想い出は風の彼方に(39)

それ以来、私たちは急速に親しくなり出した。昼食も一緒に食べる事が多くなっていた。志望大学の事、家庭の事情、将来の夢、若い二人には話すべき事が幾らでもあった。彼女の実家は歯医者で、歯学部に行くのが目的で予備校に通っているらしい。私は精神科医になりたいと云う自分の志望動機を偉そに言うには恥じらいを感じていた。ただ何となく医学部を目指していると、お茶を濁した。
あどけない彼女の瞳の前で「フロイトの精神分析論」を語る気にはなれなかった。彼女と親しくなるにつれ私の成績は一気に上昇して行った。彼女への見栄も大きく影響していたのかもしれない。
5月末の模試では300人中28番まで上がって来た。校内掲示板に貼り出された成績表を見て、彼女は自分の事の様に感動の声を上げた。毎週100番までが掲示板に貼り出されるのだ。彼女は87番だった。
何時しか校内模試の後は二人で答え合わせをやる様になっていた。
どちらかと言えば私がリード役で彼女が教わる事が多かった。しかし、この役回りが私の学習意欲をより向上させた。典型的なプラトニック・ラブで、手を握り合う事もなかった。彼女の存在、共に過ごす空間それだけで私の心はいつも満ち溢れていた。
もちろん彼女に性的な魅力を感じていない訳ではなかった。何気なく触れてしまう手の感触にさえ私の心は喜びに震えていた。しかし、それ以上の行為を私が望んだとしたら私達の大切な関係に微妙なヒビが入ってしまうのではないいかとの恐れが頭から、こびりついて離れなかった。
「一般に若い男女の間で、その愛欲が最後の一線を越えてしまうと、そこからは性的関係が中心となって、日々その欲望に敗け互いの精神生活が希薄化してしまう傾向が強くなる」
と、私は何年か前に読んだ哲学書の一文を思い出していたりしていた。また一般に男の性欲は本能的な部分が大きく、女の性欲は情緒的な側面が強いとも言われている。
ともかく当時の私は彼女に心の恋人を求めるだけで、十分に満足していた。この様なプラットニックな関係が私達の学習意欲を向上させ模試の成績も確実に伸びて行った。6月中旬の校内模試で私は300人中17番に、彼女は61番にまで上がって来た。これで私のAクラス入りは決定的となった。
彼女はそのままBクラスに残留となる為、クラスは別々となってしまった。その為に幾らか寂しさは残ったが、そんな事より私のAクラス入りを彼女は心から喜んでくれた。
7月から私は晴れてAクラスの生徒となったが、昼休みなどは出来る限り彼女と一緒に過ごした。帰りも渋谷までは同じ電車で雑談をしたりする事が多かった。渋谷からは京王線に乗り換え吉祥寺の自宅へと彼女は戻ってしまうが寂しさは余り感じなかった。
それよりは一層学習意欲が上がって来た。自分だけではなく彼女も何とかAクラス入りを果たせたいと云う強い願望が心の奥底から湧き上がり、彼女のいない寂しさなどと云う浮ついた感傷に浸っている暇などなかったのである。
愛の本質は、お互いを高める所にあると当時の私は考えていたのだ。
次回に続く

想い出は風の彼方に(38)

