出しはしたが、食事もしたし、見舞いもしたし、病人は元気そうだったし、これで一様の用事は全部すんだ。
なるべくなら余計な物に振り回されたくない。自分のペ-スで自分の尺度で、好き勝手に生きていきたいと言うのが、父親の人生そのものである。
たとえ50数年以上、連れ添った女房が生死の境にあろうとも、必要以上に自分の生活のリズムは、かき乱されたくないと言うのが父親の本音であろう。だから女房の看病をするなんて考えは、まるで頭の中にない。それは別世界の夫婦の話に違いないのだ。女房から看病される事はあっても、女房の看病をするなんて発想は父親のこれまでの人生には全くなかった。
成城学園の実家まで、そんな父親を送って行く。
そして北山大学病院、母和子入院2日目の夜は、音もなく静かに更けて行った。
4月20日(金)
朝から自分の病院の仕事が忙しく、どうやっても抜け出せない。
昼過ぎ203号室の母親の病室に電話だけを入れる。母の声は元気そうだ。
山藤婦長から花が一杯送られて来たとの事で、母はとても喜んでいた。
4月21日(土)
朝8時に起きて朝食、疲労がたまっているのか眠くて仕方がない。食後またベッドに潜り込んで1時間以上は寝てしまった。
午前10時やっと一人で家を出る。
土曜の午前で道路は渋滞している。
午前11時20分、北山大学に着く。母親はかなり元気そうだ。鼻からの酸素も一昨日の3Lから1Lに減っている。
担当医の吉田先生から病状説明を受けた。
「胸水から2度、細胞診を実施しましたが、いずれも結果は*クラスⅡ*でした」
との話しである。
明日に続く
*クラスⅡ*細胞診についての解説はトップページに記載されています。

迷子の医者(24)

生きる、ともかく生きる。
そしてどの様にしても、生き抜かなければならない。
あの戦争から九死に一生の思いで、生き延びて来た世代の生命力は
愛とか憎しみとかを超越した生存への、生き抜いて行く為の爆発的エネルギ-の発散があるみたいだ。
それが戦争で死んでいった何百万人と言う同胞への鎮魂歌なのであろうか。
飢えと苦しみと、そしてもがきの中で死に絶えた多くの青春、幼子たち、その他諸々の魂の叫び声、無念の裡に果てた数え切れない命、それらの総てが乗り移った様な、生命の塊をもらい受けたかの様な、滔々と流れる血路が、生命への乾きが、あの戦争の死の淵から生き延びてきた人間たちにはある。
ともかく彼等、夫婦はいつも生命力に溢れていた。
その分、争いが絶えなかったのかもしれない。
「馬鹿野郎、何だってお前は何時も俺のやる事に反対ばかりするんだ」
「何を言っているの、あたしが見ていないと何時だって半端な店しか作れないでしょう」
「何が半端だ、それが亭主に向かって言う言葉か!」
「半端だから半端だと言っているのよ。厨房に換気の窓がなかったり、物品の収納場所も考えない店なんか何処にあるの!」
「この野郎、言わしておけば!」
と、家中の家具をバットで片端から叩き割りはじめる。
父親は己の感情をその激情のおもむくままに、勢いよく吐き出していった。争いの後は何もかも忘れた様にスッキリした顔で、多少の恥じらいは見せるものの日常生活に平気で戻って行った。
一方の母親はと言えば口でこそ負けてはいなかったが、基本的には女の悲しさか、腕力的には太刀打ちが敵わず守りが中心の戦いであった。
家の中は荒れ放題、一脚の脚が折れて傾いた卓袱台、飛び散った茶碗や欠けて砕けた飛び散った何枚もの皿、家財道具の数々、父親の怒りの吐物、母親にとっては言い様のない屈辱の汚物、それらの総てをいつも母親だけが一人、黙々と後始末するのだった。
そんな母親の心の奥底には長い年月に渡って蓄積された「わだかまり」の何かがあったに違いない。
言葉には言い表せない重石のような、諦めと惰性と、そして戦い尽くした者のみが知りえる慈愛の様なものが複雑に絡み合っていたのかもしれない。
だからこそ母親の父親への対応は素直ではない。一歩の間を置いて、いつも多少の含みを持たせている。自分が病気になろうと、たとえ死の床にあろうと、その根本的な姿勢に変わりはない。
そんな夫が見舞いに来て、嬉しいのか嬉しくないのかを単純には語れない。
ただ見舞いに来る事により、自分の存在が無視されてはいないと言う事実に、母親は少しの安堵感を覚えているだけだと思う。
「いくらか元気になったみたいだな」と、父親は精一杯の励ましを言う。
「ええ、少し楽になりました」と、昨日よりは血色の良い顔で母親は答える。
確かに入院したばかりの昨日よりは呼吸状態も良さそうだ。父親には未だ母親の真の病状を、その最も疑わしい病名を告げてはいない。だから父親は母親が入院して元気になったのだと気楽に構えている様だ。
明日に続く


