中沢家の人々(126)

「里美は幾らで買ったんだっけ?」
「沼ちゃんと同じ420円だったでしょう」と、少し沼沢を責める様な言い方をした。自分が大損をしているので先生などとは言わずに、慣れ親しんだ「沼ちゃん」と云う言い方に戻っていた。
「そうか、420円だったか、俺は3600円で売り逃げたので大儲けをしたが、里美はタイミングを逃してしまったな…」
「そうなのよ、まさか特許出願のデータが偽造だなんて考えもしないでしょう?」
「そりゃ、そうだな。まあ俺は運がよかったんだ。それで里美はそのバイオの株は未だ持っているのか?」
「だって仕方がないじゃない、連日のストップ安では全く売れないわよ、一体どうしたら良いのかしら!」
「まあ、そうだろうな。分かった、俺にも責任の一端はあるからな一株500円で引き取ってやろうか?」
と、沼沢は申し出た。里美は驚いて、
「本当に!…今は50円でも売れないわよ、それでも良いの?」
「まあ、教え子の不始末は教師の責任でもあるしな」
と、沼沢は大様に構えた。里美は沼沢の近くに擦り寄り、
「沼ちゃん、大好き!」
と、熱いキスをして来た。
その5日後に沼沢は里美の許に現金で500万円を届けた。里美は感激して、
「沼ちゃん先生、今夜の飲み代は私に払わせて。そのぐらいの事をしないと私の気がすまないわ」
と、甘い声で囁いた。沼沢への呼び方も統一が取れず、それ自体が里美の心の乱れを露わしていた。里美が自分だけで買った電気株は何とか500円で売却した。1600円で2千株の買いだったので220万円の損を出してしまった。初勝利の800万円のお金は650万円ぐらいにまで落ち込んでしまった。それさえも沼沢からの500万円の援助があっての上である。改めて里美は売買タイミングの難しさと、腹八分の教訓を身にしみて感じた。
こうして二人の株取引の実戦と演習が2年程続き、里美も彼女なりの相場感覚を身に付けて来た。この2年間で里美は5千万円程の資金を手にした。この中の4千万円は沼沢のアドバイスによるものであった。株取引で確実な利益を上げている内に「葵」での仕事に身が入らなくなって来た。不特定多数の中年男性に愛想を振りまき続ける事に少しばかり疲労を覚え出していた。その分だけ沼沢との関係は深まるばかりだった。もちろん男女の一線は一年以上前に早や越えていた。
一泊や二泊ぐらいの旅行は頻回になって来た。そんな旅行もあったりして「葵」での欠勤が増えて行くばかりだ。そして沼沢の「葵」への通いも減る一方であった。里美が「葵」でもらう給料は株取引で稼ぐ月間利益の1/5以下となっていた。この一年間の平均だけを見るならばであるが…
それやこれやで沼沢と里美は「葵」とは徐々に遠ざかり、二人は何時しか同棲に近い生活へと入り込んだ。里美が自分名義で買い求めた3LDKのマンションに沼沢が週に一二度の割合で泊まり出していた。この7千万円のマンションを買うに当たっては、沼沢が5千万円を預金担保にして、里美自身のお金から2千万円を頭金として出させ後は彼女自身にローンを組ませた。沼沢が考え抜いた税務対策である。沼沢には女房子供もいたが、彼と里美はただの愛人関係ではなく、株取引を通した或る意味での師弟関係とも言えた。里美も30才となってからは、現実の経済活動にのみ深い関心を抱き、沼沢以外の人間関係には大して重きを払わなかった。
次回に続く

中沢家の人々(125)

