小さな贈り物(4)

8月も末頃になって彼女の病状は、その峠を越え薄紙を剥ぐ様に少しづつ快方に向かって行った。先ずはタンパク尿が大幅に減少して来た。一日に3~4gも出ていたタンパク尿が1g以下になった。熾烈を極めていたDIC播種性血管内凝固症候群(はしゅせい けっかんない ぎょうこしょうこうぐん)も何とか軽快しつつあった。
夏休みも終え、妻と子供たちは実家に帰って行った。また一人孤独の闘いが始まるかと思うと寂しさを禁じ得なかった。そんな私の思いを察して妻は、こっちの小学校と幼稚園に子供たちを転校させ様かと言ってくれたが、折角厳しい受験に打ち勝って入った私立の名門校だ。
それを私の都合だけで田舎の小学校に転校させられる訳がない。
それでも妻は私に、これ以上厳しい単身赴任の仕事を続けさせたくないと言う。
「田舎の小学校でのんびり過ごさせるのも悪くないんじゃない。子供たちの事は未だ中学も高校もあるのだから、幾らでも取り返しが効くわよ。それよりは、あなたの体の事が心配だわ」
と言われ、私の心も一時は迷いかけたが、子供たちには小学校や幼稚園で仲の良い友達も沢山いる事だし、やはり私一人の都合で転校させる事は出来かねた。その頃の私は仕事の合間を見てスーパーで食料品を買い溜めして置く事を妻に教わり、一人になった後も夕食も取れず空腹のまま寝る様な生活からは一歩前進していた。
9月に入って彼女の病状は一気に改善して行った。28才と云う若さだけあって、一度回復の波に乗ると病状の軽快も早かった。
彼女の病状が落ち着いた所で、今度は保険請求の病状併記に私は専念した。
何故これ程の高額医療費になってしまったかの嘆願書である。通常100万円を超えると、病状併記が必要になって来る。それでもA4コピー用紙に20行も書けば充分である。
しかし1カ月の保険請求金額が200万円も超えるとA4コピー用紙に2枚ぐらいの病状は書かなければならない。それでも時に50万円ぐらいは削減される。
私は一日がかりでA4コピー用紙に10枚の病状併記を書いた。2カ月半にわたる検査データーを幾つもの表にまとめ、その中に使用薬剤の投与量と日数、その使用薬剤により検査データーがどの様に改善したかを詳細に記した。
それは、まるで学会論文の発表に似ていた。さらに28才の女性の命を救う為に検査技師、ナース達がどの様な努力を払ったかも付け加えた。もちろん自分の事は何も書かなかった。
私としては全身全霊の嘆願書である。
これで私の医療行為に過剰診療の烙印を押されるなら、もう諦めるしかないと腹をくくった。
それでも私に課せられるペナルティは何ヶ月分かの給料がもらえなくなるぐらいだろう。そう考えると気も楽だ。
9月12日、ついに彼女の退院する日が来た。正に奇跡の回復とも言えた。
その日、彼女の夫と、その母は幾度も私に頭を下げ感謝の言葉を述べた。
帰る間際に彼女が娘に何かを言っていた。ナナちゃんは頷いて私の側に寄って来た。
「先生、ちょっと座って」
「どうしたの、ナナちゃん」
「ちょっと座って、お願い」
「そうかい、こんな風で良いのかな」
と、私は少しばかり腰を屈めた。
するとナナちゃんは、私の頬にその小さな唇を寄せて軽くチュをしてくれた。
「先生ありがとう」と言って、
ナナちゃんと、その家族は何度も私を振り返り病院を後にした。
何とも言えない小さな贈り物を残して…
➖ 完 ➖
予告 : 明日からの連載小説は「青空を求めて」が始まります。

小さな贈り物(3)