迷子の医者(23)

北山大学までの道のりは、帰りのラッシュアワ-の時間とも重なり混んでいた。1時関半近くもかかってしまう。車は病院玄関の面会通用口に着けた。父親も近頃はかなり足腰が弱くなっている。昨日の母親の様に駐車場から歩かせる訳にはいかない。それに昨日の事では私の胸の中に大きな悔いを残していた。
69歳で脳梗塞に倒れ、その後はずいぶんと回復した父親だが、やはり80歳の声を聞くと足腰の不自由さは目立って来た。それでいて気忙しいさは年々強まっている。
だから周りの人間たちは何時だって落ち着かない。そんな父親を玄関口で何時までも待たせておく訳にはいかず、駐車場から私は早足に戻って来た。
母親の病室まで左足を引きずりながら歩く父親の後ろから、付かず離れずついて行く。
せっかちな気性なだけに、そんな自分に父親自身が少しイラ立っている。
「車いすでも用意しましょうか」
などと言ったら、確実に怒鳴られるだろう。今もって気位は高い。見栄だけは人一倍強いのだ。
でも、それで良いと思う。見栄も張れるうちが花だ。見栄も無くなれば老いは一気に進んでしまうだろう。そう考えれば少しぐらい依怙地な方が、父親らしくて良いとも思えるから不思議だ。
新病棟の8階203号室、昨日と同じ母親の病室に父親の後から入って行く。
「あら、来てくれたの。別に来なくても良かったのに」
と、言った顔つきの母親である。父親に向ける視線は少し覚めている。衒いもあるのだろうが、我々子供たちの面会のように素直ではない。
50数年間の夫婦の間の、他人には伺い知る事の出来ない恨み辛みが、そこには蓄積されているのであろう。
そうは言っても、もし父親が一度も面会に来ないなんて事になれば、それはそれで母親も面白くないだろう。自分なんか居ても居なくても、父親にとっては痛くも痒くもないんだぐらいの、ひがみ根性は出るかもしれない。
そうでなくたって病人と言うものは自分の体が自由にならない分どうしたって、ひがみ根性は強くなる。
しかし、いつも気忙しい父親の面会は、我々のみならず病人の母親さえ落ち着かせない。
何だって一年中せかせかしているのだ。生来の気質とは言え、いつも何かを急いでいる。一ヶ所に気持ちを留める事が出来ない。
父親はこれまでに実に多くの事業に手を出して来たが、その移り変わりの激しさと言ったらない。どんな事業にだって多少の浮き沈みはあるものだが、じっと我慢をし続ける事が大の苦手なので。良くも悪くも長続きがしない。
その尻拭いは何時だって母親の仕事だった。
アイディアと企画力には優れたヒラメキを輝かせるのだが、持続力のないのが最大の欠点である。
一方の母親はと言えば、忍耐心が強く仕事の大変さに弱音を吐くと言う事は決してなかったが、決断力に乏しく自分の責任で何かを実行するのが嫌いだった。
まるで性格の異なる夫婦が互いの弱点を補いながらも、ともかく我々兄弟3人を育て上げて来た。戦後の廃墟の中から、時には争い時には傷つき合いながらも、大きな時代の変化のうねりの中で必死に泳ぎ切り、それなりの成功は収めて来たのだが。
しかし彼等、夫婦の関係は単純ではない。夫婦喧嘩は絶え間なかったし、離婚話も幾度ともなく出ては消えた。
愛し合っていたのか憎しみ合っていたのかも定かではない。愛とか憎しみとか、そんな安易な表現で説明がつくものではないのかもしれない。
明日に続く

迷子の医者(22)

