中沢家の人々(21)

こうして清吉と紀子の交際が始まった。1963年11月初旬のお見合いから毎水曜日に二人のデートは続いた。店の定休日にも料理の研究を重ねていた清吉の生活も随分と変わった。心に生きる張り合いが出て来た。
デートを重ねる中に二人の心はどんどん接近して行く。その年の終わりにはデートの時間も、少しずつ長くなって行った。
年が明ける頃には手を握り合い唇も交わし合う仲にまで交際は発展していた。
清吉が紀子を呼ぶのも「紀子さん」から「紀ちゃん」へと変わった。
1964年3月18日(水曜)、春の訪れを感じさせる陽気な日差しの下で清吉は紀子にプロポーズした。紀子21才の誕生日だ。
「紀ちゃん、俺と一緒になって欲しい」
と言って、ピンクのリボンで飾られた小さな小箱を差し出した。中には1カラットのダイヤが入っていた。紀子は驚いた顔をして、
「今日が私の誕生日だって知っていたの?」
と、聞いて来た。
「うん、箱根のお母さんに聞いたんだ。そして君に今日プロポーズする許しも貰った」
「お母さんにプロポーズする訳じゃあないのに何故そんな許しなんか貰う必要があるの!」
「紀ちゃん、怒っているの?」
「馬鹿ね…怒る訳がないでしょう。嬉しいから少し意地悪を言っただけよ」
「じゃあ俺と一緒になってくれるんだね?」
紀子は黙って清吉の唇に自分の唇を合わせて来た。
「私が他の誰と一緒になるって言うの」
「紀ちゃん、有難う」
そう言うと清吉は紀子を強く抱きしめた。
こうして5月の吉日に二人の結婚式は行われた。
紀子との日々の暮らしは幸福に満ちていた。清吉は益々仕事に励んだ。
水曜日の定休日には二人で映画を見たり、色々な料亭に出掛けては食べ歩きに興じた。そうやって自分達の舌を肥やして行った。紀子の生活レベルは結婚して一気に向上した。
清吉共々、道子には旅館の女中を辞め近くに引っ越して来る様に何度とも無く説得するが、道子は決して応じなかった。
「孫でも産まれれば手伝いに行っても良いよ」
と言うばかりだ。
清吉の父と母に遠慮している事は明らかだった。父親の貞雄は相変わらず自分の気に入った大工仕事にしか手は出さず、仕事は最早趣味の領域になっていた。
それでも「ことぶき」は拡大路線をひたすら進んでおり、紀子が結婚する前後には隣接する土地を購入し、1953年当時貞雄が借地契約した60坪の土地は今や200坪まで拡がり、貞雄が寝食を忘れて造作した総建坪70坪の家屋も160坪にまで拡大していた。それのみか店から10分程離れた場所に建坪100坪の自宅まで作り上げてしまった。それらの建築の多くは貞雄の仕事だった。
富江も清吉も店の増改築には貞雄の顔を立てた。貞雄も、その期待に背かない立派な造作で自分のプライドを妻と息子に誇示した。
次回に続く

中沢家の人々(20)