ともかくナナちゃんのママに私は自分の知り得る限りの最新の医療を実施した。その結果、7月分の医療保険請求金額は300万円を超えた。上司の内科系の病院長と事務長が、この請求金額を見て震え上がった。
こんな小さな町立病院では想像を超える保険請求金額である。大学病院ならいざ知らず一人の患者さんに300万円の保険請求金額と云うのは度を超えていると、病院長と事務長から注意された。恐らく医療保険の審査で過剰診療と査定され100万円以上は削られるだろうとの心配であった。
だから患者さんの事のみを考え出来る限りの手を尽くすと、病院自らが多額の身銭を切る必要さえ出て来たりする事もある。
病院からの忠告にもかかわらず、未だ血気盛んな私は自分の思う存分の治療をした。
繰り返される肺炎とDICによる血小板減少に対し、これまでのヘパリン持続点滴と抗生剤、ステロイド療法に加えガンマーグロブリンの大量投与を実施した。この私の治療法を見て病院長が激昂した。
「君は、この小さな町立病院を潰す気か?未だこんな高額医療を続けているのか。こんな事が保険審査で認められる訳がないだろう。病院が大きな赤字となったら、君はどんな責任を取るつもりだ!」
とまで、言い寄られた。
私もかなり頭に血が上り、
「それなら病院が背負った赤字分は私の給料で埋め合わせて下さい。半年分でも一年分でも結構です。ともかく私は自分の信じる医療をやりたいだけです」
病院長は少し驚いた顔をして、
「君には奥さんも子供もいるだろう。半年も一年もここで、ただ働きをするというのか。それで君の家はどうやって食べて行くの!」
「ご心配には及びません。多少の貯えはありますから」
「まあ、それはそうかもしれないけど。しかし何故そこまで一人の患者さんの為に自分の犠牲を払うのかね」
「私の医者としての意地です」
「意地ね、君も変わった人だね。そこまで言うならば、もう君の好きな様にやったら良い。私はこれ以上は口を挟まない」
「有難うございます。お言葉に甘えて私の好きな様にやらせて頂きます」
それからの私は誰にも邪魔をされず、自分の信じる医療を徹底的に貫いた。
そうは言ってもナースや検査技師の人達には、かなりの犠牲を強いた。毎日の血液検査、特に出血傾向の検査は神経質なまでに行い、毎日が一喜一憂の連続だった。彼らは通常の一時間前には出勤してくれて、その日のデーターを午前9時半には届けてくれた。
そのデーターに基づいて私はその日の治療計画をじっくり練る事が出来た。
もちろん彼女だけが患者さんではないから、朝から晩まで私は働き続けていた。外来患者さんも沢山待っているし、胃カメラ等の検査もある。入院患者も一人で20名以上は受け持っている。それでも彼女の治療計画だけに毎日5時間以上は費やしていた。
夏休み中は一日として、自分の子供と遊ぶ時間は取れなかった。それでも妻は文句の一つも言わず、子供を連れ近くの町立プールで楽しそうに過ごしていた。朝は8時前には病院に出て夜は12時過ぎになって宿舎に戻る。それでも妻の温かい夕食が待っている。
病魔との闘いの一番辛い時に妻が側にいて私の愚痴に付き合ってくれた事で、私はどれ程に慰められた事か。
明日に続く

小さな贈り物(2)

しかし、そんなナナちゃんの期待を裏切るかの様に彼女の病状は悪化して行った。ステロイド療法でネフローゼ症候群はやや軽快し始めたが、その2週間後に肺炎を合併してしまいステロイド療法を大幅に後退させ、抗生剤とガンマーグロブリンの併用治療に切り替えた。
約一週間で肺炎はかなり軽快するが、次に襲って来たのがDIC播種性血管内凝固症候群(はしゅせい けっかんない ぎょうこ しょうこうぐん)である。

*注DIC*とは、本来出血箇所のみで生じるべき血液凝固反応が、全身の血管内で無秩序に起こる症候群である。早期診断と早期治療が求められる重篤な状態で、治療が遅れれば死に至ることも少なくない。

