想い出は風の彼方に(90)

沢近医師は、優しさの中にも冷静さを失わずに浩司を受け止めた。
「篠木、落ち着け。それで奥さんの性器出血の方は止まっているのか?」
「まだ、ここの院長先生に今朝はお会いしていないので性器出血の事は分かりません。しかしDICが合併されているとなると、性器出血は続いていると考えた方が良いのでは…」
「まあ、そうだろうな。院長先生が来たら大学での受け入れは大丈夫だからと伝えてくれ。ベッドの方は俺が責任を持って確保しとくから」
「有難うございます。間もなく9時になりますから、院長先生もお見えになると思います。また、直ぐお電話をしても良いでしょうか?」
「あゝ、こっちへ転院の準備が整ったら電話をしてくれたまえ…」
「分かりました、そういたします」
9時少し前に院長が寝不足の目で出勤して来た。先ずは綾子の病室に来て内診を行い、首を傾げた。病室前で不安気に佇(たたず)んでいる浩司に…
「未だ性器出血は続いているみたいだ。やはり大学に転送した方が良いだろう」
と、済まなそうに言った。
「分かりました。血液内科の沢近先生には連絡を付けて置きましたので、院長先生の紹介状が頂ければ、直ぐにでも私が付き添って大学に移します」
「申し訳ないけど、そうして頂けますか。では直ぐに紹介状を書きます」
そう苦し気に院長は言って、急ぎ紹介状を書いて浩司に渡してくれた。院長自らが119番に電話を入れ、浩司は綾子に付き添い救急車に乗り込んだ。
大学に転院すると聞かされ、綾子は一瞬怯(ひる)んだ。浩司は彼女の手を握りながら励ました。
「心配ないよ。産後の経過が良くないので大学で診てもらう事にしただけだから…」
「私、このまま死ぬなんて事はないわよね」
「馬鹿だな、そんな心配は全くないよ。ただ念には念を入れているだけの事だから…ともかく俺に任しとけ。綾子の事を誰よりも考えているのは、この俺なんだから…」
「浩ちゃん、ご免ね…大好きよ」
そう言いつつ、彼女は縋(すが)るよう
に浩司の手を握りしめた。
救急車が大学に着いたのは午前10時、綾子はそのままICU(集中治療室)への入院となった。沢近医師が次から次へと指示を出して行った。
検査データは、紛れもなくDICであった。フィブリノゲン低下、血小板減少、FDP上昇、プロトロビン時間の延長などの全てがDICである事を物語っていた。これらの検査は緊急ラインで実施した為に、午前中には綾子の診断が確定した。
沢近はそのデータを受けて、直ぐにDICの治療にかかった。彼の迅速な対応と適切な治療により、綾子の性器出血は4日目には止まった。血小板数は10日間で3千から20万と大幅に改善して行った。僅か2週間でDICは確実に克服され、綾子は退院となった。
全身の点状出血もほぼ消えたが、彼女の心の傷は深かった。自分が普通の女としての機能を果たせなかった事への切なさは、何時迄も彼女の脳裏に残った。これからも浩司の子供を、まともに産めないのでは…そんな不安が胸の中で日々大きくなって行く感じがした。
次回に続く

想い出は風の彼方に(89)