「清吉さん、少しブランコに乗っても良いですか」
と、紀子の方から誘ってみた。
「ブランコですか、懐かしいですね。子供時代に戻ったみたいで…良いですよ、少し乗ってみましょうか」
清吉にもこのまま紀子と直ぐに別れたくない思いがあった。
「私ね、子供の頃は友達と何時もブランコに乗ってどっちが高く上まで漕げるか競争していたんですよ、とてもお転婆だったの」
「へぇ、とてもそんな風には見えないですね」
「今日は初対面だから少し猫を被っているのかも…」
「じゃあ実際の紀子さんて、どんな人なのかな?」
「それは…秘密」
初めて出会った異性に、どんどん惹かれて行く自分に清吉は驚きを禁じえなかった。
「一体どんな秘密が隠されているのだろう?」
「秘密って少しずつ明かされて行くのが楽しいんじゃないのかしら、推理小説みたいに…」
「なるほど、推理小説は余り読みませんが、言っている意味は分かります」
「それじゃあ、これから少しずつその秘密を解き明かして行くのが楽しみですね」
「でもその時は清吉さん、紀子の事を嫌いになっているかも…」
「そんな事は絶対にないですよ、もっと興味を抱くだけだと思います!」
清吉は妙に力んで答えた。
そんなたわいも無い会話でも1時間ぐらいは直ぐにたってしまう。秋の夜は早い。別れたくはないが、幾ら何でも初対面で夜遅くまで若い女性を引き止めて置く訳には行かない。
「紀子さん、そろそろ帰りましょうか」
「そうですね、外もだいぶ暗くなって来ましたし帰りましょうか。でも清吉さん、また会ってくれますよね」
「もちろんですよ、まだあなたの秘密を何も知らないし…」
そこの公園から紀子の宿舎までは10分もかからなかった。
その宿舎の前で清吉はどうにもならない寂しさを感じた。彼女の肌の一部に触れたくなる衝動を抑えるのに限りない抑制が必要であった。もちろん唇など求める訳には行かなかった。
紀子も清吉のそんな欲望に気付いていた。でも二人は多くを語らず、握手だけして別れた。
「また今度ね…」
とだけ言って。若い女性と過ごす時間がこんなにも楽しいとは初めて知る体験だった。
紀子も清吉と別れてまた寂しさを感じていた。男性の持つ大きな暖かさを初めて知ったかの様である。二人は恋心の意味を知ったのであろうか。それは理性の入らない感情の抑えられない思いである。
次回に続く

中沢家の人々(19)

さらに仲道は続けた。
「清吉さん、あんたも満更でもない顔をしているよ。紀子さん、失礼ですが嫌いではないでしょう、清吉さんの事を!」
「私は何も好きとか嫌いとか、ただ正直驚いているだけです」
「確かにね、話の展開が早過ぎて付いて行けないのかもしれない…でも二人して同じ時間を過ごし同じ空気を吸ってみる事だ。理屈ではなく流れて来る感覚が共に楽しく味わえるかが問題なんだよ」
仲道は何時になく饒舌だった。
自分の過去の苦しい経験を思い出しているかの様だった。妙な戸惑いが折角の巡り合いを哀れな結末にしてしまった過ちを…
こうして二人は何か皆に急かされる様な感じで、「ことぶき」を後にした。
二人にとっては生まれて初めての異性の交際だった。何をどの様に話して良いのかも分からなかった。ものの10分ぐらいは話すべき言葉も見つからず、一定の間隔を空けて歩いていた。
しかし、まるで何の話もしないというのも苦痛ではある。
清吉の方から料理の話を始めた。
「今日のお昼の食事は、御満足頂けたでしょうか?」
「満足も何も生まれて初めて味わった驚く様なご馳走でした。お客様の行列も凄いですのね。何時もあんなに忙しいのですか?…一体美味しいお料理の秘訣って何ですの」
「そうですね、その素材の特性を知り抜く事ですかね。魚にしても、肉にしてもどの様な味付けにすれば、その素材の味が最大限に生かされるかを学ぶ事だと思うのです。人にも夫々に得て不得手があるじゃあないですか。絵の好きな人もいれば、算盤の上手な人もいるでしょう。その人の一番得意な分野で仕事をしていれば誰でも輝いて見えるじゃあないですか。料理も同じだと思うんです。旬の味って言葉があるでしょう。同じ様にその素材を最も活かせる味付けと云うものがあるのです」
「それはどの様にしたら学べるのかしら?」
「それは素材その物に聞くのです」
「どうやって聞くのですか?」
「どんな味付けにしてもらいたいか、どうやったら一番美味しい味付けになるのか、常に素材と問答を繰り返しているのです」
「まあ、随分と面白いお話しです事。私はそんな事これまで一度も考えた事はありませんわ」
熱心に語る料理の話に紀子は少し興味を覚えた。そして清吉の純な性格にも好感を持ち始めた。そばにいるだけで暖かい空気に包まれている様だ。
そんな話をしている間に二人の足は何時しか町工場の近くまで来てしまった。工場の手前には小さな公園がある。そこには2台のブランコが置いてある。
このまま清吉と別れるには少し寂しさを感じた。
次回に続く