DICの治療経験は私に取って二度目の経験でしかない。一度目は母校の大学病院で10年以上は先輩医師の指導を受けながらの治療である。それも血液内科では誰にも一目置かれる様な実力のある医師であった。
医者になって未だ8年目の私が一人で闘って行くには荷が重すぎた。当然近くの大学病院に送るべき患者である。
しかし近くの大学病院と云っても何処も一時間以上はかかった。救急車に揺られ、そこまで命が持ち堪えられるかも疑問である。
ダンプ運転手のご主人とは何度か話し合った。本来なら大学病院か大きな総合病院で診るべきだと。しかし、そこに転送するまでにも大きな危険が付きまとっているとも説明した。
患者さんの母親も、30才のご主人も判断のつかぬまま28才の患者さんの命は私に預けられたままとなっていた。
そして私にも若さ故の気負いがあった。
「自分一人で何とか、この患者さんを治してみたい」と…
しかし、それは私一人の問題ではなかった。小さな病院のナース、二人しかいない検査技師たちの全てを巻き込んでの苛酷な闘いだった。
私は夏休みや休日の全てを返上した。私の小学ニ年と幼稚園の娘二人は妻共々夏休み中、病院宿舎に来てくれていたので、どんなに疲れ遅くなっても妻の手作りの夕食は口に出来た。
この支えは大きい。家庭と云う精神的な逃げ場と励ましが、どれ程私に力を与えてくれた事か。
それにしてもDICの治療は困難を極めた。全身性の出血班、歯肉出血、性器出血が著しく、血小板数は1~2万(正常値20~30万)と何時、脳出血を起こしても不思議ではない数値が続く。
ヘパリンの持続点滴、凍結血漿の間欠的な輸血、この輸血によるネフローゼ症候群の再然そして繰り返される肺炎と、息つく暇もない病魔との闘いである。1ヵ月半の間に呼吸停止が二度も来た。人工呼吸器も付けたり外したりで、その度に家族も呼び出す。
時にはナナちゃんも付いて来て
「ママは、お家に帰れないの?」
と、泣きべそをかきながら私に詰め寄る。そのつぶらな瞳で見つめられると、自分の医者としての使命が再び呼び起こされる。
「ナナちゃん、ごめんね。先生もママも頑張っているから、後は神様にお祈りするだけだよ」
と、答えるのがやっとであった。
「うん、ナナもお祈りする」
と、言われ私も何とかその場は切り抜けた。
しかし何としてもナナちゃんのママを助けたいと云う思いは強くなるが、事は単純ではない。
明日に続く

小さな贈り物(1)