綾子の母親は、思った以上に冷静だった。電話をしたばかりの時は、少し涙ぐんでいるようだったが直ぐに落ち着きを取り戻し、
「綾子さえ無事なら良いわよ。あなた達は未だ若いんだから、子供はこれからでも作れるわよ」
と、逆に慰められた。その綾子の身も未だ安心は出来ないとまでは、さすがに浩司の口から言えなかった。電話を一度切って、院長に綾子との面会を求めた。彼女は既に病室に移っていた。そこは看護勤務室の隣で、十分な管理体制の下に置かれていた。少しだけならとの許しを得て綾子のそばに寄り添い、優しく手を握った。綾子は目を覚まして、
「ご免ね、赤ちゃんの事…」
そう言いながら、頬を濡らした。
「綾子さえ元気なら、良いんだよ。お母さんもそう言っていたから」
「あら、母の所にも電話をしてくれたの?」
「そりゃ当然だろう!」
「そう、どうも有難う。皆んなをガッカリさせちゃったわね」
「そんな事は気にするなよ。それより綾子が元気になる事が先だよ」
「浩ちゃん、浩ちゃん。今でも私の事を愛している?」
「馬鹿だな、何を言ってるんだ。愛しているに決まっているだろう」
「赤ちゃんが出来なくても良いの?…これから先もよ…」
「何を弱音を吐いているんだ。赤ん坊は欲しいけど、それと綾子への愛とは別だ…」
「本当に!」
綾子は声を震わせて、泣き出した。
浩司は綾子の頬にそっと唇を押し当て、彼女の肩を抱いた。
「何も心配しないで、今はゆっくりお休み。ずっとそばにいるから…」
綾子は気持ちが落ち着いたのか、浩司の手を握りながら瞳を閉じた。
しばらくして、軽い寝息が聞こえて来た。浩司は静かに病室を出た。時計の針は午前0時を回っていた。
浩司の身体も鉛の様に重かった。取り敢えずは、自分のマンションに戻った。綾子の実家では疲労が取れそうにない。ともかく一人静かに眠りたかった。シャワーだけ浴びて2時にはベッドに潜り込んだ。直ぐ睡魔が襲って来た。7時には目が覚める。不快な寝汗でパジャマがかなり湿っていた。夢の中で魘(うな)されていたのか、理由は分からない。熟睡感はまるで無いが、何とか起き出す。洗顔だけして30分後にはマンションを飛び出す。途中のコンビニで、オニギリとお茶を買って車の中で食べる。食欲は湧かなかったが、ともかく口にした。そして勤務中の病院に電話を入れ、数日間の休暇願いを申し出る。8時半には綾子の病室に辿(たど)り着いた。看護勤務室に声をかけ、綾子のそばに近寄る。朝食には全く手が付けられていない。手をそっと握ると、綾子が目を覚ました。
「お腹は空かないのか?」
浩司が心配そうに尋ねると、彼女は黙って首を横に振った。その表情に痛々しさが込み上げて来る。優しく綾子の胸から腹を見回す。夫ではなく医師の目で…不吉な予感が当たった。点状出血が随所に認められた。
浩司は急ぎ大学に電話をして、沢近医師を呼び出す。幸いにも彼は出勤していた。詳しい事情を説明して入院要請を泣き出しそうな声で懇願した。
次回に続く

想い出は風の彼方に(88)

こんな小さなクリニックで、本当に大丈夫なのか?…浩司は限りない不安を覚えた。出来るなら母校の大学病院に連れて行きたかった。
しかし、輸血までしなければならない状態で大学まで搬送するなんて事が可能だろうか?…浩司は胸の中で一人煩悶していた。やがてクリニックの院長と副院長が同時に駆けつけて来た。院長は母校の先輩で講師まで勤めていた。3年前に父親の後を継ぎ、今の産科を経営している。浩司も学生時代には、病棟実習で指導を受けた事があった。かなり優秀な医師であったとの印象が強い。父親の急逝がなければ、そのまま大学で辣腕(らつわん)を振るっていただろう。
そんな事を思い出しながら、やはりこのクリニックで様子を見るしかないと浩司は考え直した。院長は浩司の顔をチラッと見て、
「ともかく精一杯の努力はするから、篠木くん私に任せて欲しい」
そう言って分娩室に入って行った。
後は神に祈る思いで、院長の腕を信頼するしかないと、浩司は心で決めた。
一時間たっても分娩室の扉(とびら)は開かない。綾子とのこれまでの甘い生活が走馬灯の様に頭の中を駆け巡る。彼女と本格的な交際が始まって8年目、結婚して3年目でしかない。それなのに、早くもこんな重大な危機に立たされるなんて…もし、ここで綾子を喪(うしな)うなんて事になってしまったら、自分の明日はどうなるのか?
それから待つ事、さらに1時間。分娩室の扉が開いた。院長が疲れの色を全身に漂わせ出て来た。
「篠木くん、済まない」
そう言って、深々と頭を下げた。
「えっ…!どう云う意味ですか?」
浩司は飛び上がらんばかりに驚いて尋ねた。
「赤ちゃんは、駄目だったんだ」
そう言って院長は苦し気に話した。
「綾子は、綾子はどうなんですか?」
浩司は我を忘れて院長に駆け寄った。
「奥さんは、何とか一命を取り留めたが…」
「綾子は大丈夫なんですね?」
「未だ安心は出来ない。ともかく全身の衰弱が著しいので、予断は許さない」
「お願いです、せめて綾子の命だけは救って下さい…!」
「分かっている、分かっているよ、篠木くん。ともかく少し落ち着いたら大学に搬送するから…今は子宮収縮剤を使って、胎盤剥離後の出血を抑えている所だ。この後はDIC(播種性血管内凝固症候群)を併発する危険性もあるから、そうなったら大学で診てもらうしかない」
「DICですか?」
そう尋ねて、浩司は溜め息をついた。そうなると、産科ではなく血液内科が専門となる。血液内科の沢近医師の顔が思わず頭に浮かび上がって来た。沢近医師なら、この難局を何とか乗り切ってくれるだろう。
それにしても、こんな重大な時期に大学ではなく市中病院で勤務を余儀なくされている我が身が切なかった。
取り敢えず、綾子の母親に電話をかけなければならない。何と説明したら良いのか、途方に暮れるばかりだ。でも、連絡をしない訳にはいかない。
「もし、もし、お母さん。浩司ですが…」
彼は言葉を選びながら慰める様に、ゆっくりと難しい医学用語は避けて事の顛末(てんまつ)を説明した。
次回に続く