4月下旬の時点では、まだ彼女と同じBクラスだった。しかし彼女が教室内に居る雰囲気はなかった。私の気持ちは落ち着かず、授業も分かりにくく勉強に身は入らなかった。仕方なく前回の校内模試の復習でも、一人ボソボソとやっていた。午後一時限の授業が終了して、トイレに立つ者もいたりして教室内は少しざわついて来た。私は急ぎ教室内を見回したが、やはり彼女の姿は何処にも探せなかった。私は少し気落ちしてその後の授業を聞く気にもなれず、一人実習室で数学の参考書に手を付けた。2時間程は実習室で過ごした 。半分ぐらいは居眠りをしていた様だ。何か一日を棒に振った感じで5時すぎには家に帰った。家に戻っても何か落ち着かず夕食後も自分の部屋に行かず、居間でぼやっとテレビを見ていた。
「どうしたんだい、元気がないね。彼女に傘は買って差し上げたのかい?」
「それが彼女、今日は予備校に来なかったみたいなんだ」
私の心を見透かしたかの様に母は
「それでお前は元気がないのかい」
と、私を冷やかす様な言い方をした。私は少しムッとなって、
「そんな事は関係ないよ。ただ勉強への気分が乗らないだけだ。まだ昨日の豪雨から体調が戻らないのかもしれない」
「ふ~ん、そんなもんかね。今朝はご飯を3杯も食べたくせに…まあ、勉強に気乗りがしない日があっても良いやね。たまには気を抜く事も必要だよ」
母は妙に同情的な言葉を言い残して、台所へと消えていった。
結局その夜は何も手が付かず、久しぶりに3時間以上もテレビを見て(この一年間はほとんどテレビなど見た事が無いのに)、そのまま寝てしまった。
次の日も快晴のやや暑さを感じる日だった。予備校には7時25分に着いた。最前列から二番目の場所に自分の席を確保した。その10分後に彼女が姿を現した。
私は急な心臓の高鳴りを意識しながら、後部座席の彼女に向き直り
「一昨日は有難うございました。しかし、凄い雨でしたね。これはお借りした傘です。ですがあの集中豪雨で、お借りした傘はボロボロに破れてしまったのです。それで母が新しい傘を買い求めて、お返しするのが礼儀だと言いますので、今日はお借りした傘と新しい傘の2本を持って来ましたので、お受け取り頂ければ嬉しいのですが…逆にお荷物となってしまったかも知れませんね」
と私は言いつつ、彼女に二本の傘を手渡した。
「まあ、そんなに気を使ってもらって申し訳ありません。貴方にお貸しした傘もかなり使い古した物ですのに、却って余計な負担をかけてしまいましたわね。でも、折角のお母さまのご好意ですから今回は有難く頂いておきます」
「良かった、これで僕の肩の荷がやっと下りました」
「まあ、随分と大袈裟な言い方ね」
そう言って、彼女はウフフと微かに笑った。その可愛いらしい笑顔、薄い紺のスカートと白いブラウス、彼女の全てが輝いて見えた。その瞬間から私は生まれて初めて異性と云うものを意識しはじめた。
次回に続く

想い出は風の彼方に(37)

翌日は爽やかな春の青空が戻って来た。しかし昨日の豪雨が祟ってか私は身体が気怠く、目覚まし時計も無意識に切ってそのまま昼近くまで寝込んでしまった。母がそんな私を気にして二階の寝室へ覗き込む様に入って来た。
「どうしたんだい、予備校には行かないのかい。昨日の雨で風邪でも引いたのかね?」
私は慌てて布団から起き上がり目覚まし時計を見た。11時近くになっている。
「大変だ、お母さん。ともかく何か食べさせて。午後からの授業には出るから…」
久しぶりに10時間以上も寝たので、体力はすっかり回復していた。私は掻き込む様に、ご飯を3杯も食べた。後は午後からの教材をバッグに詰め急ぐ様に自宅を出かけた。すると母が大声で私を呼び止めた。
「お前、このお借りした傘はどうするのよ。ちゃんと汚れを洗い流し乾かしておいたのに…このまま放っておいて良いのかい…」
母にそう言われ、私はやっと傘の事を思い出した。幾ら遅刻して慌てていたって、彼女から借りた傘を忘れていくのはどうかしていた。
「それでもね、傘の破損が凄いのよ。破れ箇所も目立つし、お前の所為ではないものの、そのまま黙って返すのも、どうしたもんかね?」
「じゃあどうするのよ…!」
「新しい傘を買って差し上げたら」
「新しい傘を…俺にそんな金はないぜ」
「そりゃそうだろうけど、まあここの所はお母さんが立て替えて上げるよ」
「そこまでする必要があるのかな?」
「困った時に受けたご恩は倍にして返すもんだよ。それが真心を知り抜いた人間のする事だ。昔の人間は皆んなそう云う義理と人情を大切に、どんなに貧しくても心を支え合って生きて来たもんだよ」
「ふ~ん、そんなものなのか」
「それが近頃は皆んな自分の小さな損得勘定ばかりしか考えないから…」
「分かった、分かった、お母さんの言う通りだよ。でも俺はこれから予備校に行かなきゃならないんだ。そんな事より彼女に返す傘のお金をくれないかな。昔の人は皆んな人情味があって偉かった…そんな所で今日の話は終わりにしてくれよ」
「全く、この子といったら親の話はろくに聞かないでお金だけ請求するのかい」
母はそんな風にブツクサ言いながらも1万円札を1枚、私の手に握らせくれた。私は驚いて、
「傘一本に1万円もするのかい?」
「本当に質の良い物を買い求めるなら、それ以上するもんだよ。でも20才前のお嬢さんなら、1万円もあれば十分でしょう」
そんなデリケートな事情を私には知る訳もない。ここは母の助言に従うしかない。ともかく母の好意に甘えて、その1万円札を私は素直に礼を言って受け取った。私は少し焦っていた。1時からの午後の授業に時間が迫っていた。
ともかく自宅から予備校までの途中にあるデパートの女子店員に尋ねて、何とか傘を一本買って急ぎ予備校に向かった。午後の授業の始まる直前にどうにか教室に入ったので、確保出来た座席は最後尾だった。黒板の字は読みにくいし、先生の声も聞きずらかった。
次回に続く