中沢家の人々(18)

今度は工場長が横から口を出した。
「それで兄貴、俺の工場の経理事務はどうなるの。内では紀子さんがいなけりゃ、どうにもならないよ」
「心配するな、その事も充分に考えてある。今ここで紀子さんが辞めたら工場は大変だろうよ。そんな事は百も承知だ」
「じゃあどうするの?」
「彼女には、今まで通りに働いてもらうさ。ただし日曜は出勤で水曜日を休日にしてもらいたい。これならお前の所で困る事もないだろうよ。水曜日は「ことぶき」の定休日なので、この日に若い二人がデートすれば良いじゃあないか」
「さすがは兄貴だ、そこまでの深い読みがあるとは恐れいった。それなら俺にも全く異存はない」
「清吉さん、そう言う話だ。文句はないね」
「はい、有難うございます。先生のご厚意には感謝の言葉もありません」
「紀子さんの意見はどうですか?」
「でも本当に私の様な町工場の事務員上がりの者で、良いのですか?」
富江が横から口を出した。
「紀子さん、何か勘違いしているんじゃない。内の清吉だって、たかだか飲み屋の息子だよ。事務の経理だなんて立派な仕事じゃあないか!…こちらから清吉との付き合いをお願いしたいくらいですよ」
富江も紀子の清々しい乙女姿には心から気に入っていた。
「お母さまがその様に仰って下さるなら、喜んでお付き合いさせて頂きます」
突然に仲道が言い出した。
「清吉さん、今日の仕事はもう良いよ。紀子さんをお家まで送って行きなよ」
「それでは仲道さんが大変じゃあないですか?」
「そんな事は気にしなくて良いさ。それよりは紀子さんを送って行く事の方が重要だ!」
道子も言い添えた。
「折角のご厚意だから、お言葉に甘えてそうさせて貰いなさい」
「本当に!」
紀子は幼な子の様な顔で母親を見た。
「良いんだよ、清吉さんと出かけておいで」
と、優しく道子は頷いた。
工場長も一緒になって、
「紀子さん、私たちの事は何も気にしなくて良いから出かけて来なさい」
と言い出した。
「そんな、未だ初対面なのに!」
「良いじゃあないか、人間の縁とは何処でどう繋がるかは運命の神様が決める事だ。3年付き合っても縁がない時は駄目なもんだ。一目惚れって言葉がある様に初対面でも縁結びの神様が二人をそのまま結び付けてしまう事だってあるのさ」
と、仲道は自分の遠い昔を思い出す様に言った。
次回に続く

中沢家の人々(17)