受け持っている41才の男性も残された寿命は後わずかであろうが、それでも明るい話題を探そうと私は努める。
飼っている犬の事とか、趣味の音楽の事とか、病気とは関係のない話をあれこれと探し出す。
それでもそんな話だけで患者さんが、いつも満足してくれる訳ではない。
急にヒステリックに
「一体、あと何日生きられるって言うんですか」
と、激しく詰め寄って来たりする日もある。
「それは、あなた自身の生命力の問題ですよ。食事一つにしても、食べようと思う気力がどのくらいあるかで、生きられる時間だって、ずいぶんと変わってくるもんですよ。要は生きる気力ですよ」
と、何とも苦しい言い逃れをする。
でも、どんな時だって具体的な説明は極力避ける。患者さんの財産分与とか、相続等の話が複雑に絡み合っている時ならばともかく、
そうでなれければ患者さん本人に後何ヶ月しか生きられないなどと話す医者はいないと、今迄は信じていた。
しかし最近は患者さん本人に、有りのままを告知する医者が出て来た。
現に国立がんセンターがそうであった。医者の中にも色々な価値観の違いが出て来たのだろう。
それでも私は彼等の価値観には付いて行けない。
土壇場の希望まで患者さん方から奪う権利は、誰にもないのだと信じるから…。どんな不治の病に侵されていたって、多くの人たちは少しでも長く生きていたいと思うものだと、私は信じている。
午後5時前、いつもよりは早めに職場を出る。
成城学園の実家で父親を車に乗せ母親のいる北山大学に向かう。はじめ父親は北山大学に行きたくないと言っていた。見舞いに行くなら、午後2時過ぎにしてくれと言うのだ。
午後5時過ぎになると、自分の夕食時間がずれるから嫌だと言う。
長年、糖尿病で薬を服み続けている父親は、食事時間にはひどく神経質になっている。
何度か低血糖発作に襲われたりした事もあるもんだから尚更の事だ。しかし私の方は朝から夕方まで働きづくめで、午後2時過ぎになんか仕事の段取りがつく訳はない。
「そんな、無茶な事を言うのなら今日は、僕一人で北山に行くから良いですよ」
と、昼休みに父親からかかって来た電話を一度は切ってしまう。糖尿病で食事時間にこだわるのは分かるのだが、しかし食事の内容にいたっては、ずいぶんといい加減だ。
要はどんな時だって自分のペ-スを崩したくはないのであろう。母親が病気であろうと無かろうと自己中心的な生活は守り通したいのである。
この80年、よくも我がまま放題に生きて来たもんだと、父親の人生を振り返る度に感心させられる。
人並み以上に悪運が強いのであろう。父親自身が常日頃から、そう口に出している事なので間違いはあるまい。
そんな身勝手な父親の都合に耳を貸している程、時間もなければ気持ちの余裕もなかったので、一人さっさと北山に出かけるつもりでいた。
しかし午後4時過ぎ、また父親から電話が入り
「やっぱり、連れていってくれ」
と言って来た。少しホッとする。本当は父親に行って欲しかったのだ。50年以上も連れ添った父親が見舞いに行かないと言うのは心情的に許せなかった。
そうは言っても母親の病状がどうなるか分からない現状で、老いた父親と見舞いの事でケンカをするのも情けない。それやこれやで父親に対する行き場のない感情が胸の奥深い所でうごめいていた。だから、
「やっぱり、連れていってくれ」
と言われた時は、内心救われた思いがした。
明日に続く


迷子の医者(21)