想い出は風の彼方に(36)

浩司に送られ綾子が自宅の玄関前に着い時は、すでに9時半だった。彼は何の挨拶もなく帰りかけたが、綾子が慌てて呼び止めた。
「今日は、本当にありがとう。素敵なお母さまね、また遊びに行っても良いでしょうか?」
「それは構わないが、英語の勉強もちゃんとしなければ駄目だよ」
「はい、分かっています」
と、笑顔で答えた。
「兄に合わなくても良いんですか?」
「吉村は疲れているだるうし、明日も朝は早いのだろう。今夜はこのまま帰るよ。宜しく言っといてくれ。じゃあ又一週間後にな…それまでには本を返してくれよ」
「分かりました、一週間後に必ず返します。それまでに英単語を100は覚えて置くんだよ」
「そんな話は今初めて聞きした。」
「そりゃ今僕が急に思いついた事だよ」
「そんな事を急き決めるなんて酷いじゃあないですか?高2の君なら普通に出来る勉強量だよ、その程度の宿題が熟せないなら僕は君にもう会う事もないよ。僕だって自分の三文作家の恥部を嫌嫌ながら曝け出すのだから、君にだってそのぐらいの努力はすべきだろう。何かを得る為には何かの努力をしなけばならならないのは当たり前の事だよ。ともかく来週、君に会え事が楽しみになつてきたよ。それじゃあ僕は帰るよ」
そう言いなり直ぐに浩司は帰って行った。それは一陣の風のように去り方だった。篠木が帰った後は、綾子は急いで二階の自分の寝室に上がっていった。少しでも早く強引に、借り出して来た浩司の小説を読みたかったのだ。急いでで、借りて来た茶封筒から数10枚の原稿用紙を丁寧に取りだす。
その小説は、こんな書き出しから始まっていた。「なおこ」この言い知れぬ感情のもつれ、若い男が若い女に心が惹かれ何もかもに手につかないと云う事は罪悪なのであろうか。「なおこ」この言葉を口にする時、僕は理性を失う。理性とは何であるのか?何故こんなにも心の乱れが生じるのであろあうか。
それは同じ予備校に通う春の雨の日だった。朝からどんよりした曇り空であったが雨にはなるまいと油断して傘を持たずに家を出た。昼間には一時青空も見えていた。しかし帰り際の3時過ぎ突然に大空は黒雲に覆われだした叩きつける様な大雨になって来た。スコールぐらいの軽い気持ちでいたので、一時間程を実習室で過ごすことにした。
しかし雨は強くなるばかりで、一向に弱まる気配はない。仕方なく最寄りの駅まで傘なしで強行突破する決意をした。その時、偶然にも声をかけて来たのが「なおこ」だった。
「私、折り畳み傘を余分に一本持っていますから、お貸ししましょうか?」
「いえ、このぐらいの雨なら大丈夫です」
と、一度は強がってみたが、そんな生易しい雨ではなかった。
「こんな強い雨ですと風邪を引きますよ」
そんな優しい彼女の言葉に甘えて私は素直に傘を借りる事にした。
それでも、そんな折り畳み傘ぐらいで豪雨を防げるものではなかった。駅の構内に入った時は全身がずぶ濡れになっていた。それでも彼女の好意はうれしかった。
次回に続く

想い出は風の彼方に(35)

