中沢家の人々(95)

清吉が飛び出した後は平静を装って、里美は翔太を寝かしつけた。そして夜10時過ぎ「葵」のママの所に電話をかける。
「すいません、お忙しい時間帯に電話などをして」
「あらどうしたの、里美ちゃん。何か急用な事!」
「別に急用って事もないですが、少しママに相談したい事があって…今お時間は大丈夫ですか?」
「えゝ今日は暇を持て余していた所なので丁度良かったわ。里美ちゃんも知っている通り、月曜って大体が暇なのよ。それで相談って何かしら?」
「はい、先日も少しお話しをしたと思うのですが『葵』でもう一度仕事をさせて欲しいのです」
「まあ、それって本当の事なの!…冗談かと思っていたわ」
「いえね、この間もお話しをしたと思うのですが、あの人は4年程前に社長の座を追われてしまったのですよ。それ以後の生活はただ預金通帳のお金だけで毎日を過ごしていたんですけど、そのお金も底を尽き始めているのに、あの人は全然働こうとはしないんです。そんな訳で、今少し前も大喧嘩になって、あの人は家から飛び出してしまったんです」
「まあ中沢さんて、そんな人だったの。とても信じられないわ!」
「そうなんですよ、社長の座にいた時こそお金の羽振りも良かったですけど…」
「それで中沢さんは何か仕事はなさならいの?」
「まあ一様は板前をやるとか、小料理屋をやるから私にも手伝えとかは言うんですけど、私は未だ正式にあの人の籍に入っている訳ではないし、そこまで一緒に苦労する義理もないでしょう!」
「それも、そうね。そう云う事だったら、葵で働いてもらうのが一番良いかもね。で、里美さんは何時からなら働けるの?」
「何時からでも大丈夫です」
「明日からでも?」
「はい、大丈夫です。ただ以前の様にマンションを貸して頂く事は可能ですか?」
「もちろんよ、里美さんが来てくれるならお安い事だわ」
「有難うございます。それなら、一週間以内に行きます。後は我が儘を言って申し訳ないんですが、あの人には内緒にして欲しいんです。ですから銀座では無く、ママが言っていました様に六本木のお店で働かせて頂きたいのです」
「もちろんよ、私としても里美さんに六本木で働いてもらえるなら大助かりだわ。予定が決まったら教えてちょうだい。直ぐにでも迎えに行くから…マンションの方も数日以内には入居出来る様にしておきますね!」
「色々と有難うございます。私の勝手な我が儘を聞いて頂いて、やっぱりママだけが頼りだわ!」
「お礼を言いたいのは私の方よ。少し落ち着いたら、六本木のお店は里美さんに任せても良いと今から心待ちしていたもんだから…」
「そんな!私なんかに務まるかしら、自信ないわ…」
そう言いつつも里美の心は、弾んでいた。
次回に続く

中沢家の人々(94)

翔太4才の誕生日が過ぎ、早くも2ヶ月の時が流れても現実の生活には何の変化も見られない。清吉は7月以来「ことぶき」の新橋店に幾度か顔を出しては川崎に、それとなく自分の重役問題を打診するが色良い返事はなかなか得られなかった。
11月も半ばになると季節も秋から冬へと駆け足で変わって来る。預金通帳の残高も恐ろしい勢いで目減りしていた。
この1ヶ月あまり、里美は翔太の行く末をあれこれ考えては思い悩んでいた。しかし、如何に考え込んでも彼女の中では結論が出て来ない。11月22日の月曜、また里美と清吉は激しい口論になってしまう。
「一体、何時になったら仕事を始めるの?」と、
ゴルフ場から帰って来た清吉に里美が怒りを爆発させてしまった。
「何だ!…人が帰る早々にそんな言い草はないだろう」
清吉も不機嫌さを露骨に出して言い返した。里美も決して負けてはいない。
「帰る早々もないでしょう、この5月から預金通帳の残高がどんどん減っているからと、私は言い続けているじゃないですか?…それなのに貴方ときたら一向に動く気配が見られないし、私たち母子の将来はどうなるっていうの!」
半ば吠える様に里美は清吉を詰(なじ)った。
「それは、お前の一方的な考えだろう。俺だって『ことぶき』に何度も出掛け支店長の川崎とは交渉を続けている。それ以外にもゴルフの会員権を処分して料理屋の一つもやろうって提案も出したが、お前は全く取り合わなかったじゃあないか!…俺ばかりを責めたってどうにもならないだろう」
「何を言ってるの、俺の子供さえ作ってくれれば一生面倒をみてくれると言ったのは誰でしたっけ?」
そう言われて清吉は言葉に少し詰まったが、
「お前はそうやって何年も前の話を何時までも蒸し返しては、鬼の首を取った様な顔をしているが、それなら俺にも言い分はある。4年ぐらい前、紀子の弁護士が1億円の小切手を持って来た時にお前は横から口を出して何と言った。それだけの大金があれば一生楽に暮らせるから争いは止めて妥協した方が良いと言ったのは、何処の誰だ!」
「何を言ってるの、自分の甲斐性のなさを16才も年の離れた私に責任をかぶせたりして恥ずかしくないの?」
口論は何時果てる事もなく続きそうだったが、里美の勢いに負けて清吉はそのまま外に出てしまった。その日は家に帰らず、ビジネスホテルに泊まってしまう。ビジネスホテルのベッドの中で清吉はつくづく考えた。
あんなに愛くるしかった里美の、この変貌ぶりは一体何なのだ。女って云う生き物は何だって、こんなにも自分勝手な理屈ばかりをこね回すのだろうと…
里美もまたマンションの一室で考えていた。何だって、こんな生活力のない男なんかと一緒になってしまったのだろうと…
次回に続く