想い出は風の彼方に(87)

綾子は妊娠38週目には実家に帰った。それに伴い浩司も綾子の実家で寝泊まりする事が多くなっていた。二人のマンションから綾子の実家までは、車で30分くらいだ。医師国家試験が終わった直後に、浩司は車の免許を取り、医師になってからはマイカー通勤をしていた。浩司の帰る時間は不規則だった。重症の入院があると、帰りが12時を過ぎる事も稀ではなかった。そう云った状況では出産間近の綾子を彼女の実家で預かってもらうのが安心だった。綾子の兄と母親も、浩司の医者としての忙しさは十分に理解していた。ともかく母親は初孫の出産に、期待を大きくしていた。男の子であるのか、女の子であるのか、いや何よりも五体満足で生まれくれば良い。そんな楽しい悩みを、あれこれ浩司に語っていた。
出産予定日の5日前、綾子は強烈な下腹部の痛みを訴えた。浩司は夕方8時には戻り、彼女の実家で夕食を終えたところだった。痛みはどんどん厳しくなって来る様だ。少し早いが陣痛であるだろうと考え、浩司は自分の車で綾子が定期検診を受けている産婦人科に連れて行った。
自分の車の助手席に綾子を寝かせ、ゆっくりと速度を落とし産婦人科クリニックに着いたのは9時近くになっていた。綾子の痛みは激しくなるばかりで、産婦人科の玄関先からはストレッチャーに乗せ分娩室に向かった。未だ若いバイトと思える医師が出て来た。自分よりは2、3才上ぐらいかなと、浩司は思った。普通の分娩だったら構わないが、異常分娩だったら、この若い医師で大丈夫なのかと浩司の脳裏には、微かな不安が走った。綾子の下腹部を手早く診察した若い医師は、顔を蒼白にして慌てながら叫んで、
「院長を直ぐに呼んでくれ、僕一人ではとても無理だ」
と、脇にいる看護婦を叱った。
綾子の下腹部からは多量の出血が見られた。浩司は自分が医師である事を告げ
「一体、妻の身に何があったんですか?」
と、当直医に迫った。彼は浩司の質問に答える代わりに看護婦に向かって輸血の準備を指示した。そして浩司に向き直り、
「奥さんの病状は、胎盤の早期剥離だと思います。ともかく母子共に大変危険な状況です。輸血の準備をしながら、帝王切開に持って行きますが、ご了解頂けますね…」
産科医の予期せぬ返事に、浩司は当惑して言葉を失った。
「胎盤早期剥離…」
浩司は学生時代の産科で学んだ知識を、もう一度思い返していた。そうか、確か…
「常位胎盤早期剥離」
とか云う病名で、妊娠末期の重篤な疾患である事だけは思い出した。しかし、浩司の持っている知識は国家試験前の受験勉強程度の範囲でしかなかった。
それでも胎児を産み出す前の、胎盤早期剥離がどの様な危険を生み出すかは容易に想像できた。胎盤を通じてのみ胎児は栄養も酸素も取り入れているのだ。羊水中で自発呼吸をしている訳ではない。子宮動脈から胎盤を経て赤ん坊は生命を維持しているに過ぎない。その胎盤が早期に剥離してしまうと云う事は、お腹の赤ん坊がその生命を絶たれてしまう事に等しい。そこまでは内科医の浩司にも分かり過ぎる程だった。
次回に続く