「それでも綾子さんは読みたがっているのだろう。良いじゃあないか、読ませて上げたら」
「でも恥ずかしくて、とても女の人には見せられたもんじゃあないよ」
「まあ、そんな頑固な事を言わず本人があれ程頼むのだから、読ませて上げなよ!」
母の鈴子にまで説得され、さすがの浩司も自分の意志を曲げざるを得なくなって来た。
「二人で寄って集(たか)って僕を責めて、もう仕方がないな。綾ちゃんに小説を貸すよ。その代わり小学生みたいな文章でも笑わないって誓えるかい、綾ちゃん」
「そんな…篠木さんが一生懸命に書いた小説を笑うなんて、そんな事は絶対に有り得ないわ」
「分かった、それは信じよう。もう一つの条件は君以外には誰にも見せない事。兄の吉村にもだよ。本当は君にだって見せたくないくらいなんだから…この事を約束してくれるなら一週間だけ、あの小説を貸しても良いよ」
綾子は目を輝かせて、
「今の篠木さんとの約束は必ず守ります。でも、嬉しいな…おばさまの応援もあって、やっと私の願いが叶ったんだもん。今日はラッキーな日だわ」
浩司は少し嫌味気に、
「一体、君は何しに来たの。英語の勉強をしに来たんじゃあなかったの?」
綾子は照れくさそうに笑いながら
「ヘッヘェ、ちゃんと英語の勉強もしますから、今日の所は大目にみて…お願い!」
「全く、君には勝てないな。それにしても時間も時間だから、もう送って行くよ。家の人も心配しているだろう」
鈴子も横から付け加えた。
「あら、8時半も過ぎているじゃあないの…大変お家に電話をしとかなければ。浩司、あなたからお詫びの電話をしなさい」
「何でも僕の責任になるのか…」
そう不満気に呟きながら、吉村の家に電話をかけた。電話には吉村の母が出た。彼はどう説明して良いのか分からず、受話器を直ぐ綾子に手渡した。
「あっ、お母さん。ご免なさい。今日は篠木さん所で英語の勉強教えてもらっていたの。夕食までご馳走になってしまったわ。今、篠木さんのお母さんが電話に出たいって言うから代わるね」
「どうも、篠木の母です。遅くまでお嬢さまをお引き留めして申し訳ありません。ただ今から息子に送らせますので、どうかお許し下さい」
「いえ、お詫びするのは私どもの方で綾子が図々しくも夕食までご馳走に与り恐縮しております」
「何も大層な事は出来ませんが、余りに可愛いお嬢さまで、私までもが年甲斐もなく話し込んでしまいました。もし、宜しければこれからもお嬢さまには何時でも遊びに来て下さい。何しろ我が家は息子が一人しかおりませんので、若いお嬢さまが遊びに来て下さると家が一気に華やぎますわ」
「ご存知の様に宅は
ちいさな酒屋ですから、娘の躾けも行き届かず恥ずかしいばかりです」
余りの長電話に痺れを切らした浩司がメモ用紙に、
「もう電話は好い加減にしたら、これじやあ何時まで経っても彼女を送って行けなじゃあないか?」
と、書き送った。
次回に続く

想い出は風の彼方に(34)