中沢家の人々(93)

しかし、この様に何不自由のない愛の生活にも破局の訪れが待っていた。社会人として著しくバランスが欠如した自分達だけの愛の暮らしなどは、当然の如く何時しか綻びが目立って来るものだ。
人は何かを得る為には何かを失うのだ。大きな富を得る為には清貧さが失われて行く様に…時には純朴さも…
その意味で清吉と云う男は余りに不器用で、世の中を甘く見過ぎている傾向が強かったのかもしれない。
「ことぶき」と云う暖簾(のれん)を作り上げて行った努力には見上げたものがあった。料理研究にもよく精進していたし、父親にも妻にも、人間として真心を以って接していた時期もあった。
それが妻、紀子との間に子供が出来ないと云う事実の前で清吉は変わってしまった。そして紀子も変わった。可愛い妻から強い女へと成長して行ったのだ。
その一方で清吉は若い愛人との溺愛した生活の中で、身を持ち崩して行った。消費のみで経済活動を忘れた清吉の前に待っていたものは、若い愛人から清吉への不信の芽生えである。経済的不安が日々募って行く中で、里美が清吉への思いを愛から不信へと変化する心情を一体、誰が責めうるのか?
紀子から手切れ金の如く手渡された1億円の小切手は瞬く間に底が尽き始めていた。それでも一度膨張した彼等の生活は容易に縮小できず、不信の芽生えは愛の破局へと突き進んでいた。
里美は色々と思い悩む日が多くなっていた。「葵」のホステス仲間に電話をしたり、馴染みだった客の名刺を探し出しては、翔太と清吉のいない時間帯を狙って、あちらこちらへと電話をかけ雑談を装っては情報集めに奔走していた。
この5年の間にホステス仲間もかなり入れ替わっていたが、数名とは連絡も付いた。里美から電話を受けたホステス達は皆が一様に驚いた。
「まあ里美ちゃん、どうしたの。玉の輿に乗って、皆が羨ましがる生活をしているって思っていたのに!」
と、里美の愚痴を聞いた人達は口を揃えて言った。
彼女は涙まじりに、清吉が「ことぶき」の社長の座を失い、今や経済的にも社会的にも全く役に立たない男と成り果てている現実を誰彼かまわずに話していた。
「葵」のママも未だ元気で、里美のそんな愚痴を聞いて直ぐにでも戻って来る様に言ってくれた。銀座のみならず、六本木にも別の店を昨年から出しているから、出来たらその店で働いてもらいたいとの意向であった。
わずか2年余りで「葵」を辞め清吉と同棲してしまった過去の話には、全くこだわりを持っていない感じのママの対応だった。そんな事よりは実戦力としての里美を欲しがっている。
「里美ちゃん、何時帰って来ても良いのよ。貴女がいなくなってからは皆、とても寂しがっているわ!」と、
ママは甘く電話口で囁く。
そんなママの囁きに、彼女は職場での華やかな日々がしきりに思い出された。自堕落な生活から何時までも脱却出来そうにない清吉の後ろ姿を目の当たりにしては、より「葵」での生活が懐かしくなるばかりだった。
次回に続く

