断章(17)

(17)日々の思い
昭和の時代を考える(その10)
1945(昭和20)年
・労働組合法制定
1946(昭和21)年 
・(1月)*昭和天皇の人間宣言*
 1946(昭和21)年1月1日,昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」によりみずからの神格性を否定した宣言である。冒頭に五か条の御誓文を掲げるなど,戦前の天皇制を完全に否定したものではなかったが,一般的には天皇の現人神を否定した詔書として受けとめられ,「天皇人間宣言」とよばれた。この詔書はGHQの意を受けて幣原首相が外国を意識して英文で起草したことでもわかるように,天皇の神格性の否定によって,天皇の戦争責任や天皇制の廃止を免れようとするもので,その効果を十分に果たした。さらに,同年11月3日の日本国憲法の”象徴”天皇制を先取りするもので,総司令部の民主化政策に適応させて戦後の天皇制の維持をはかったものであった。
・(11月3日)日本国憲法公布
(施行は1947年5月3日)
この公布により天皇が神格化された大日本帝国憲法は正式に効力を失った。
しかし、新憲法は*GHQ*の監督下で作られたもので日本国民の自主憲法とは言い難い。にも関わらず2018年の今日まで「平和憲法」の名の元に日本国民は、この憲法を圧倒的な支持で受け入れている。外国では、この様な例は見られない。どの国でも時代の流れの中で部分的に憲法改正は行われているのだが、他国の支配の下に作られた憲法であるにも関わらず、憲法改正は即、軍国主義への道と言うばかりに改正の議論そのものが、日本ではタブー化されている。
その精神構造は、戦前の「国民精神総動員」の真逆的な発想ではあるが、一切の議論をも封じ込めてしまうと云う点では、何か類似性を感じてしまうと思われてならない。
*GHQ*
連合国最高司令官総司令部は、第二次世界大戦が終結する際に、ポツダム宣言執行のため日本を占領して間接的に統治を行った、連合国の日本での司令本部で、日本ではGHQという通称が使われた。連合国軍総数20万人のうち、12万人が横浜市に上陸した。最高司令官・マッカーサー元帥が飛行機から日本(厚木基地)に降り立つ姿は、日本の歴史に刻まれている。
*日本を統治
1945年9月、第二次世界大戦が終結して間もなく、日本がポツダム宣言を受諾した。平和条約発効までの6年9ヶ月の間、イギリス、アメリカ、中華民国、ソビエト連邦、カナダからなる連合国軍が日本の間接統治権を与えられ、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥が最高司令官として着任した。それまであった日本の政治機構を引き続き利用し、日本政府に指示や命令を出す間接統治であった。命令の多くはポツダム命令の形で公布や施行され、政府にとって連合国軍からの命令は絶対的で超法規的なものであった。
日本はGHQにより軍事機構と国家警察が廃止された。さらに政治の民主化、政教分離、財閥の解体、農地解放が行われ、これまでの日本の国家を完全に改造した。この間、日本に外交権はなく、内政のみ日本が行っていた。
【GHQの政策】
組織の一番の目標は、小国ながらも世界を敵に回した日本の軍事力を解体することにあった。それまで軍国主義だった日本から軍隊をなくし、民主的な国家の形成を目指した。
「軍事裁判」
GHQは日本を占領直後から、第二次世界大戦の指導者の検挙に着手した。東条英機元首相ら数十名が逮捕され、A級戦犯として*極東国際軍事法廷*において、国際法に違反した法律による裁判で、東条英機以下7名を絞首刑、残りの多数を禁固刑などに処した。
次回に続く
 

断章(16)