夕食は思いの外に豪勢だった。和牛の焼肉が1kg以上はあった。刺身の盛り合わせは活き造りの新鮮さであった。それ以外に種々の野菜も豊富に添えられてあった。綾子は目を丸くして、
「何時も、こんな凄いご馳走なんですか。家では誰かの誕生日だって、こんなご馳走なんか目にした事がないわ」
と、溜め息混じりに感動の声を上げた。浩司の母は楽し気に、
「今日は特別!…浩司が初めて女友達を我が家に連れて来た日なんだもの」
「それにしても、お母さん。これは余りに豪華過ぎるんじゃあない。親父が見たら何事が起きたのかと思うぜ…!」
母親は少し浩司を睨んで、
「男の子はそんな台所の細かい詮索はしないものよ。二人とも育ち盛りなんだから気持ち良く食べて…」
綾子はダイエットなんか口に出来る雰囲気ではなかった。ともかく若者らしい貪欲さで、恥じらいを装いながらも食べに食べた。アルコールこそ出なかったものの、食後のデザートも豊富であった。
「こんなに食べたら、体重計に乗るのが恐いな!」
綾子は、そんな言葉を一人胸の内で囁いていた。そんな綾子の心配を無視するかの様に浩司の食欲は極めて旺盛だった。
お腹も一杯になって来た所で、綾子は先程の「なおこ」の原稿が思い出されて来た。浩司が拒否的であればある程、あの原稿を読んでみたいと云う願いが強くなるばかりだった。
「ねえ、篠木さん。やっぱりあの原稿は見せてもらえない…お願い!」
綾子は拝む様に頼みこんだ。浩司はやや不機嫌な顔で、
「まだ、そんな事を言っているのか。恥ずかしいから嫌だって何度も話しているだろうが」
浩司の言い方も少しぞんざいになって来た。綾子はそれでも諦め切れずに、
「それでも何人かのお友達には見せたのでしょう?」
「それなら綾子に見せてくれても良いんじゃあない」
「それとこれと話は別だろう」
浩司の話し方も幾らか刺々しくなって来た。
「一体、何を言い争っているの?」
横から鈴子が疑問の質問をした。
「別にお母さんが心配する様な事は何もないよ」
綾子を少し睨みつけるかのような表情で、浩司はさりげなく母には言葉を返した。
「そう、それなら良いんだけど…綾子さんって、仰いましたっけ。彼女、少し寂しそうじゃあない。若いお嬢さんに冷たくあしらっては駄目よ。お前だって、私がお父さんにどれだけ苦労させられたかは十分過ぎるほど知っているだろう」
「お母さん、そんな大袈裟な話じゃあないんだ。それじゃあ、まるで僕が親父みたいに聞こえるじゃあないか」
「おばさま、浩司さんが仰る様に大した話ではないんです。ただ浩司さんがお書きになった小説を、どうしても読ませて欲しいと私が駄々をこねているに過ぎないのです」
「まあ、お前は小説なんか書いているの、それはお母さんも初耳だわ。どんな小説を書いているんだい?」
「何もお母さんに読ませる様な小説じゃあないよ。下らない恋愛小説で、子供の作文みたいなもんさ」
次回に続く

想い出は風の彼方に(33)

綾子は、そんな浩司の独舌とも自戒とも言えぬ話を黙って聞いていた。慰める言葉もなく乱雑に散らかった本の後始末を黙々とするのみだった。何から手を付けたら良いのか分からない本の束の中から、やや大きめの茶封筒に入った数100枚に及ぶ原稿用紙が目に入った。茶封筒の表紙には「なおこ」と書かれてあった。
「なおこ」って、何だろうか。普通に考えて女性の名前だろう。浩司と、どんな関係のある女性なのか?
綾子は好奇心で胸が一杯になって来た。だからと言って、勝手に中身を覗く訳にも行かない。浩司も何時しか綾子の茶封筒に向ける視線に気づき始めた。
「その茶封筒が気になるのかい。僕が半年程前に書いた、愚にも付かない恋愛小説だよ」
「浩司さんて、小説も書くのですか。凄いですね」
「凄くも何ともないよ。小学生の文章に毛の生えた様なものだ。恥ずかしくて他人には、とても見せられたもんじゃない」
「浩司さんの恋愛体験ですか?」
綾子の瞳がキラリと輝いて、尋ねて来た。
「まあ、実体験が1~2割で後はフィックションだよ」
「うわぁ、読んでみたいな。浩司さんが書いた小説なんて非常に興味をそそるわ」
「そんな大した小説ではないよ。大体が綾ちゃんに読ませるなんて僕は恥ずかしくて嫌だよ」
「そんな意地悪を言わないで、お願いだから…ね!」
幾らか甘える様な口調で綾子は彼に迫った。浩司は少しムッとした感じで、
「今日ここへ来た目的は英語の勉強をする事がが目的で、僕の愚にも付かない小説を読むのが目的ではないだろう」
そう言われて綾子は一歩引いたが、それでも更に食いさがった。
「そんな恐い顔をしないで、私は日頃から尊敬する浩司さんが一体どんな小説を書いているのか興味を抱いただけよ。英語の勉強もちゃんとするから、その小説も読ませて…ねえ、お願い!」
「また、そんなお世辞を言って僕を丸め込もうとしても駄目だ。大体が自分で読み返しても、余りに稚拙な文章展開で、とても君に読んでもらえる様な内容ではないよ。クラスの同人誌仲間からも、散々に酷評されているんだから」
「まあ、浩司さんってワンダーフォーゲル部だけではなく、そんな同人誌もやっていたの。益々見直したわ。それじゃあ他にも幾つかの小説も書いているの?」
「確かに、何冊かの小説らしき物は書いているが、どれもこれも似たり寄ったりで下手くそなものばかりで、日記の延長みたいなものばかりだ。これから真面目に文章講座の通信教育を受けてみるつもりだから、来年ぐらいになったら綾子ちゃんにも読んでもらえる小説が書ける様になるかもしれないよ」
綾子はそれでも未だ自分の意志を貫き通そうとしていた。
「私は何も大文豪の小説を読みたいと思っている訳ではないの。浩司さんの現在の心の内面の一端を知りたいと思っているだけなの」
1階の台所から母の声が聞こえて来た。
「夕食の支度が出来たわよ。二人とも早く下りていらっしゃい」
次回に続く