想い出は風の彼方に(86)

綾子は総務部秘書課に配属された。
数ヶ月間の研修後、常務取締役の秘書に任じられた。常務の秘書は定員が3名で、最古参は40才で男性の木村、次席がやはり男性で32才の川上だった。常務の福原は原油の買付けと為替動向のチェックが主たる業務であった。先輩の男性2人は1973年のオイルショック以来、原油価格の急騰に福原と共に頭を悩ませていた。
発生に至る情勢は1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これを受け10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げる事を発表した。翌日10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、原油生産の段階的削減(石油戦略)を決定した。またアラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国は10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(アメリカ合衆国やオランダなど)への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定した。さらに12月23日には、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げる、と決定した。 
この原油急騰に日本経済は一気に萎み始めた。綾子の勤める総合商社も経常利益が悪化していた。為替は1ドル275円から305円までを行ったり来たりしていた。この数年は3月末が円高に振れる事が多かった。
これらの情報分析と為替相場への注文指示に、常務を始めとするスタッフは汗を流していた。為替にしても年に30円の変動は、一歩間違うと会社の命運がかかって来る。
綾子が初めて、秘書業務と聞かされた時は常務のタイムスケジュールが主な仕事ぐらいに考えていたが、実際は証券会社の為替ディーラーの様なチャート分析が主な仕事なので、かなり面食らった。入社して半年目ぐらいからは残業も多くなり、家に帰るのも10時過ぎになる事が度重なったが、浩司も病院での仕事が大変で1週間に2日ぐらいしか家には戻らなかった。
医師になって2年目からは市中病院でのバイト(平日当直や土日当直)が解禁されていたので、浩司は大学での無給研修を補う為、月に10日程はバイトに精を出し25万円程を稼ぎ出していた。綾子の給料が12万円程だったので二人の生活は、比較的に楽だった。
しかし、新婚の二人はすれ違いが多く夕食を共にするのは月に数度でしかなかった。学生時代より一緒に過ごす時間が短い感じさえあった。それでも結婚1年半で綾子は妊娠した。これを機に専業主婦になって欲しいと浩司は頼んだが、綾子は仕事の忙しさを口実に、問題を先送りしていた。
医者になって4年目に、浩司は大学が関連する市中病院に出張を命じられた。これまでの様なバイトに精を出さなくても30万円近い月給が保証された。綾子は産休に入り、共に家で過ごす事が多くなった。風呂に入るのは、いつも一緒だった。浩司が大きく張り出したお腹の、綾子の髪を洗っていた。しばらくは仲の良い夫婦生活が続いていた。
次回に続く

想い出は風の彼方に(85)