ある地方都市の総合病院と云うには、やや貧弱なベッド数70床足らずの、2階建ての町立病院に私が大学から派遣されたのは34才の年でした。
小児科と内科、産婦人科、一般外科の標榜科目がありました。
内科の私は小児科と内科を担当し、外科のA医師は一般外科と整形外科を担当していました。それに50才近い産婦人科医が一人います。内科医だけは私を含め三名体制でしたが、それにしても医者は全部で5人だけの所帯です。
「大変な所に派遣されたな!」
と言うのが、その時の私の絶望にも近い思いでした。
人口一万人にも満たないこの町の基幹病院で、一日の外来患者数は150名前後でした。
農繁期になると外来患者は減り、入院ベッドは30床以上も空き、午後3時ぐらいには一日の仕事もすっかり終わり、近くの小川で魚釣りを楽しんでいました。
逆に農閑期には外来患者は一日中、押しかけ午前中だけで内科医の私が一人で100名以上診る事が当たり前でした。入院ベッドも超すし詰状態で、普段は埃だらけの倉庫までが病室に早変わりして、朝は8時半頃から夜は9時過ぎまで働き通しです。
仕事の忙しいのは我慢出来ましたが、単身赴任だった私に取って一番辛かったのは、しばしば夕食に有り付けない事です。
この小さな町では夕方も7時半を過ぎると殆んどの店が閉じてしまうのです。一日中働き通しで夕食も取れず、空腹感のまま布団に入る切なさは辛いものでした。
そんな田舎の病院に28才の妊娠7ヶ月の経産婦が、重篤な妊娠中毒で産婦人科に入院して来ました。血圧210/120尿タンパクの一日量は4g以上、全身浮腫も著明、心肺機能の低下も著しく、とても正常分娩に耐え切れないと判断した産婦人科医は外科医との協力の許、ご主人の同意を得て即刻に帝王切開を実施しました。
取り出された胎児は体重が760gで、その生存は最初から諦めていました。
当初は脊椎麻酔での手術を予定しておりましたが、それでは心肺機能の低下に耐えられないだろうとの判断で全身麻酔に切り替えられました。
手術後も弛緩性出血が容易には収まらず、陣痛促進材と輸血が繰り返されました。
手術後10日経って、弛緩性出血は改善したものの、多量のタンパク尿は軽快せず典型的なネフローゼ症候群の合併が認められました。
この時点で婦人科の患者さんは私の受け持ちとなりました。
医者となって7年目の私には、かなり手に余る患者さんでした。
先ずはステロイド療法でネフローゼ症候群の治療に当たり、そして塩分、タンパク質の制限、抗凝固剤の併用と最新の医学雑誌と首っぴきで、知り得る知識を全て導入しました。
病状は一進一退でした。
患者さんの夫は30才でダンプの運転手ですが、5才になる女の子がいました。時々は二人で見舞いに来て、
「ママは元気になるよね!」
と言って、私の白衣の袖を引っ張ります。私は何と答えて良いか分からず、
「ママは頑張っているからね。おねえちゃんの名前は何て言うの?」
「ナナ」
「ナナちゃんて言うんだ。ママが早く元気になると良いね」
としか、私には答え様がなかった。
明日に続く

迷子の医者(40)

➖ 終章➖
6月10日午後4時半やっと母を病院から送り出す。妹が霊柩車に乗り込み、私の車で事務長と弟がその後を追う。
日曜の夕方は道路が混んでいる。「総合斎場」に着いたのが午後5時半。弟が私に厳命され探しただけあって、妹も私も納得した。兄妹三人と事務長とで線香を上げ、母を安置し四人一緒に病院に一度戻る。そして親戚中に電話をしまくる。浅草、千葉、大阪と兄妹三人が手分けして電話をした。
午後八時自宅に戻り、先ずは風呂に入る。そして久しぶりにビールを飲みながらの夕食。しかし、その間も大阪の親戚から電話が入ったり、葬儀屋から電話があったりで落ち着かない。
今晩は絶対に寝るんだと決意して、睡眠薬を服用して午前1時半には眠りに着く。
6月11日(月曜)
定刻通り病院に出勤するつもりでいたが、目を覚ましたのが午前9時だ。
昨晩のイビキは結婚して以来10年間で最大だと妻が言う。家中が響き渡る様な凄さだったらしい。久しぶりの虚脱感からビールの後に日本酒までかなり飲み、それに睡眠薬まで服用していたのだから、およそ医者とは言えない無茶苦茶な仕方だ。
この三ヶ月間と云うもの、殆んど人間らしい生活を送っていなかったから、それらが一気に噴き出したのだろう。
基本的に医者の生活は過酷である。
一日に3~4時間の睡眠で昼飯を食べる時間もなく病院中を走り回っているのが救急体制を敷いている病院では当たり前の事と思われていた。
しかし、それも50才ぐらいまでが限界である。当時53才だった私に取って、
この三ヶ月間の生活は相当に厳しかった。不眠不休とまでは言わないが、それに近い生活ではあった。
そんな凄いイビキでは妻も殆んど眠れなかったに違いない。それでも妻は
「少しは眠れたの」と言って、
笑みを浮かべながら私の朝食を用意してくれた。
午前10時半に出勤、常勤の医師数名と
看護婦長が院長室に来て、
「院長先生、このままどうか一週間ぐらいは休んで下さい。後は私達で何とかやりますから」と言われ、私は
「皆んなの気持ちはとても嬉しい。でも40名の受け持ち患者は私を頼って入院しているのだから、そうも言っていられない。皆んなの力を借りながら少しは休ませてもらいながら無理しない程度にやって行くから大丈夫ですよ。
でも、皆んなの気持ちは有難く受け取って置きます」
午前11時から午後1時まで入院患者の回診。患者さん方の昼食の合間を縫って遠慮しがちに回る。
午後6時から7時「母の通夜の儀式」
父の意向で喪主は私。父が無宗教を貫いているので坊主も呼ばず、線香も上げず、献花だけの通夜であった。
病院関係その他ビジネス関係の人達は一切呼ばなかった。
40名足らずの、ささやかな献花の列である。喪主である私を除けば父が第一番目に献花をすべきなのだが、
「俺は一番最後で良い」
と、言い出す。仕方なく、私の次に弟、妹そして親戚の人達が順番に献花をして行く。
そして最後に父…
「残っている花を全部くれ」
と言って、10本以上を両手で鷲掴みにして、
「お母ちゃん、さよなら!」
と、涙まじりの大声を上げた。