(16)日々の思い
昭和の時代を考える(その9)
1945(昭和20)年
8月10日 ポツダム宣言受諾の決定
8月14日 ポツダム宣言受諾
8月15日 *宮城事件*、*玉音放送*
*宮城事件*(きゅうじょうじけん)とは、1945年8月14日の深夜から15日にかけて、一部の陸軍省幕僚と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。
日本政府は8月14日の時点でポツダム宣言の受諾を連合国側に通達していたが、これに陸軍が反発。15日に予定されていた天皇の玉音放送を阻止し、戦争を継続させようと目論み、皇居へと襲撃をかけた。
陸軍によって皇居が一時制圧されるも、最終的にクーデターそのものは失敗し、首謀者らは自刃した。
1945年8月、2発の原爆を落とされ、資源も尽きていた日本は、連合国側からポツダム宣言を突きつけられ、8月13日の最高戦争指導会議で、ポツダム宣言の受諾を決定する。
日本時間8月14日に連合国側にその旨(ポツダム宣言受諾)を伝えている。
ただ、これに最後まで反発していたのが陸軍だった。海軍・空軍が壊滅的状況の中、陸軍は本土決戦用に温存され、当時でもなお230万の兵力を保持していた。
この状況で無条件降伏を受け入れるというのは、軍人としてはもちろん、当時の神国と言われていた日本の精神的基盤を考えれば、一部の人たちにも無条件降伏は受け入れがたいことであった。
そのため...ポツダム宣言そのものを拒否するとの意向を固め、畑中少佐を含めた6人の陸軍将校らが、当時の陸軍大臣であった阿南惟幾(あなみ これちか)大将に「兵力使用計画」というクーデター計画を掲示し、クーデターへの賛同を求めていた。
このクーデター計画は、近衛兵と東部軍を用いて皇居を占拠し、天皇を擁立、政府首脳部の和平派追放、ポツダム宣言破棄、戦争継続を訴えていく....といった内容であった。
ただ、このクーデター計画自体は阿南陸軍大臣らに否定され頓挫する。阿南大臣からの返答があった時点で8月14日午前を迎え、既に連合国側にポツダム宣言受諾を通告していた。
もし、このクーデターが成功していたら、日本国民は本当に「一億総玉砕」の運命に巻き込まれて行ったかもしれない。
そして8月15日正午、天皇陛下の「玉音放送」が日本中に流されて戦争の終結となった。
9月2日 *降伏文書調印*
日本がポツダム宣言を受諾した2週間後の1945(昭和20)年8月28日、米軍の第一次進駐部隊が神奈川県の厚木飛行場に着陸した。2日後には連合国最高司令官として占領地である日本の最高権力者となった米国のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。
9月2日には東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われた。日本側の全権団は重光葵外相、梅津美治郎参謀総長らで、これを迎えたマッカーサー元帥は「相互不信や憎悪を超え、自由、寛容、正義を志す世界の出現を期待する」との演説で終戦を宣言した。
降伏文書が調印されたことにより、足かけ5年にわたる太平洋戦争は公式に終了した。以後、1951(昭和26)年9月の対日講和条約調印まで、日本は連合国の占領下に置かれることになった。
*選挙法改正→20歳以上の男女に選挙権
幣原内閣の堀切善次郎内務大臣は、婦人に初めて選挙権及び被選挙権を認める「衆議院議員選挙制度改正要綱」を、昭和20年(1945)10月23日の閣議に提出、衆議院議員選挙法改正法案として帝国議会に提出、12月15日可決成立した。婦人参政権は、男女同権を規定する日本国憲法に先立って制定された。同時に、選挙権は20歳以上、被選挙権は25歳以上と、それぞれ引き下げられた。
次回に続く

断章(15)