沢近医師の言葉は、さらに続く。
「篠木くん、若い君だったら街で美しく可愛い女の子に出会ったら、名前を知りたいと思うだろう?」
「そうかもしれませんね…」
そう言いつつ、頭の片隅で綾子の事を思い浮かべた。沢近医師は得意気に、
「だろう!…あわよくば、その彼女の電話番号も知りたいと思わないかい?」
「まあ、そうでしょうね」
一般論として、浩司は納得した。
「それと同じ事が白血病細胞にも言えると思うのだよ。この細胞の名前は何て言うのだろうか?…と、限りない興味を覚えるのさ、違うかな?」
「確かに、そうかもしれませんね」
と浩司は、素直に了解した。
それ以上に浩司は沢近医師に、医師のあるべき理想像を見た。彼の説明には、学究の徒と云うイメージに加え人間味のある奥行きの深さが感じられた。
彼の下で学んでみたいとも考えた。これまでに病院実習で幾つかの診療科を回って来たが、指導医としては最も強い印象を受けたのだ。
その後も脳外科、麻酔科、産婦人科、皮膚科と全診療科の実習を終えてから2ヶ月間に及ぶ卒業試験がスタートする。この長期間の緊張維持は、かなりの困難さと精神力が付きまとう。そして卒業式となる。この時代は何故か卒業式の後に、医師国家試験が待っていた。その為に幾つかの悲喜劇が発生した。大学病院や市中病院に就職が決まり、4月から新人医師として働き始めていたにも拘らず、4月末の国家試験が不合格となると、就職辞退に追い込まれ浪人生活を余儀なくされたのである。
幸いにして浩司は、その様な不運に見舞われる事もなく順調に母校の大学病院に入職した。最初の一年間は内科全域を3ヶ月づつ実地研修をして回る。消化器、循環器、内分泌、血液内科の順番に浩司は研修を受けて行った。学生時代の病院実習とは違い、実際の医療行為がオーベンObenと呼ばれる指導医の基で可能となっていたので、遣り甲斐は学生時代の比でなかった。点滴当番があったり、膀胱洗浄や腹腔穿刺、脳脊髄液の採取も指導医の下では許された。
少しづつ一人前の医者になって行く実感が伴って来た。学生時代の試験勉強の時よりは、はるかに忙しく原書(多くは英語)の読書会などもあって勉学そのものも大変であった。
しかし、学生時代の受身の勉強ではなかったので精神的な苦痛は感じず、むしろ充実感のみが強かった。
内科当直も月に2度ぐらいで回って来たが、卒後4年目、6年目、10年目の医師と4人での当直体制なので、救急患者を診るのに何の不安も感じなかった。むしろ緊張感が何とも心地良かった。卒後2年目で一人立ちとなり、あれこれ悩んだ末に血液内科に籍を置く事にした。沢近医師の影響が浩司の決定を大きく左右した事に間違いない。この年、綾子が大学を卒業して二人は結婚式を挙げた。浩司が26、綾子が22才の年である。
彼女は大手の総合商社に就職した。
浩司は彼女に専業主婦を望んだが、一度は社会人としての仕事を経験したいと願う、彼女の強い要望で最難関の商社に挑戦してみた。慶応大卒業の学歴は大きく、卒業時の成績も優秀であった。文句なく綾子は希望の商社に採用が決定した。
浩司は心から喜んではいなかったが、一応は綾子の思い通りにさせた。それでも結婚だけは急いだ。
次回に続く