大学病院などに勤める若い医者ほど心のケアが苦手だったりする。
より大きな病院の方が流れ作業的に、少しでも効率よく検査や治療を推し進めて行こうとする傾向が強い。
国の医療費抑制政策の中では大病院ほど経営効率が声高に叫ばれている。
現在の健康保険制度自体がすでに制度疲労を起こしているのだろう。
この先の日本の医療制度はどうなるのであろうか、不安で仕方がない。
そんな不安を抱きつつも個人病院の経営者は誰よりも一生懸命に働いて、毎日をガムシャラに生き抜いて行くしか道はない。
昼食もそこそこに終えて午後からは昨日の続きの健康診断がある。その健康診断も午後3時前には総てが終わり、やれやれと言った開放感に包まれた。
一度自分の病院に戻り、15分くらい休む。その後は一時間半くらい重症の入院患者さんを診て回る。若くして癌末期の患者さんもいる。
年齢が若ければ若いだけ基本的な生命力が旺盛なのだ。その若い肉体を末期癌が容赦なく蝕んで行く。
旺盛な生命力と末期癌の悲惨な闘いである。生命力が旺盛であればあるほど、その闘いはより熾烈を極める。だから若い人ほど苦痛の呻き声は耐えがたき響きとなって聞こえて来る。
自分より若い癌末期の患者さんに私は為す術もなく、ただ疼痛のコントロ-ルに明け暮れている。
心のケアを試みてはいるのだが容易ではない。如何に医者とは言え、所詮は健康な人間である。自分が癌に侵されている訳ではない。
健康な人間の発想で癌末期の患者さんの心の葛藤を、どれだけ想像できると言うのであろうか。本当には分からないと思う。後は感性の違いがあるだけだ。
そんな私たちに出来る事と言えば、ひたすら忍耐強く、苦痛の呻き声を聞き続け、聞き続ける事によって、その苦痛が幾らかでも和らいでくれる事を願い、そして少しでも明るい話を見つけ出す、それだけだ。
それ以外の何が出来るのだろうか。
医学が如何に進歩したとは言え、それは常に未熟で不完全なものだ。この世に不治の病といわれる物は数多くあって、癌だけが怖い病気だと言う訳でもない。
そんな不治の病に接して医者は何をするのか、何が出来るのか。ただ病気の分類に終始し、後は病状経過を克明に観察するだけではないのか。その様な仕事も決して無意味だとは言わない。将来の医学の発展に繋がる可能性もあるのだろうから。
しかし現実の患者さん方には何の足しにもならない。効果的な治療の手立てもないまま病状経過だけを観察され続ける患者さんの立場とは一体何なのだ。
彼らの救いは何処にあると言うのだろう。そんな状況の中で医者たちに出来る唯一の事はと言えば、苦痛に満ちた患者さん方と少しでも心を通わせ、その限りある時間の中で患者さん方のために、自分たちは何が出来るかを問い続けるだけである。
そんな癌末期の患者さんを受け持つのは、本音を言えば避けて通りたい気もする。
いま受け持っている41才の男性も残された寿命は後1、2ヶ月であろうか。奥さんは若く、子供はいない。出来る限り病室に足しげく通うのだが、彼の口数は段々に少なくなっていく。
明日に続く


迷子の医者(20)

北山大学から自宅までの車の中、あさくら病院で当直をしている村上先生の許に電話を入れる。
野村教授があんなにも丁重だったのは、一にも二にも村上先生のお陰である。村上先生のコネクションによる元学長の紹介状がなければ、如何に野村教授が人格者であったとしても、あれ程までに心の行き届いた対応をしてくれたか、どうかは疑問である。
やはり、あの紹介状が圧倒的に大きな意味を持っていたに違いないのだ。
私の声はうわずっていた。まだ感動やら興奮やらが冷め切っていないのだ。
「あっ、村上先生、当直ご苦労さま。いま北山大学から帰る所なの。
今日ね、母親を北山に入院させて来たよ。野村教授にも診てもらいました。みんな村上先生の、あの紹介状のお陰だよ。本当に有り難う。
それにしても野村先生は立派な人だね。
僕ね、感動のあまり泣き出しそうになっちゃったよ。何かありましたら24時間、いつお電話を下さっても良いですからって、初対面なのに自宅の電話番号まで教えてくれたのよ。
今でもいるんだね、ああいう医者が、泣きたくなるくらい、うれしかったよ。
それも、これも、村上先生のお陰だよ。本当にどうも有り難う。
じゃあ、また何時か改めて」
勢いづいた感情の流れのままに、私はしゃべっていた。
そんな勢いが伝わったのか、村上先生もいつもよりは調子の高い声で、
「それは良かったですね。いや僕なんか大した役にも。でも先生にそう言って頂けるだけで満足ですよ。お母さん、早く良くなるといいですね」
と、言ってくれた。
村上先生への電話の後も同じ様な勢いで、弟や妹そして女房の典江にと、むき出しの感情をたたき突けていた。誰かに今日一日の興奮をしゃべり続けていなければ、自分の中の舞い上がった興奮を静める事が出来なかったのである。
午後8時過ぎようやく自宅に着く、そして夕食。
運命の一日とも言える日が、やっと終わろうとしていた。
4月19日(木)
朝から仕事が立て込んでいる。
午前中は外来で、まあまあの忙しさ。入院が3名もあって2名は自分で受け持つ。
新規の入院が2名もあると何か時間に追われる感じだ。患者さんの食事指示から始まって、検査のスケジュ-ルを組み、安静度のチェック、内服薬や点滴のオ-ダ-、患者家族への病状と治療方針の説明があって、それからカルテ整理に入る。
入院患者さんの病状にもよるが、一人の患者さんで一時間ぐらいは費やされる。
入退院が活発なのは病院経営にとっても良い事なのだが、その活発な分だけドタバタと時間に追いまくられる。外来だ検査だ入院だと毎日を走り回る様に過ごして、職員の総てがギリギリまで働いてこそ何とか病院経営が維持できるのだ。
少しでも余裕のある医療環境を作り出そうと理想など抱いた日には、経営はすぐ行き詰まってしまう。
患者さんと言うものは、ただ身体的に病んでいるだけではない。どんな人間だって体調が悪ければ気持ちも萎えて来るものだ。ましてや生命に関わるものや、不治の病におかされたりすれば、その心の乱れ方も尋常ではないだろう。
しかし昨今の病院経営では、そんな患者さん達の心のケアからは何時も避けて通る。そんな心のケアに関わったりしていては時間がいくらあっても足りないからだ。
明日に続く