里美は少し考えて、
「今回の取引で800万円近いお金が入ったけれど、これは沼ちゃんが、あっ!いけない。沼沢先生が稼いだ様なものだから800万円の半分だけは先生の仰る銘柄を買ってみて、後の半分はこれまでに受けたご指導で自分なりに考えて買ってみます」
と、健気な答え方をした。沼沢は大いに満足そうな顔で、
「うん、非常に的確な答えだ。里美自身の力を養う上でも理想的なやり方じゃあないかな。後、やっぱり先生って言い方は止めて欲しい。何か俺自身が落ち着かないよ。せめて滋(しげる)さんぐらいなら沼ちゃんと言われるよりは少し親密感が増す様な気がしないでもないが…」
「そうなの、それならこれからは滋さんって呼ぶわ…ちょっとした恋人気分ね」
「そう言われると俺も若返って、里美の為に一肌も二肌も脱ごうって気持ちが強くなるよ」
そんな話の中で里美の初勝利の夜は更けた。里美が2750円で売り抜けた株価は、その一週間後には3500円まで値上がりした。それから3日後に沼沢は4200円で売り逃げをした。
結局、沼沢はこの一勝負で実に2億円近い利益を手にした。さすがに彼もこの手応えにはかなり興奮した。その後の株価は一度3000円まで値崩れを起こし最終局面では6080円まで値を伸ばした。仕手株の狂った様な暴走の仕方であった。その株価の強烈な上昇を見て、さすがに里美も売り急いでしまった自分を少し恨んだが何事も腹八分と言われ気持ちを取り直した。それから5日後に里美と沼沢は別々にバイオ株A社の株を420円で里美が8000株、沼沢が10万株を買い込んだ。それ以外に里美は電気株を1600円で2千株を仕込んでみた。沼沢にも相談しないで初めて買った株である。それから一ヶ月間と云うもの二つの株価は全く動きを見せなかった。しかしバイオ株A社はそれから特許出願が相次ぎ420円の株価は一気に2500円まで、その後も3600円まで値を伸ばした。沼沢はここで売却し、里美にも売却を勧めた。しかし里美は以前の事があったので後10日は待ちたいと言い出した。その数日後にはバイオ株A社の特許出願は全て受理されなかった。出願データに虚偽が発覚したのだ。当然の如くA社の株価は連日の様にストップ安を付け里美は処分に困り果てた。420円の株価は80円にまで下がり、それでも未だ値が付かなかった。里美は震える様な日々を過ごしていた。
沼沢は、このバイオ株で3億円以上の利益を確保したが里美は散々な目にあって300万円近いお金を失った。また里美が買った電気株も扮飾決算が税務当局から指摘され、これも又連日の様にストップ安を付け出し里美の心中は穏やかものではなく、眠れぬ日が幾日も続いた。
数日して沼沢は「葵」にまた来た。自信に満ちた彼の顔を見ていると、里美は少し憎らしさを覚えた。今や里美が初勝利で獲得した株での利益は、殆んど無くなりかけていた。沼沢はそんな彼女を慰める様に、
「今回は惜しかったな!…あのバイオの株はどうしている?」
と、聞いて来た。
「うん、あの時に沼ちゃんの言う様に売却しておけば良かったのに私が馬鹿だったのね。大先生の言葉を無視したばかりに大損よ!」
「里美は何千株を買ったんだ?」
彼女は項垂れる様にして、
「8千株なの」
と、かぼそく答えた。
次回に続く

中沢家の人々(124)

その週の金曜日に沼沢がまた「葵」にやって来た。2500円まで値を下げた株価は3200円にまで、また上がって来た。沼沢は上機嫌で、
「里美どうだ、俺の言った通りだろう。4000円ぐらいが売り頃かもしれない」
と、ウィスキーを片手に沼沢は得意げに語った。里美は少し気恥ずかしそうに小さな紙袋を沼沢にそっと手渡した。沼沢は中身を改めて、1万円札の束を見た。
「これは何だ!」
と、驚いて里美に聞き返した。
「うん、沼ちゃんにお借りしていたお金です」
と答えた。
「何だ、もう売ってしまったのか?まだ10日ぐらいは待っても良かったのに!」と、
沼沢は少し残念がった。
「そうよね、沼ちゃんの言う通りだと思うわ。でもある日、突然に下がってしまうかと考えたら毎日がドキドキして落ち着かないのよ。ご免なさい、勝手な事をして…」
「まあ、初心者だから丁度良いかもしれないな。むしろ勇気ある行動と言えるかもしれない。所で、どのぐらい儲けたのだ?」
「700万円少し欠けるぐらいかしら、でも株って当たると凄いのね。毎日が驚きの連続だったわ」
「まあ、何時もこんなに上手く儲かるってもんでもないが今回は多分にラッキーだったかもしれない。何にしても、お目出度う。これからの勝利を願って乾杯するか!」
里美はニッコリと素直に、
「はい、有難うございました。これからも宜しくお願い申し上げます、沼沢大先生」
「おい、大先生は嫌味っぽいだろう」
「あら、そうかしら。心から尊敬しているのよ。今までみたいに軽々しく沼ちゃんなんて呼べないわ!」
「いいよ、今までと同じ沼ちゃんで…」
「でも、私に色々と指導して下さるのですから先生である事には変わりはないでしょう?少なくても先生とは呼ばせて下さいな!」
「分かった、分かった、里美の好きな様に呼んで良いよ。それと今、里美から返されたこの100万円だが、これは里美の初勝利のご祝儀として上げるから俺に返す必要は無い」
と沼沢は、きっぱり言い切った。里美は心の底から驚いた顔をして、
「本当なの、どうして沼沢さんはそんなに優しいの!」
と言うなり、里美は沼沢に思い切り唇を合わせて行った。人もいるお店の中なので沼沢も少し面食らったが、彼の男自身は心地良く反応した。数名のホステスの目には留まったが誰も何も言わなかった。
何と言っても里美は「葵」ではトップホステスだし、沼沢は最上級の客なのだ。
それも唇を求めに行ったのは里美の方からであった。もし、沼沢の方からそう云う行為に出たのであればボーイの誰かが軽い注意は促したかもしれないが…
その日、沼沢は美酒に酔いしれているかの様だった。テーブルの下で二人の指は絡み合っていた。もう、そこは誰も近寄れない密室の空間を醸し出している様だった。沼沢は言いしれぬ征服感に浸りながら里美の膝に手をやりながら、
「今度はどうする。また保護者付きで株取引をするのか、それとも俺のアドバイスを元に、自分で株の売買をしてみるか?…里美はどうしたい!」
と、沼沢が聞いて来た。
次回に続く

