霜月の夕暮れ(26)

吉子の心のバランスをここまで乱しているのは、何が原因なのだろうか?
どう考えても、あの小さな一粒の錠剤アリセプトにあるとしか思えない。あの都立病院の医師には、何か信頼が置けそうにない。まるで患者さんの顔を見ようとせず、コンピュータの画面ばかりを見ている。アリセプトも勝手に3mgから5mgに変更してしまった。何を診てあの医師は診断をしているだろうか。
もしかすると、ただコンピュータの指示に従って処方箋を出しているのではないだろうか?…どうにもならない疑問に突き当たる。
やはり別の専門医に診てもらう事にしよう。ネットで色々と認知症専門医のいる病院を探してみる。ネットで調べるだけだから実際は行ってみなければ分からないだろうが…医者も当たり外れがあるのかなぁと思ってみたりもした。田端に近いところでは大塚駅そばに一つ見つけた。都立病院に比べると半分以下の規模みたいだが大病院だけが安心だと思うのは一つの神話ではないか、そんな気がしてならない。要は個人としての良医との巡り会いである。しかし、これが思った以上に難しい。医療に関しては徹底な統制経済が敷かれ医師の自由裁量権が相当に制限されている。薬の使用量から服用日数まで規制が加わっているのだ。もちろん検査に関しても制限はある。
そんな中でも良心的な医師は多数存在する。どんなに厳しい規制があっても、患者本位の医療行為と云うものは必ず存在するのだ。しかし悲しい事に医療保険での効率的な収益性を限りなく追求するのは、どうしても大病院の方が多くなる。
小規模の医療機関に比べれば、設備投資も莫大だし、人件費も突出している。その中での逃げ道が室料差額である。大病院の特室だと1日に3万から20万円と一般庶民感覚では理解出来ない様な金額を設定している所も稀ではない。それで、どうにか病院経営が成り立たっているのだ。それでも医師個人の資質で良心的な医療を心がけている人たちも決して少なくはない。
伸枝が次に訪れた大塚駅そばの医師は、そんな一人だった。パソコン画面よりは正面から伸枝と吉子の話を聞いてくれた。アリセプトに関する伸枝の疑問にも丁寧に答えてくれた。
「アリセプトには厚労省の増量規制と云うルールがあるのです。先ずは2週間3mgそして5mgに増やすと云うルールなのです。前の都立病院の医師は、そのルールに従っただけです」
「そんな!…患者さんの個人的な病状は考慮されないのですか?」
医師も苦笑しながら、
「その通りです、私も変なルールだと思いますよ」
と、答えた。
「誰が、そんな患者無視のルールを作り出したのですか?」
「それは、この薬を作り厚労省に許可申請を受けたメーカーが考案した服用指示書によるものです。アルツハイマー型認知症であれば、この服用指示通りで良かったと思うのですが、レビー小体型認知症ですと、この増量規制が逆に悪い結果を及ぼしてしまうのです」
「えっ、じゃあ母はアルツハイマー型認知症ではないのですか?」
伸枝は驚いて聞き返した。
「都立病院の医師はアルツハイマー型認知症との診断をなさったのですか?」
逆に医師の方から尋ねた。
「いいえ、その様な診断ではなかったと思います。確かMCI(軽度認知障害)とか、長谷川スケールも23点だったとか記憶しています。何でも20点未満だと認知症と診断されてしまうとも聞きました。それでも私の方から近頃、認知症状が強く出て来たから何かお薬をもらえないかとお願いしたのです」
次回に続く

霜月の夕暮れ(25)