一成さんへの回答

77才だったお母様は、78才になったのでしょうか?
長谷川スケールが22~23点 だったのが28点ぐらいにまで改善して来たと、前回は伺った様に記憶しています。それが現在ではバラつきはあるものの23~27 点ぐらいで経過しているとの話ですが、少なくても認知機能が悪化していないのは事実でしょう。サプリの影響なのか、一成さんの献身的な努力(脳トレを含めた)なのかは疑問が残りますが、私は一成さんの努力が大きいと考えています。昨今私が目にした論文で興味深いものに、2009年から2011年にかけてフィンランドで行われた「高齢者の生活習慣への介入による、認知機能障害予防の研究」があります。
研究に参加したのは60歳から77歳までの1260人です。被験者として認知機能が年齢相当か、少し低いくらいの人が選ばれました。この中から半分の人をランダムに選び「生活習慣改善グループ」として、食事療法、運動、脳のトレーニング、血圧管理など様々なプログラムを2年にわたって受けてもらいました。残りの半分の人たちは「対照グループ」として、一般的な健康アドバイスだけを定期的に受けてもらいました。 プログラム実施期間に入る前と1年後、さらに2年後のプログラム終了時に「認知機能テスト」を行い、結果を比較しました。
まずはバランスのとれた食生活
「生活習慣改善グループ」が行った食事療法を以下にご紹介しましょう。ぜひ、ご自身の食生活と比べてみてください。
タンパク質は1日に摂取する総エネルギーの10%から20%にする
脂肪分は1日に摂取する総エネルギーの25%から35%におさめ、以下の内容にも気をつける
・飽和脂肪酸およびトランス脂肪酸は10%以下
・一価不飽和脂肪酸は10%から20%
・多価不飽和脂肪酸を5%から10%
(オメガ3脂肪酸を1日に2.5グラムから3グラム含める)
炭水化物は1日に摂取する総エネルギーの45%から55%にする
食物繊維を1日に25グラムから30グラムとる
塩分は1日5グラム以下
アルコールは1日に摂取する総エネルギーの5%まで
砂糖は1日50グラムまで
バターの代わりに植物性マーガリンや菜種油を使用
少なくとも1週間に2回魚を食べる
野菜や果物を豊富に取り、精製していない穀物、低脂肪牛乳、肉製品を積極的にとりいれる
定期的な運動や脳のトレーニング
さらに、「生活習慣改善グループ」の人たちは「運動」と「脳のトレーニング」も行いました。運動プログラムはそれぞれの人の体力や体調に合わせて用意され、ジムで理学療法師の指導のもとで行いました。内容は膝屈伸や腹筋、背筋などを含む週に1回から3回の筋肉トレーニング、そして週に2回から5回の有酸素運動です。
「脳のトレーニング」は、グループセッションと個人セッションに分けて行いました。グループセッションでは、記憶や認知機能の年齢による変化や、日常生活への対応のしかたなどを学びました。さらに、コンピューターを使って学習進度の測定を行いました。個人セッションは、ワーキングメモリーやエピソード記憶、実行機能などの認知機能を鍛えることを目的に作られたプログラムを、各自が家でコンピューターを使って、1回に10分から15分、週に3回行いました。
さらに、メタボ健診と血管リスク管理として、定期的に血圧や体重、BMIなどの身体測定を行いました。
総合的に生活習慣を見直すことで認知機能低下のリスクが抑えられました。
どちらのグループも、プログラム終了時のほうが最初よりも成績が良くなっていることがわかります。特に「記憶」に関しては、両グループ間の差は、それほど大きくありませんでした。
しかし、「実行機能」や「処理速度」といった項目では、「生活改善グループ」のほうが「対照グレープ」よりも成績が著しく向上していました。「実行機能」とは、ある課題や目的を果たすために、必要な情報を判断して計画を立て、その計画を効率的に実行して目的を果たす能力です。プログラム終了時の「改善グループ」の成績は「対照グループ」に比べて、実行機能で83%、また処理速度は150%高くなっていました。さらに解析したところ、「対照グループ」は「生活改善グループ」よりも、約1.3倍、認知機能低下のリスクが高いことがわかりました。以上の結果から、生活習慣を様々な側面から見直すことで、認知機能の低下を効率的に抑えられることが示唆されました。
以上の結果から推測されます事は、現段階では医薬品やサプリより、生活習慣の改善や脳トレの方が認識機能の改善に役立っているかもしれないのです。多くの日本の医師は、この事実に余り注目していません。
「これからどんどん酷くなるや、医師が介護申請勧めるなら従うべき! 進行するだけなんだから」との発言は、医師を含め介護に携わる人達の不勉強さの現れとしか思えません。認識症の基本治療は何かと言えば、現在の医学水準で考えれば、家族の方の大きな愛です。将来的には医学的に解決される部分も多くなるとは思いますが、未だ認識症の治療に関して医師の診断は当てにならない事の方が多いのが現実です。一成さんは自信を持って、今のペースでお母様の介護を続けて行けば良いと思います。
【ご質問】
成川様お世話になっております。
度々の質問お許しください。 母の状態ですが、成川様に教えて頂いた脳トレを実践しています。日数はかかりますが1日1~2回ですが2分音読し2分で書き込む 初級コースから始めました。初級コースで1週間後ぐらいに合格で現在上級コースまで行きました。日によって3つしか書けなかったり6つ書けたりです。 その他簡単な脳トレをタブレットのアプリで毎日しています。 計算や神経衰弱や間違い探しなど…… 
月1でやっている長谷川式スケールはバラつきはありますが、23~27 MMSは26~29です。 記憶障害は現時点でも認められますが、アルツハイマーの診断から薬を服用せず1年近く経ちます。 日常生活も物忘れ以外は特に変化はみられません。 その日の出来事を思い出せない事があるから認知症なのは間違いないと思います。 あるサイトで質問した所、これからどんどん酷くなるや、医師が介護申請勧めるなら従うべき! 進行するだけなんだからと言われました。 確かにそうかも知れません。母も物忘れが酷い事は実感しているので気おつけないといけないって毎日言ってます。
色々考えたりネットで認知症の事を調べていると悪い方にしか考えられなくなってしまい母が1人で出来る事にも口出ししてしまい余計な不安を与えてしまったりと悪循環になっています。 
良くはならなくても現状維持はできると思い頑張ろうと思います。海馬だって鍛えれば新生するとも聞いたので。
読みずらい文面で申し訳ございません。成川様からなんでも構いませんのでアドバイス頂けたらと思い書き込みました。
よろしくお願い致します。