中沢家の人々(123)

その株価が600円を付けた金曜日の夕方に、沼沢は意気揚々とした足取りで「葵」の店のドアを開けた。里美は待ち焦がれたかの様に沼沢のそばに擦り寄って行った。おしぼりを沼沢の手に渡し、
「沼ちゃん、凄いわ…本当にあっと言う間に500円を超えたわね。やっぱり沼ちゃんは株取引のトップ・プロなんだ!」
沼沢は嬉しそうにワイングラスを自分の口元に運んで、
「今夜は愛想が良いんだな!」
と言って、里美にも同じワインを勧めた。彼女も美味しそうにワインを飲んだ。そして最も気になる質問をした。
「ところで、沼ちゃんは幾らまで値上がりすると思っているの?」
「そうだな、2千円までは行くだろう。もしかすると3千円もあり得るかもしれない」と、
やゝ考える様にして答えた。里美は溜め息をついて、
「そんなに上がるの、何だか恐いみたい!
何時になったら売れば良いのか私には分からないわ…」
と、里美は甘える様に言って来た。沼沢は得意気に、
「今回は里美にとっては初陣だから、売り所も俺が責任を持って指示するから心配しなくて大丈夫だ。それよりは緊急時に連絡が付けられる里美の電話番号を教えてくれないか?…株価に急激な変化の兆しが現れたら「葵」が開店する時間じゃあ間に合わないだろう。大体電話をするとなると午後1時から2時の間になるだろうから…その時間までに連絡を付けないと、その日の株取引の時間帯に次の指示が出せなくなってしまう恐れがある!」
里美も頷いて、
「ポケベルの番号で良いかしら?」
と、沼沢に確認を取った。
「うん、それで十分だ。俺が里美のボケベルを鳴らしたら俺の会社の社長室に直接電話を繋いでくれ」
「はい、それでは私のポケベルの番号をメモして渡します」
と、里美は喜々とし答えた。そして直ぐにそのメモを彼女の名刺の裏側に書いて沼沢に手渡した。
それから1ヶ月もしない間に株価は1500円にまで釣り上がった。里美は毎日ドキドキしながら日経新聞の株式情報に目をやっていた。頭の中では盛んに胸算用もしていた。もし、明日にでも1600円で売り切れたら手数料を引いても400万円近いお金が自分の手許に残る事になる…今のホステスで稼ぐ給料の何ヶ月分になるやら驚く横な高額な利益になってしまう。それから毎日里美は落ち着かなくなって来た。その5日後には2千円にまで高騰して来た。里美は沼沢に会う度に、
「沼ちゃん、もうこのぐらいで十分じゃあない。私は満足だわ!」
里美は哀願する様に売らせて欲しいと言い出した。
「まあ、もう二週間は待ってみろ、この銘柄はお化け相場になりそうだ」
と言って、里美の売り希望を延期させた。その3日後には2500円を付けた。里美が買い入れた10倍である。3千株の購入だから750万円だ。沼沢に元手の100万円を返し手数料を引いても600万円は残る計算だ。その次の日の午後2時半に里美は沼沢に断る事もなく証券会社に電話を入れ2750円で売却してしまう。売却直後の終値は2600円と少し値を崩した。里美はその日の最高値で売り抜けたのだ。すごく嬉しかった。
全てを差し引いても690万円が里美の利益となった。殆んどは沼沢の指導の元でやったに過ぎないのだが、最後の売却だけは自分の意志でやったと云う満足感が残った。
次回に続く