➖ 完 ➖
予告 : 明日からの連載小説は「小さな贈り物」が始まります。

迷子の医者(39)

6月9日(土曜)
あさくら病院での二十四日目
昨晩は妻典江の母が病院近くのホテルに泊まった。午前11時半に妻の母と成城学園の実家に向かう。父とは初対面である。妻典江と結婚して10年も経っているのに、私の父と典江の母が初対面だと云うのも随分と変な話ではある。この成城学園の実家に来るのも始めてなのだ。どちらも社会常識に馴染めない人達だから、こんな非常識が成り立つのだろう。
父は元気がなく、何時もの様な豪放磊落(ごうほうらいらく)な勢いはすっかり影をひそめ、社交辞令的な挨拶に終始していた。20分程で成城学園の実家を後にし義母と二人、あさくら病院に向かう。義母は10分程病室で、私の母を見舞うが意識のない病人の前で、それ以上いつづけるのは何とも間の悪いものである。午後2時、義母は帰って行った。今日の見舞い客は義母の一人だけだった。
昨日は親戚中が集まったが、今日は不思議に落ち着いた日だ。母の呼吸状態もぎりぎりの所で保っている。
私も午後5時には自宅に戻る。
6月10日(日曜)
あさくら病院での二十五日目
午前5時に病院から電話
「母のSPO2が測定出来ない」との報告である。
セブンイレブンで、おにぎりや飲み物を幾つか買って午前5時45分病院に着く。6時には事務長が6時半には弟と妹がやって来る。午前7時、血圧70/32、脈拍数120、SPO2は測定不可。血圧が60を割り込んだ所で成城学園に電話を入れる。午前8時だ。電話に出た父は
「もう疲れた、息が引き取ってから行く」と言って、
そのまま電話を切ってしまった。
それでも午前9時には一人でやって来た。一時間近く父は母の側に座っていたが、それ以上は我慢出来ず妹の車で成城学園に帰ってしまった。
午前11時50分、母の心臓は止まりかかっている。それでも父を送って行った妹は戻って来ない。この際父の事はどうでも良かったが、母の最期に間に合わない妹が気の毒だった。
自分の妻が後数時間で、この世と決別して逝くと云うのにそれさえも待てない父を、私は心の底で憎んだ。
その父の我が儘に付き合わされた妹の事を考えると、居ても立っても居られない。不本意ではあったが、私は胸の内で母に詫びながら妹が到着するまでと、心マッサージを始めた。
午前11時53分やっと妹が戻って来る。
私は心マッサージの手を止める。
午前11時55分
母、永眠…
私は一人で院長室に戻る。誰も入って来れない様に中から鍵をかけた。
「お母さん!…お母さん!…」
荒れ狂った様に号泣していた。
誰にも見られず、ともかく心行くまで一人泣き続けていたかった。
10分程して洗顔を済ませ、何事もなかったかの様な顔で母の死亡診断書を作成した。
さあ、これからが大変だ。
弟が予約しておいた葬儀屋が、午後一時にやって来たが、余りに鈍臭い親父風でとても頼む気にはなれない。事務長に即効キャンセルさせ、弟には
「まともな葬儀屋を探して来い!」
と、厳命する。午後三時に弟から電話
「やっと、まともな葬儀屋が見つかったから。これなら兄貴にも納得してもらえそうだ」
と、言って来た。午後三時半に新しい葬儀屋が来る。それから一時間近く兄妹三人と事務長で葬儀スケジュールの話し合い。葬儀委員長は事務長に命ずる。
明日に続く