迷子の医者(19)

そんな人たちに間違って医者自身の自宅の電話番号など教えたりすれば、医者は一年中気持ちの休まる時がない。
だからこそ、野村教授の言葉は感動とも戸惑いとも言えぬ衝撃を私に与えた。
それでも、そんな自分の中の心の動きは押し隠し、野村教授の名刺を全身全霊で受け取った。理屈ではなく患者家族の立場からすれば、こんなにも有り難い名刺はないと思ったからだ。
「有り難うございます」
とだけ、やっとの思いで口に出す。めまいを感じさせる様な熱いしびれが体中を駆けめぐっていた。
ようやくの所で涙だけはこらえた。弱い立場に立たされると感情的にも弱くなるのか、いつもよりは情にもろい私がいた。
やはり患者の立場は不安なのだ、自分自身の置かれた立場を今日一日、再び問い直した。そして決意に似た思いを固めた。
この人に総てを任せよう。この人にだったら総てを任せられる。
何か信仰に近い想いに包まれながら、野村教授の許を辞した。
一人の患者家族が、そのカンファレンスル-ムから拝むようにして出てきたのだ。そしてもう一度、母親の病室に戻る。
母は不安気な顔で私に、
「野村先生は何て言ってた。どんな病気だって。やっぱり癌なのかい」と聞いて来た。
癌であるのか、そうでないのか、それが総ての別れ道なのだ。
「今日の今日だから、そんな結論はすぐには出ないよ。たとえ癌であっても手術は出来るかもしれないって、野村先生は仰っていたし。
そうなると後は体力勝負だからね、ダイエットなんか考えていちゃダメだよ」と、
ほとんど事実を有りのままに話した。
いや事実と言うよりは切なる願望を話したのかもしれない。根治的手術が出来て母親の病気が回復したら、全快とは言わなくても、少しでも元気な様子で後2、3年でも生きてもらえるなら、どんなに良いだろうか。
今はただ野村教授にすがるしかない。そんな祈る様な想いの、患者家族がいるだけだった。
午後7時、面会時間も終了の時間である。特室だけは面会時間の制限がないようだが、それでも疲れて来た。今日一日、何かとても疲れた感じである。
母親にも安静が必要だろう。
いや、それ以上に自分の為の休息が欲しかった。
「じゃあ、今日はもう帰るよ。また来るから」
とだけ言い残して、母親の病室から別れを告げた。もしかしたら母親はもっと側にいて欲しかったのかもしれない。出来れば一晩中、母の横にいて昔の懐かしい話などをして欲しかったのに違いない。私の幼き日に布団の脇で子守唄を歌って母が私を寝かし付けたように…
でも、これ以上長くいるには身も心も疲れすぎていた。
その時の私は病気ではない健康的な人間と冗談の一言も言って、ゆっくり寛ぎたいと言うのが本音でもあった。病人の側にいて、一つ一つの言葉を考えながら慎重に話すというのは意外にも疲れるのだ。
「お前は、それでも医者か!病める人の側に居続けて、その心の支えになるのも医者の務めではないか、ましてやそこで病んでいる人はお前をずっと育み続けてくれた実の母ではないか」
と云う声が何処か遠くから聞こえて来たが…それでも私は自分の為の休息を求めた。
明日に続く