「紀子さんは、どう思うの?」
「はい、私は工場の経理事務の仕事もありますし、夜学もありますから、何ともご返事のしようがありません」
道子は、この清吉と云う青年に純な男の姿を見た。今までの自分の人生の中でも、これ程まで誠実な男に出会った事がない。もしかすると清吉と云う男により、紀子の人生は大きく切り開かれて行くかもしれないとも考えた。そんな気がしてならない。そうだとすれば夜学などに通う理由などない。
簿記1級や税理士などの夢を見ても、とても実現するとは思えない。簿記2級までは何とか1年掛かりで手に入れたが、そこからは厚い壁が立ち塞がっていた。とすれば誠実で働き者の男性と結婚するのが最も現実的な幸福への道ではないか。そんな事を道子は自分一人の頭の中で考えては堂々巡りしていた。そして道子は口火を切った。
「紀子ちゃん、昼間は工場で経理事務の仕事をして、その後は夜学まで通い簿記2級まで取った根性には、お母さんも頭が下がる。歯をくいしばって色々な資格を取るのも大事だ。しかしそれだけで人間が幸せになれる訳ではない。本当に愛する人がいて、一人では出来ない事を二人でやって行くのはもっと幸福な道かもしれない。あんたにも言いたい事は山ほどあるだろうが、夜学に通うよりは別の人生選択もあるかもしれない。中途半端な生き方には中途半端な人生しか得られないかも…あんたもお母さんの人生を見て考える事は一杯あるでしょう!…裏切られる事が多い人生かもしれないけれど、誰も信じられなくなったら自分自身をも信じられなくなると思うの、そうしたらどうなる?
自分で自分を信じられなくなったら後は死ぬしかないでしょう。私は箱根旅館の女中をやりながら何故頑張って来れたと思う。本当に愛した前の夫の子供、紀子ちゃんがいたからこそ頑張って来れたのよ。
私の最も愛する我が子、紀子ちゃんあなたにはどうしても幸せになって欲しい。愚かな母親の戯言かもしれないけれど…
一人で勝手な事ばかりを言って申し訳ありません。先生はどう思われますか?」
「そうだな、確かに紀子さんには夜学以外の別の人生を考えても良いかもしれない。女が自分一人で生きて行くには、まだ辛い世間だ。結婚と云う選択も充分に考えるべき道ではあるだろうね。どうだい清吉さんと少し付き合ってみたら。清吉さん、あんたはどう思う?」
「どう思うと言われましても今日、初めてお会いしたばかりですから…」
「そりゃあ、その通りだがこれも一つ縁だ。料理の腕前を磨く事も大切だろうが、それだけでは人生に潤いがないだろう」
「先生のお話しは、ごもっともですが私はまだ半端な料理人で修行中の身です」
「相変わらず清吉さんは堅いね!…料理の味付けにも潤いが必要だとは思わないかね。人間には多少の余裕も無ければ本物の料理人にはなれないと思うんだがね!」
清吉は恥ずかし気にうつ向いて、
「先生がそこまで仰るならお言葉に従います」と、答えた。
「紀子さんは、どう思っているの?」
「私は夜学に通う事にばかり気を取られていましたが、先程の母の話にもありました様に夜学に通う事だけが自分の人生ではないと少し考え直しました。
清吉さん、こんな私で良ければどしどし躾て下さい。」
清吉は驚いた様な顔をして、
「躾けるも何も俺自身が未熟な人間だ。紀子さん、こちらから宜しくお願いするだけです」
明日に続く

中沢家の人々(16)