それ以来、吉子はちょっとした事で怒りやすくなって来た。伸枝には母親の心の変わり方がどうにも理解出来なかった。
しかし、それから10日もしない間に元の優しい吉子に戻って来た。何がどう変わったのか、伸枝は深い闇の中に一人ぽつんと取り残された感じであった。
ものの4~5日もしない間に、その謎は薄っすらと分かりかけて来た。12月20日の朝以来、伸枝は吉子にアリセプト5mgの服用をチェック出来なくなっていた。母子関係の気まずさが続く日々では薬の服用を心安く勧められなかったのである。その結果、吉子はアリセプト5mgをずっと服用していなかったのだ。ある日、何気なく吉子の薬袋を覗き見るとアリセプトの錠剤が手付かずのまま残っていたのである。
これは一体どの様に考えたら良いのか?
ともかく伸枝は薬を飲ませない事にした。母親は日々穏やかになって行く感じだった。12月30日に夫も帰って来た。そのまま田端の実家に来てくれた。正月には妹の家族も来た。
長閑かに元旦の日が暮れた。母は誰の目にも変わった様子は見られなかった。妹夫婦も夫も伸枝の話をまともには聞いてくれなかった。
「お前も自分の仕事の事で疲れているんじゃないか?」
と、夫は慰めとも労わりとも言えない話し方をした。
吉子は妹の子供3人にそれぞれ1万円ずつのお年玉を手渡した。
「おばあちゃん、有難う」
孫たちは嬉しそうだった。伸枝の夫も彼等にまた1万円ずつのお年玉を手渡した。大学受験直前の孫が
「ラッキー」
と、はしゃいだ。
「しっかり勉強するんだぞ」
と、伸枝の夫が言う。母も一緒になって
「そうだよ、一生懸命に勉強して俊治おじさんの様に世界中を駆け回るのよ」
と、孫たちを励ました。
誰がどう見ても吉子に認知症の影は認められなかった。孫たちは不満そうに、
「誰もが東大に入れるものじゃあないでしょう。おじさんは例外だよ」
と、一様に抗議をした。俊治は笑って、
「確かに、東大だけが大学ではない。結果はどうあれ、努力する事が一番だ」
と、鷹揚に答えた。
伸枝は今まで自分一人が悩み抜いていたのが、馬鹿みたいに感じられた。
こうして家族団欒の正月も終わり、妹夫婦は2日に埼玉の川口に、夫の俊治も6日には出張先に戻って行った。
伸枝は1月7日の月曜日から会社に出勤した。10日の木曜、何時もよりは早めの6時に実家へ戻った。風呂場からお湯が流れ放しで出ている。浴槽の栓がしていなかった。母は台所で夕食の準備をしている。仕方がないので黙って浴槽の栓をする。洗濯機も止まっている。乾燥機能がストップしているのだ。この12月に夫が新しい全自動洗濯機を母にプレゼントしていったものだ。数日前までは普通に機能していたのに、どうしたものかと乾燥機能のフィルターを覗くとゴミがたくさん溜まり目詰まりを起こしていた。それも仕方なく、一人黙ってフィルター掃除をする。夫から買い与えられて、しばらくは小まめにフィルター掃除をしていた母のはずだったのに…
お正月は一家団欒で、吉子の頭の回転も良かったのに、また11月下旬に戻ってしまったかの様な小さな躓きの連続が始まっている。もう少しで今の雑誌の企画「グルメ探し」も終わりそうなのだが…何とも焦れったい!
次回に続く

霜月の夕暮れ(24)