迷子の医者(38)

6月7日(木曜)
あさくら病院での二十二日目
梅雨入り二日目、小雨が降り続いている。母の病状は一進一退を繰り返していた。顧問弁護士の矢島先生が母の見舞いに来る。
病院開設以来の顧問弁護士だから15年以上の付き合いだ。女性弁護士ながら頭の回転が鋭い敏腕弁護士だ。もちろん母と面識はある。
「お母様には、確かにお気の毒ですが、それでもご自身が育て上げた息子さんの病院で、その最期を看取られると云うのは、これ以上の幸福もないと私は思いますが」と、
慰めとも労わりとも言えぬ話をした後で更に説明を加えた。
「確か、ご両親の財産名義はすべてお父さま名義になっていましたよね」
「はい、それが何か?」
「いや、余計な話だとは思うのですが、先生がお医者様としてお母様の看病に専念している間、お父様は寂しく不安定な精神状況に置かれていますよね」と、意味ありげな言い方をして来た。
「確かに、その通りですが今の私では父の面倒にまで手は回りません」
「そりゃそうでしょう、この病院の運営だって大変な仕事なのに今はお母様の看病まで日夜献身的な努力をなさっているのですから。でも、お父様が寂しい状況に放置されているのは事実です。問題は、その寂しさに言い寄る人です。つまり妹の智子さんです」
「良いではないですか、智子が父の面倒を見てくれりゃ何も文句を言う事はありませんよ」
「その通りなのですが、問題はお父様の寂しさの心の隙間に入りこみ智子さんが、お父様の遺言書を自分にとって都合の良い様に書き直してしまうかもしれないと、私は恐れているのです」
「そんな馬鹿な、妹に限ってそんな事はあり得ませんよ」と、
私は矢島弁護士の話を一蹴した。
ともかく、この数ヶ月間は昼夜の別もなく母の看病に尽くし、身も心もボロボロに疲れ果てているのにその隙間を狙って父の遺言書を書き直させるなんて事があるのか?
確かに弁護士らしい発想だが、
母の明日とも知れぬこの時期に、遺言書がどうのこうのと聞かされても私には何の実感も湧かなかった。
後で矢島弁護士の忠告が、その予測通りとなって私たち兄妹は分裂の危機を迎えてしまうのだが、その時の私は世間知らずのただの医者でしかなかった。
午後11時に病院から連絡
「母の血圧が70~80台を推移している」との報告だ。
ともかく2~3時間でも寝てしまおとベッドに潜り込む。
6月8日(金曜)
あさくら病院での二十三日目
午前4時半病院に着く。母は完全なる昏睡状態だ。血圧は76/40、脈拍数126回、マスクでの酸素濃度6L、SPO2が95%で心肺機能は極度に低下していた。午前5時半に弟を、6時には妹を呼ぶ。兄妹三人、話す事もなく黙って母を見守っていた。母の寝息が静かに伝わって来るがマスクから流れる酸素の音がそれを上回っている。しかし今この時、母は確かに生きているのだ。午前10時、弟が成城学園から父を連れて来る。
今日の昼頃が母の生命的限界だろうと考え午前11時には親戚中に連絡を入れた。午後1時になって浅草の母の妹夫婦もやってきた。午後4時過ぎになっても母の病状に全く変化は見られない。
この分だと後2、3日は保つかもしれないと私は考え直し、みんなに帰ってもらうことにした。父は弟が自分の車で成城学園まで送って行った。午後6時私も一度自宅に帰る事にした。
明日に続く