紀子の工場に勤める工員とほぼ同年齢の清吉との差は何だのだ。何と礼儀正しい、高校卒とも思えぬ品性さえ感じる。それに店の繁盛振りが凄い。これは簿記の1級とか2級とかの話ではないかもしりない。清吉のきりりとしまった男振り、そして女の第六感として分かる誠実さと本物の優しさ、こんな男がいるのだと云う驚きで、紀子は清吉に異性の存在を始めて意識した。
この日の懐石料理は、殆んどが清吉一人で調理された。仲道のアドバイスも少しあったが9割以上は清吉一人でやり遂げた。
清吉も紀子との初対面で、やはり生まれて初めて異性の存在を意識した。まるで汚れを知らない純潔そのものの乙女を目の当たりにして、清吉は男である自分の感情を徹底的に抑えた。
複雑に入り乱れた自分の感情を抑える為にも、より料理に専念して行った。
先ずは正午の懐石料理の手順により折敷(脚のない善)に飯碗、汁碗、向付が置かれ、手前に利休箸を添える。箸置は用いず、箸は折敷の縁に乗せかけてある。飯碗は吹きたての柔らかい飯に少量盛り、汁碗の味噌汁も具が頭を出す程に控えめの量にする。向付は一汁三菜の一菜目に当たるもので、お造り(刺身)などを盛る。
酒は客が汁を飲み切った頃合いを見て、亭主が銚子と盃台を運び、客に酒を注ぐ。紀子と道子は酒の代わりに緑茶を貰った。
この母子には、この様な本格的な料理は生まれて口にするばかりのものである。素材も一つ一つが極上の物が洗練されている。
「清吉さん、また一段と腕を上げたな。これならどんな料亭の花板も勤められるな」
「先生、ご冗談を言って行けません。私ごとき半端者を使ってくれる料亭など何処にもありませんよ」
すると仲道が横から口を挟む。
「先生、本当なんです。近頃の清吉さんの上達振りには目を見張る物があります。もう、私なんか何時お払い箱になっても良いくらいですから…」
「冗談言っては困りますよ、仲道さんがあっての『ことぶき』なんですから…」
「大丈夫だ、清吉さん一人だって立派にやって行けるよ」
「まあ、良いや師弟愛の美談はそれくらいで、それよりは清吉さんのご両親はどうなさった」
「はい、母はただ今やって来ます。父は生憎急ぎの大工仕事があつてどうにもお顔出しが出来ず申し訳ありません。お母さん、こっちだ。何だ、エプロン姿なんかで…」
「申し訳ありません、こんな無作法な格好で…私が清吉の母の富江です。こんなむさ苦しい所に起こし頂き有難うございます。まあ、そちらのお嬢様が紀子さんで何とも可愛いらしい。
清吉、お前はそれで料理の研究を昨晩遅くまでやっていたのだね」
「お母さん余計な事を話すもんじゃないよ。第一初対面の人に失礼じゃないか」
そう、母をたしなめながらも清吉の顔は真っ赤だった。
工場長の兄が横から口を挟んだ。
「二人とも満更でもなさそうじゃないか。どうだい少しお付き合いをしたら、紀子さんのお母さまはどう思われます?」
道子は急に話しが自分に振られて来たので、少しドキマキしながら、
「それは、もう紀子次第です」
と何とか答えた。
明日に続く

中沢家の人々(15)

新大久保駅で落ち合った紀子たち3人は先ず駅近くの喫茶店で一休みした。12時10分ちょうどに「ことぶき」に着く段取りになっている。駅から「ことぶき」までは歩いて5~6分の距離である。20分や30分はコーヒーでも飲む時間もある。
そのコーヒーを飲みながら工場長は兄貴から聞い清吉一家の家族構成を簡単に説明した。清吉の父は腕の良い大工で今の「ことぶき」も自分一人で作り上げたらしい。店の主人は清吉の母だが55才で近頃は店に出る事も少なくなり実際の主人は清吉だ。使用人は10人程いて兄貴に言わせると店の中は戦場の様な忙しさらしかった。
そんな説明を終えた所で12時を少し回ってしまった。3人は急ぎ「ことぶき」に向かう。
12時10分、定刻通りに着いたが本当に凄い人の列だ。どうやったら入れるのか戸惑うばかりである。すると工場長の兄が列の向こうから手を振って来た。
「お~い、こっちだ」
「何だ、そんな所にいたのか。それにしても少し遅いじゃないか?」
「いや、時間は約束通りに着いたのだが、何にしても凄い人だ、どうやって入ったら良いのか分からなかったのよ」
「そうか駅の改札口で待ち合わせすれば良かったな!…まあ、良いか済んでしまった事は。一般のお客さんと一緒に並んでいたら何時まで待たされるか分からない。ちゃんと手は打ってあるよ。さあ、入口はこっちだ」
並んでいる多くの客は不機嫌そうな顔をして、そんな4人を見ていた。
「清吉さん、例のお客さんを連れ来た。約束の個室は何処だい」
「あっ、先生わざわざのお越し有難うございます。お部屋の方はこちらの方にご用意してあります。どうぞ…」
「どうも有難う。それじゃあ案内してもらうよ、挨拶はその後だ」
工場長は言うまでもなく、紀子も道子も目を丸くしていた。何だ、この客の混み方は!…それに使用人たちの忙しそうな事。通された個室は8畳の和室であった。先ずは女子店員が熱いお茶を持って来た。そして清吉が挨拶にやって来た。
「今日は、わざわざご来店頂き本当に有難うございます。大したお構いも出来ませんが、どうぞゆっくりとお寛ぎ下さい。私は未だ24才の小僧子ですが、それでも料理人としては心血を注いでいます。お口に合いますかどうか甚だ疑問ですが、心だけは精一杯尽くすつもりでいます。前置きは、このぐらいにして先生どうか皆様方のご紹介を頂けませんか」
「いや、これは失礼した。先ずは真向かえにいるのが本日の主役の紀子さん20才だ。隣がお母さまの道子さん、そして私の弟だ」
3人は夫々に挨拶を返した。
紀子も道子も、清吉の24才とも言えぬ挨拶振りの丁寧さに少し驚いた。紀子は知らぬ間に自分の顔が紅潮している事に気付かなかった。
明日に続く