多くの患者さんも高度な医療機器を信頼する傾向が圧倒的に強い。だから日本では世界でも例がない程、CTやMRIが数多くの病院に置かれている。不必要に多すぎると言っても過言ではないだろう。
その分だけ、医師個人の診断能力が低下する傾向にあるかもしれない。自分で考えるより先ずは医療機器に頼り過ぎるからだ。
脳腫瘍とか膵臓癌などは高度の医療機器の上にこそ、より精度の高い診断を得る事が出来るし、それ以外にも医学の進歩に大きな貢献を果たしているのは紛れもない事実であるかもしれない。
しかし認知症や精神疾患の一部は丁寧な問診の積み重ねが、より重要な事もある。何でもかんでもが高度な医療機器で適切な診断が下せる訳ではない。その現状をもう少し見て行こう。
都立病院でアリセプト3mgの服用指示を受け、その2週間後に伸枝と吉子は再び同じ医師の診察に赴いた。
「どうですか、お母さんの体調は?」
と、医師はパソコンに目を向けながら聞いて来た。
「はい、お薬を頂いてから生活動作がスムーズになった感じがします」
伸枝は感じたままに、そう答えた。
「それは良かった。吐き気などの消化器症状は何かありましたか?」
医師はパソコンから目を離さずに再度尋ねて来た。
「いいえ、食欲もいたって順調です」
「アリセプトが上手に作用して来たのですかね、では3mgから5mgに増量してみましょう。1ヶ月後にまたお出で下さい。それでは、お大事に…」
1時間半も待たされて診察はいとも簡単に終了した。
「お大事に…」
と言った時だけ医師は一瞬、伸枝と吉子の顔を見た。
何故3mgから5mgに増量するのかの説明はなされなかった。伸枝が質問をする間も無く次の患者さんが入って来た。
伸枝は何か腑に落ちなかったが、吉子は早く済んで逆に喜んでいた。その後の会計だけでまた1時間近く待たされ、母子は病院脇の薬局で薬を受け取り自宅に戻った。
翌日から伸枝は毎朝、会社に出かける前に必ずアリセプト5mgを吉子に飲ませる様にした。1週間程は何事もなく過ごした。
しかし8日目の火曜日、仕事が遅くなり田端の実家に戻ったのは夜も9時を過ぎてしまった。昨日の月曜日までは伸枝が帰ると必ず、
「お帰り、お腹が空いただろう。もうご飯の準備は出来ているからね…」
と優しく言ってくれたのに、今夜は機嫌がすこぶる悪い。
「今、何時だと思っているんだ!…いつまで私に腹を空かして待たせるのさ!」
と言われ、伸枝は一瞬言葉を失った。
確かに電話の一本も入れずに遅く帰って来たのは悪かったが、そこまで怒る事もないだろうに…と考えたが、ともかく謝った。
「お母さん、ご免なさい。先に食べてくれれば良かったのに…」
と言った伸枝の態度に、吉子はさらに怒りを募らせた。
「何だ、その言い草は。寒いだろうから温かい物を食べさせようと思ったのに、こんな時間まで…まったく⁈」
と、けんもほろろな対応ぶりだ。
ともかく、その夜は何とか吉子の機嫌を取って二人で夕食の席に着いた。
翌朝も出かける直前に玄関脇で、
「今夜も遅くなるんだったら、そのまま自分のマンションに帰っておくれ!」
と、吉子から罵声に近い言葉を浴びせかけられ憂鬱な一日の始まりとなった。
次回に続く

ウィッシュさんへの回答

88才のお父さまが数日前から急に言動がおかしくなったとの、お話しですがどの様におかしくなって来たのでしょうか?…舌がもつれる様な言語機能が落ちて来たのか、暴言妄想の様なものが出て来たのか…具体的なご説明がないので回答に困ります。
舌がもつれる様な言語機能の低下ですと微小血管(脳)の障害が考えられますし、暴言妄想が出て来たのならアリセプトの副作用かピック現象なども考慮しなければならないでしょう。一口に認知症と言ってもピック病もあれば、アルツハイマー型認知症もあるし、レビー小体型認知症もありますし、それ以外の混合型もあったりして、その診断もかなり難しいのです。その病型によって治療法にも違いが出て来ます。ただ一言申し上げれば従来から言われていた様にアルツハイマー型認知症は以外にも少ないのです。
ウィッシュさんにお願いしたい事は、
ご質問の内容にもう少し具体性が欲しいのです。どの様な認知症の診断なのか、どんなお薬を飲んでいるのか等です。
早速質問させて頂きます。88歳の父ですが、母が他界してから3年以上一人暮らしで無事過ごしていました。それが数日前から急に言動がおかしくなり、習慣になっていた服薬さえ理解出来ない様子です。一ヶ月に3度ほどのペースで父の元に通っていましたが、今まで兆候らしきものを感じた事がありませんでした。これほど急に認知症に移行するものなのでしょうか?急過ぎる変化と出る症状の重さに戸惑っています。よろしくお願いします。