中沢家の人々(110)

こうして清吉は面目を一新して、社長業に専念していった。
「ことぶき」での彼の指導力も日々増し職員の信頼度も高まるばかりであった。そんな日々の中で、紀子は益々清吉を会社の前面に押し出す様にしていた。新大久保での親子3人の生活もすっかり馴染んで、翔太の幼稚園も変わり仲良しの友達も幾人かは出来た。
幼稚園の夏休みは、親子3人でハワイに出かける。清吉はゴルフでハワイに来た事はあったが、翔太はもちろん紀子も海外旅行は初めてである。
7月下旬の成田空港は人混みで溢れていた。成田空港は開港6年目を迎え、年間の海外旅行客数も10年前の200万人台から400万人台と倍増していた。
海外旅行は一部の人達の遊興から一般庶民にと少しずつ拡がりをみせていた。
清吉44、紀子40、翔太4才での海外旅行である。夫婦共に意識は高揚していた。4才の翔太には箱根であれハワイであれ大差はないかもしれないが、両親の興奮が伝わって来るのか、子供なりに新たな冒険に挑む様な思いを抱いていたかもしれない。ホノルルの空は青空が広がっていた。空気の匂いまでが違っていた。妙に心を弾ませる。
旅行の本質は何処に行くかではなく、どの様な精神状況で誰と一緒に行くかで決まる。人間とは所詮、感情の動物である。旅先での風景よりは、心の情景で旅行の気分は左右されてしまう事が多い。
その意味では清吉の心は爽やかだった。こんなにも楽しい気分で旅の空に出向くなんて事は何年も味わった経験がない。昨年の夏休み、里美と伊豆に出かけた時とは雲泥の差である。あの時の刺々しい気分は、思い出すだけで気が滅入りそうだ。
今は「ことぶき」の社長に復帰し、仕事にも限りない充実感を抱いている。紀子との関係も極めて良好である。翔太は実の母親以上に紀子に馴染んでいる。
ホテルはワイキキビーチに隣接する高層ビルである。ビーチの近くは割と押し寄せる波が高い事もあって、翔太はホテルのプールで遊ばせる事が多かった。小さなビニールボートに乗って彼はご機嫌だったが、怖くて未だ目が離せない。紀子は日焼けを嫌ってビーチパラソルの下にいてカメラ撮影に熱中していた。なんとも言えない幸福な時間の流れである。
さて、ここで話を少し里美の事に戻してみたいと思う。昨年の秋に品川のマンションから疾走した里美はどうしているのであろうか?
先ずは預金残高の2千万円を引き出し、清吉名義から新しく自分名義の通帳にお金を移動させ、「葵」のママが用意してくれた六本木近くのマンションに入居した。数日間は転居後の雑用に追われ忙しく立ち働いていた。時には翔太の事が思い浮かんだりもしたが、清吉への嫌悪感からその様な母性は泡のごとく消え去った。引越し後2日たってから「葵」のママが訪ねて来た。
「まあ、里美ちゃん本当に来てくれたのね。とても助かるわ、それにしても全く変わらない…22~3才ぐらいにしか見えないじゃない!」
次回に続く

中沢家の人々(109)

組織の衰退の芽は、その最盛期に根ざしている事が多いと言われている。急激な事業拡大は地盤固めを忘れ、熱気に早まった高揚路線にのみ心を奪われる。
*「大きいことはいいことだ」
のCMソングに代表される時代背景もあって日本中が事業拡大を競い合っていた。
*著者注
「大きいことはいいことだ」
【1960年代後半に森永製菓が発売したエールチョコレートのCMソングの歌詞の一節。
このCMソングの作曲も手がけた山本直純が気球に乗って指揮をするCMは人気を博し、「大きいことはいいことだ」は当時の流行語にもなった。 】

しかし、そんな時代背景にあっても清吉は料理人の真髄を忘れたくはなかった。店を拡張すれば良い、売り上げを伸ばせば良いと云うだけの考えには同調出来なかった。
客が多かろうと少なかろうと、料理の真心に手を抜く様な店の経営には賛同出来なかった。
現実の「ことぶき」が、その様な拝金主義の店に成り下がっている訳ではないが、新社長に返り咲いた清吉の目には色々と気になる事も多かった。
月一回の店長会議は、この一年余りは慢性化しており、各店舗の売り上げ、集客率などの報告に終始していた。そこに清吉が
接客態度の在り方、客の混雑度における職員の配置方法、板前の料理研修など多くの助言を呈した。
仲道を始め、集まった幹部職員は清吉を改めて見直した。その助言の一つ一つが実に的を射たものであると感じたからだ。
さらに清吉は、こう論じた。
「仕事とは自分の時間を他人の喜びに変える事なのです。私たちの使命は食を通して少しでも多くのお客様に、満足して頂ける様に日々努力をして行く事です。料理の味は言うに及ばず、店の雰囲気作り、笑顔を絶やさない接客態度、華美に走らない清潔感などには常に心を配っているべき事です」
それまで黙って聞いていた川崎が、やや感動の態で
「ただ今の社長のご発言は全く一つ一つがごもっともな内容で、今日まで我々は何を見ていたんだろうと恥じ入るばかりです。さらに客の混雑度により職員の配置方法を考えるなどは思いもつかない発想で、ただ恐れいるばかりです」
と、熱い感想を述べた。他の店長たちも賛同の意を表わした。
仲道が話を続けた。
「それでは、これまでの社長の発案を、どの様にしたら具体化して行けるかを早急に検討して行きたいと考えます。料理研修は各店舗の板前が年に数回、不肖仲道が運営を任されています新大久保店で、板前同士の料理コンクールなどを実施してみるのも一案かと思うのですが…」
「それは面白いアイディアですね」
と、会長である紀子も大いに賛同を示した。それからは各自が色々と意見を出し合って、社長の発案をどの様にしたら具体化出来るかで会議は何時になく盛り上がった。
次回に続く