中沢家の人々(92)

「葵」に勤め始めてから3ヶ月程で里美には指名が少しずつ入り始めた。客を見つける瞳が何時も憂いに満ち、それでいて笑顔は決して絶やさない里美のそんな接客態度が、男心を揺さぶるかの様に半年もしない間に30人はいるホステスの中で彼女の売り上げが、べスト10入りを果した。驚く程の伸びで他のホステス達の里美を見る目も変わって来た。強敵なライバルが現れたと云う視線だ。
一方の珠江は半年たっても一人の指名が得られなかった。歩合制の給料では収入面においても里美との差はつくばかりだ。
結局は一年もしない間に珠江は自分から「葵」を辞め、マンションからも引き上げた。2DKの渋谷のマンションは里美一人の占有となったが寂しさを感じる暇もないくらいに彼女は忙しかった。美容院も3日に1度は行っていたし、洋服などの買い物も多かった。
その半年後ぐらいから38才の清吉が「葵」の常連客となり出した。最初はゴルフ仲間に何か無理矢理に引きつれられて来た感じで、殆んど遊び馴れている風でもなかった。その日は指名客もなく里美は、たまたま暇だったので清吉の席に着いた。年の割には妙にはにかんでいて無口だった。ウイスキーの飲み方にも品があった。ラフに着こなしているジャケットも驚くほど高級ブランドで左手にはAP(オーデマ・ピゲ)の腕時計が光っていた。それでいて全く金持ちらしい嫌味がなかった。清吉の隣に座っているだけで温かな安らぎさえ与えられた。初対面で里美は清吉に好感を持った。
その一週間間後に今度は清吉が一人で恥ずかしげにやって来た。雨の強く降る日で客は殆んどいなかった。
ボーイに、
「ご指名は?」と聞かれ
「里美さんはいるの」と、
照れくさそうに答えた。入り口近くで早くも清吉を目にしていた里美は急ぎ清吉のそばに近づいていった。清吉は里美を眩しげに見て、
「また、来ちゃったよ。迷惑だったかな?
」と、ぼっそり呟いた。
「迷惑だなんて、とんでもない。とても嬉しいわ!」
そんな清吉の言い草に里美は益々好意を強く感じた。それ以降、二人の関係は急速に深まった。
里美も22才になり「葵」の水にもすっかり溶け込んでいた。清吉はこれまで付き合っていた水沢とは余りに対照的だった。その経済力といい、着る物のセンスといい、これが同じ男性かと思えない程に違っていた。
水沢よりは6才も年上だったが男としての魅力には格段の差があった。わずか40万円の金でお腹の子供を平気で堕ろさせる様な人間とは比較にもならないだろう。
週に1~2回は必ず「葵」に来て里美を指名してくれ、時にはゴルフ仲間も数人は連れて来るが、その金離れの良い事はこの上ない。それだけ里美の売り上げが順調に伸びる事にも繋がる。事実、清吉が「葵」に通い出し里美を必ず指名する様になってからと云うもの、里美の売り上げは他のホステスを格段に抜いて常にナンバーワンの地位を維持し続ける様になっていた。ママやボーイ達の里美に対する見方も大きく変わってトップホステスとしての我が儘が許された。もちろん清吉以外にも里美ファンは何人もいたが、彼ほど紳士的で里美にプレゼントの多い客は他に例を見なかった。そのプレゼントの一つ一つが腕時計、ネックレス、バッグ、指輪などの高価な品が多く、どれもこれもが100万円前後はするものばかりで、他のホステスが妬んだのは無理のない所であった。だから必然、清吉が「葵」で遊ぶ時は里美が清吉の専属となってしまった。
こうして一年以上、清吉が「葵」に通う間に里美は彼の愛人となってしまい、子供まで出来てしまう。親類縁者の乏しい里美にとって血を分けた子供は誰よりも欲しかった。しかし、その為には二つの絶対条件が必要である。幼少時から貧しい生活を余儀なくされていた里美には金銭への憧れが人一倍強かった。さらに自分だけを見つめてくれる大きな愛にも渇望していた。その両方を清吉は持っていて、それらを限りなく里美に捧げた。
正妻の紀子がいるにも関わらず、清吉は里美と翔太の愛の暮らしにのめり込んでいた。家政婦もベビーシッターも雇い入れ里美は何不自由のない生活を楽しんでいた。
次回に続く