中沢家の人々(14)

1963年11月初旬の金曜日、紅葉の始まりかけた箱根を出て道子は午前11時25分に新大久保駅に着いた。何とも落ち着かない風情である。まるで自分がお見合いでもするかの様な気持ちである。
一方の清吉は工場長の兄から、お見合い話を持ち出された時は酒の上の冗談話みたいに聞き流していた。
「先生、私は未だ半端な板前ですよ。お見合いがどうのこうのと言ってる身分じゃありませんよ」
「そんな事を言っても、この店の繁盛ぶりはすごいじゃないか。嫁の一人ぐらいは貰っても良いだけの資格はあると思うがね!」
「先生、失礼を承知でご返事をさせてもらいますが、店が繁盛していれば良いってもんじゃないですよ。私自身が半端な板前である自分を許せないんです」
「さすがだね!常に一流の大工を目指している貞雄さんの息子だ、言う事に性根が据わっている。こりゃ私の負けだね」
そこに仲道が口を出して来た。
「俺が何か言える立場ではないが、清ちゃんは少し考え違いをしているんじゃない。大工だって、板前だって修業だと言えば死ぬまで修業だ!…それを言い出したら死ぬまで結婚出来ない事になる。それに清ちゃんね、料理は人間が作るものだ。料理の技術だけを磨けば良いってもんじゃない。人間性をも磨いてこそ本物の料理が作れるのではないだろうか?
未だ独身の俺が言うと馬鹿みたいに聞こえるかもしれないがね。しかし、こんな俺にも結婚を誓った女はいたのよ。それが不幸な事故に巻き込まれ死んでしまったのさ…俺は生涯結婚はしないと操を立ててしまったのだ、こんな下らない話をして恥ずかしいんだが!」
「仲道さんにも、そんな過去があったのですか?」
「誰にもそれなりの過去はあるよ、それよりお見合いの話を受けてみなよ。人生は何でも経験だ。それが新しい料理作りにも繋がって行くと思うがね」
「仲道さんに、そこまで言われるとその気になりますね」
「そうだよ、何事も経験だ」
「先生、私の考えが浅はかでした。お見合いの件は宜しくお願い申し上げます」
「そうかい、やっと納得してくれたかい。相手の方には了解して貰っているので清吉さんに断られたら、私は窮地に立つ所だった。やぁ、仲道さんの援護射撃で助かった!…日程はともかくお見合い場所は「ことぶき」にしよう。夜は飲み客が多いのでランチタイムが良いと思う。清吉さんは仕事着のままで良いよ。男は仕事で輝いている時が一番だ。その代り自慢の料理に腕を振るってくれ。もちろん会計はゼロだ」
「何だ、筋書きは全部出来上がっているんですね。先生には敵わないな!…分かりました、総て先生の言う通りにします」
「日程が、決まったら個室の一つは必ず空けといてくれ。
一般のお客さんの様に外で30分以上も待たされたら、纏まる話も纏まらないからな!」
「分かりました、総て先生のお指図通りにします」
明日に続く