tomikoroさんへの再回答

tomikoroさんへの再回答
9月22日の私の回答に大きな説明不足がありましたので、ここにお詫びと共に新しい説明を付け加える事をお許し下さい。前回は「夜間せん妄」と云う概念でお話しをしてしまいましたが、より重要な病状として「睡眠行動障害RBD」の疑いも捨て切れません。このRBDの特徴は明白な認知症状(レビー小体型認知症への移行が多いのですが)出現するまでに10年近くの経過をたどる事があるのです。このRBDの有効的な診断は睡眠時無呼吸症候群に使うPSG(睡眠ポリグラフ)の検査が大きな決め手になります。
治療法としては漢方薬の抑肝散と少量のドネペジル(アリセプト)がよく使用されています。
これでも未だ拙い説明とは思いますが、お許し下さい。

中沢家の人々(108)

1983年4月1日、清吉は44才で再び「ことぶき」の社長に着任した。紀子が「株式会社ことぶき」を設立したのが1979年4月であったから、正式な意味では紀子の社長在職期間は満4年にしか過ぎない。
しかし清吉は34才の年から狂った様にゴルフにのめり込んでいたので、会社経営の実態は紀子が10年間も動かしていた事になる。つまりは30才の若さで紀子は会社経営の切り盛りを開始していたのだ。
もちろん、そこには仲道の大きな支えがあった事は言うまでもない。そして今や「ことぶき」グループは8店舗にまで拡大していた。新大久保、新宿、新橋、上野、四谷、品川、浅草、日本橋の各店舗で、一店舗当たりの売り上げは6億円近いものがあった。さらに銀座、池袋にも新しい店舗が建築中である。
清吉が「ことぶき」の経営を投げ出しゴルフにのめり込んで行った時点での「ことぶき」チェーンは3店舗であったから、紀子の経営手腕で5店舗を増やした事になる。
この数字だけを見ると、紀子の経営能力だけが優れている様に見えるが、その基礎的経営戦略はすでに清吉が敷き詰めて置いたものでないかとの解釈も成り立つ。もっとも如何に夫の基礎的戦略があったにせよ30才の女の細腕で、これだけの屋台を切り盛りして行くのは容易な技ではなかったであろう。それ自体が驚嘆に値するものではあった。
44才で再び社長の席に返り咲いた清吉は、10年前に比べ一皮も二皮も剥け人間的には大きく成長していた。毎日1店舗づつを見て回り、店により料理の出来映えや味付けに差はないか、接客態度の教育は十分に行き届いているか、店内の清潔度、衛生管理さらに照明器具や壁の飾り絵に至るまで細かく点検していた。
各支店を見回る時も社長然としてではなく、常に客の視点で店内を見回していた。だから店によっては社長の見回りとは気付かず、一客人として清吉に接する店もあった。そんな時には清吉は黙って料理の支払いを済ませて来たりもした。さすがに仲道や川崎が目を光らせている店舗では、一客人として素通りする訳には行かなかった。
店舗の見回り順は、清吉が殆んど面識のない浅草、日本橋、品川から始めた。開店して数年の店は店内も新しく職員の士気も上がっていたが、全体の動きが何かスムーズさに欠けていた。
特に客が押しかける夜の8時から10時までの時間帯が、魔の時間で、テーブルに着いた客に何時までも茶が出ていなかったり、注文ミスが続いたりと外回りの女子店員の動きが良くない。それ以上に連携プレーそのものが出来ていない。さらに店内はいつも客で溢れていたので、職員全体に少し驕り高ぶった気風も感じられた。客なんて頼まれなくてもやって来るもんだと云う、鼻に付くような習性である。この様な習性が組織末端に広がると何れの日にか巨大な組織と雖もの腐敗の兆しが現れる。
多分10年以上も社長の席に居続けていたら見えない事が、出直し社長の清吉には見えて来る事が多い。
次回に続く