迷子の医者(37)

6月4日(月曜)
あさくら病院での十九日目
本日より北山大学を紹介してくれた、あの村上先生が常勤医師となり活躍してくれる。心強いばかりである。
しかし母の病状は確実に悪化の速度を早めていた。生命維持以下の最低限の補液量でも、癌性胸膜炎による胸水は徐々に溜まって行くばかりだ。利尿剤の効果も明らかに低下している。
マスクでの酸素濃度は5LでSpO2は95%と呼吸状態は変わらないが、傾眠状態はより深く、そして長くなっている。
午後8時30分、自宅に戻り夕食を取っていると病院から連絡が入る。母の意識レベルの低下が著しいとの説明だ。
すぐ病院に駆けつける。
確かに夕方の帰る前に見た時よりは、意識レベルの低下が明確だ。*JCS*
III-200レベルだ。痛覚刺激に対して、わずかな反応を示すだけだった。
直ぐに弟と妹そして父に連絡をする。
午後11時半、弟の車で父が病院にやって来る。しかし父は、
「めまいがする」と言って
そのまま隣りの病室で母の顔も見ずに寝込んでしまう。
父の血圧を測ると220/120mmHgと
相当に高い。
「このまま一緒に棺桶に入りたい」
と言って、騒いでいる。
ともかく父の腕に精神安静剤の注射をして気持ちを落ち着かせる。そのまま入院扱いにして見守る事にした。
6月5日(火曜)
あさくら病院での二十日目
父も何とか寝付いた所で、午前1時半弟と妹の二人は家に帰す。私は母のバイタルサインをしばらく見続け、未だ数日間は大丈夫だろうと確信し午前4時には自宅に戻る。そのまま午前10時ぐらいまで倒れる様に寝てしまう。
午前11時半には病院に出掛ける。
母の意識レベルは低下したままで回復する様子は全くない。父は精神安静剤の注射が効いた様で、充分に熟睡して血圧も落ち着いて来た。朝食もしっかり食べている。
午後2時、妹の車で帰って行く。
午後7時からは病院近くの小料理屋で、昨日から常勤となった村上先生の歓迎会、母の病状が不安定なので普段よりは、かなり細やかな歓迎会だった。
参加者もわずか10名に過ぎない。
私はもちろん飲酒はせず、午後10時一度病院に戻る。母の病状に変化はなかった。悪い意味で安定していた。
6月6日(水曜)
あさくら病院での二十一日目
梅雨入りである。しかし、そんな季節の移り変わりとは無縁の世界で、ただその日その日を精一杯生き抜いていた。
母の危篤状態は続いている。母が最も気にしていた褥瘡が、小さいながら仙骨部に出来始めた。10日前からエアーマットも使用し充分な注意を払っていたのだが、直径3cmと1cmのものが二ヶ所に出来てしまった。
二日前に意識レベルが急激に低下した時、出来てしまったのだろう。
父は、そのまま自宅で待機していたが情緒は極めて不安定で遺言とか相続の話ばかりをしている。
それのみが親としての最後の威厳を保つ証でもあるかの様に…
弟や妹たちは、そんな父の一言一言にかなり振り回されていた。
その時の私は、はるか遠くで遺言とか相続とかの話を聞いていた。そんな話に付き合っている様な心の余裕もなかった。
明日に続く
*JCS*
についての解説はトップページに記載されています。