想い出は風の彼方に(32)

「それにしても、お部屋の中はちょっと収拾がつかない状態ですね。私が少しお手伝いしましょうか」
「そうだな、細かい整理は自分でゆっくりやるにしても、少し手伝ってもらってもらおうかな。僕自身のドジで起した不始末で申し訳ないんだけど」
「いえ、私の参考書を探す為に起きてしまったトラブルですから私にだって責任の一端はあります」
「そう言ってもらうと助かるよ」
「それにしても、改めてこの本の量は凄いですよね。一体何時こんなに本を読む時間があったんですか?」
「そうだな、中2から高2までの大学受験にかかるまでの時かな。部活もやっていなかったし、テレビも見なかったし、本を読む以外に時間をつぶす方法も知らなかったんだ。それに親父とお袋との夫婦喧嘩も絶えなかったし、僕自身も本以外に逃げ場を失っていたんだ。昔ソクラテスが言ったといわれる、こんな格言があるんだ。
『良妻を得れば幸福になる。 悪妻を得ればあなたは哲学者になれる』というものだが、15~17才ぐらいまでの我が家の家庭環境はとても悪かった。30代後半から40代前半まで間に戦後のドサクサで生活の基盤をしっかりと作り上げた親父は、後は道楽三昧で人生の後半を過ごしてしまっていた。
僕は物心が付いてから父親の働く姿を見た記憶が殆んどないのだ。 酒乱でギャンブル狂、女狂い。家に帰る日もあれば、女遊びで何日も帰らない時だってあったのだ。母は女としての体裁から表面的には、毅然としていたが、実際には自殺未遂を3度もしていたのだ。
20歳を過ぎてからの僕は、心の底から父親を憎しみ抜いていた。殺意を抱いていたといっても過言ではないんだよ。そんな僕が哲学書や純文学にのめり込んでいったのも当然だろう。
現実の家庭生活を直視していたら、僕の頭の中は確実におかしくなっていただろう。言い訳にしか聞こえないかもしれないが、哲学的あるいは文学的な妄想の中に自分を置く事で僕は何とか心のバランスを保っていたのだ。
戦後満州帰りの父親は軍隊教育の弊害が全く改善されず、自分に都合の悪い事があると必ず母と私に暴力行為で自分の不都合さを隠蔽した。母はそれなりに戦ったが、僕は押入れの中で震えているしかなかった。出刃庖丁を持ち出す事も稀ではなかった。まだ10代の僕は、そんな父親に反抗する勇気は無く、ただ押入れの中で震えているしかなかった。父親の一時的な怒りで、家中の家具の多くが庭で叩き壊されるのを目にしたのも一度や二度ではなかった。
真面目に働く事が大嫌いな父親は、常に一攫千金を夢見ていた。その分、確かに商才には長けていた。株相場、競馬、小豆相場、その他これと思った儲け話には必ず手を出した。その結果、勝つ事も負ける事も多かった。時代は土地バブルの最盛期で、土地だけ次から次へと購入しておけば資産は勝手に膨大していた。その事と自分の資産能力を完全に父親は誤解していた。そんな父親を見て、あんな男だけには絶対ならないと子供心に固く誓ったものだ。そんな青春期を経た僕は人間の心の実態にあるものは一体何なのかと考えざるを得なかった。そして精神医学に憧れたのだ」
次回に続く