想い出は風の彼方に(84)

翌月曜からは、内科の実習だ。実習期間は6週間と長い。先ず消化器内科で胃カメラや大腸ファイバーの実地研修を受けた。そして胃透視の指導を受ける。バリウムを飲ませながら透視台の患者を色々な体位に誘導してレントゲンを撮って行く。X線予防着には鉛が入っているので、かなり重い。午前中で8名の胃透視を見学すると疲労困憊になる。
胃透視を実施している医師の顔にも疲労の色が漂っていた。市中病院と比べ大学では点滴を含め、医療行為の殆どが医師の手で進められていた。大学以外では看護婦やレントゲン技師の手に委ねられている事も医師自身が実施するのが常であった。その分だけ医師の仕事は分業化され、外来担当医は外来だけ、病棟担当医は入院患者を診るだけで目一杯の仕事量になっていた。市中病院で大学と同じ様な医療体制を取ったとすれば、赤字経営で直ぐに倒産となってしまうだろう。故に市中病院では、医師には看護婦の数倍もの給与を払いながら効率良く医師本来の仕事を無駄無く熟(こな)してもらうのだ。
大学で何故、その様な医療体制が成り立つかと言えば、医師の多くが無給に近い状態で何年間も黙って働いているからである。
では何故、多くの医師はそんな無給に近い待遇で過酷な労働に耐えているのか?
それは医学博士と云うマジックである。この称号を取る事が医師のシンボルであると長い期間にわたり、大学は医師を呪文にかけ縛っていたのだ。
ただし、医学博士と云う称号がただの呪文であれば何時かは無意味な物として捨て去られる時が来たのであろうが、現実にはメリットもかなりあった。
つまり、大学や公的病院で管理職(講師以上教授まで、あるいは副院長や病院長)への道を歩む場合は、医学博士の称号が必要となる仕組みになっていた。
しかし、クリニックの開業や市中病院での勤務には医学博士の称号は何の意味も持ち得なかった。それでも多くの医師は、医学博士の称号を欲しがった。
医師の事を「ドクター」と言ったりする事も多いが、「ドクター」と云う呼称は「博士」と云う意味なので、文学博士だって「ドクター」なのである。
つまり医師の事を「ドクター」と言ってしまうのは、それだけ医学博士が世に氾濫していた事の証拠である。
さて、話を本題に戻そう。浩司の内科実習は消化器から血液内科へと移る。彼の大学は血液内科が、当時は主流であり患者も多かった。彼の指導に当たってくれたのは沢近医師だった。一日の多くを血液標本作成と、白血病の異型細胞鑑別に熱心で顕微鏡観察に多くの時間を割いていた。どれだけ美しく血液標本を作成するかに、限りない喜びを感じている様な人だった。一日の病棟実習が終わった後も研究室で顕微鏡の前に座り何時間も白血病細胞の見分け方を教わるが、不可思議な細胞の群れが多数存在するだけで、何だか全く分からない。正常細胞と何か違うらしいとは見当はつくが、それ以上は区別がつかない。途中から欠伸を噛み殺し聞いている振りをしていた。そんな浩司に気づいた沢近医師は、
「篠木くん、どうだい。この白血病細胞の絢爛豪華(けんらんごうか)な事、人間にとっては邪悪な存在かもしれないが、細胞自体はひたすら自己増殖を繰り返しているのだ。見方を変えれば、美しいとも思えるだろう。美しいと感じなくても、こいつは何者だろうと考えるだろう。その疑問から血液学だけではなく、全て学問の好奇心が湧いて来るのだよ」
そう言われ浩司は、成る程と思った。
次回に続く