(15)日々の思い
昭和の時代を考える(その8)
昭和の軍部が陥った精神論とは?
職業軍人は、幼年学校や士官学校、さらに陸軍(海軍)大学を通じてエリートとして養成され、社会との接触を知らずに成人となって行った。
明治10年の西南戦争で旧士族の反乱に懲りた当時の政府は、軍人達に愛国教育、天皇を神として敬う宗教教育を徹底し、それが軍部全体として神がかり的な体質をつくり出す事になった。
そうした体質がひきおこした事件としては、いわゆる八甲田事件がある。
これは、1902年におきた出来事で、日露戦争を想定した冬山行軍訓練で起きた事件である。現場の指揮官は、この寒さ(酒が凍る寒さ)でこの装備では兵士らは間違いなく凍死すると判断し、一旦は訓練の中止を決定するのだが、
「そのようなことでお国の為に役にたてますか」
と下士官らが騒ぎ出し、その場の雰囲気に引きずられた監査役の上官が訓練続行を指示。危険を予想しながら雪山に入り、そして予想通りに部隊のほぼ全員(210名中199名)が死亡した事件である。
食べ物がないと判っているジャングルの中、少ない兵站で行軍を強行し、案の定大半が餓死したインパール作戦(1944年)と非常によく似ているかもしれない。
可能な作戦か不可能な作戦かを判断して、兵を温存するのも将校の役割の一つなのに、「お国のために」という「空気」にあうと自暴自棄の行動にでる。これが軍部の”神がかり”体質であったのだろう。
こうして、現在の私たちには考えられない精神構造が国民全般に構築され、ひたすら軍国日本は壊滅への道に突入して行った。もちろん日本人の中には、この様な戦争に懐疑的な勢力もあった。地下組織の中で非合法の抵抗を示す社会主義や共産主義の人たちも存在したのだが、それらは *特別高等警察により徹底的に弾圧された。
*特別高等警察*(とくべつこうとうけいさつ)は国事警察として発足した高等警察から分離し、国体護持のために無政府主義者・共産主義者・社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることを目的とした大日本帝国の政治警察である。内務省警保局保安課を総元締めとして、警視庁をはじめとする一道三府七県に設置されたが、その後、1928年に全国一律に未設置県にも設置された。略称は特高警察(とっこうけいさつ)、特高(とっこう)と言う。第二次世界大戦後の1945年に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示により廃止された。
この様な国家的な弾圧と軍部による精神主義の喧伝により、泥沼化した戦争が遂行された。
フィリピンの戦い (1944-1945年)
1945年(昭和20年) 硫黄島の戦い、沖縄戦、占守島の戦い
と、絶望的な状況に日本全体が追い込まれ、
8月6日 *広島市への原子爆弾投下
8月8日 ソ連対日参戦
8月9日 長崎市への原子爆弾投下
へと続く。
*広島市への原子爆弾投下*(ひろしましへのげんしばくだんとうか)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍が日本の広島市に対して世界で初めて核兵器「リトルボーイ」を実戦使用した出来事である。これは、人類史上初の都市に対する核攻撃である。この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万 - 16万6千人が被爆から2 - 4か月以内に死亡したとされる。
*日本への原爆投下の意義*
元陸軍長官のスティムソンが「ハーパーズ・マガジン」194号(1947年2月刊)に投稿した論文では、日本本土への上陸作戦「ダウンフォール作戦」による米兵の新たな犠牲は100万人と推定され、戦争の早期終結のために原子爆弾の使用は有効であったとの説明がなされており、この論文は原爆投下を妥当であったとするアメリカ政府の公式解釈を形成する上で重要な役割を果たしている。しかし、スティムソンの見解はスタンフォード大学のバートン・バーンスタインによって、厳しく批判されている。バーンスタインは、原爆投下の目的が「一般市民への殺戮」かつ、「日本への懲罰」であることを明らかにしている。さらに西洋人による東洋人への人種差別的な意味あいを内在した「人体実験」であったとする学者の意見もある。
次回に続く

断章(14)

(14)日々の思い
昭和の時代を考える(その7)
「神風特別攻撃隊」の本当の戦果は?
一隻撃沈のために、81人の命が犠牲に… 
そもそも、ただでさえ動きが鈍く防御力の乏しい一式陸攻に2トンもの「桜花」を積んだら動きがさらに鈍くなり、敵戦闘機の餌食になるのは必定であった。実際、「神雷部隊」の一式陸攻18機もすべて撃墜された(「桜花」を搭載していたのは16機)。
敵艦は一隻も沈んでいない。
敗戦まで、航空特攻の戦死者は海軍が2431人、陸軍が1417人で計3830人であった(人数には諸説がある)。
一方で敵艦の撃沈、つまり沈めた戦果は以下の通りである(『戦史叢書』などによる)
正規空母=0/護衛空母=3/戦艦0/巡洋艦=0/駆逐艦=13/その他(輸送船、上陸艇など)=31
撃沈の合計は47隻である。1隻沈めるために81人もの兵士が死ななければならなかったと云うことだ。しかも戦果のほとんどが、米軍にとって沈んでも大勢に影響のない小艦艇だった。
この中で大きな軍艦といえば護衛空母だが、商船などを改造したもので、もともと軍艦ではないため防備が甘く、初めから空母として建造された正規空母より戦力としては相当劣る。特攻が主目的とした正規空母は一隻も沈まなかったという事実を、我々は知らなければならない。
「撃沈はしなくても、米兵に恐怖を与えて戦闘不能に陥らせた」
といった類いの指摘が、しばしばある。そういう戦意の低下は数値化しにくく、戦果として評価するのは難しい。それは特攻=「必ず死ぬ」という命令を受けたか、受けるかもしれないと思って日々を過ごしている大日本帝国陸海軍兵士の戦意がどれくらい下がったのかを数値化できないとの同じだ。
我々が知るべきは、特攻の戦果が、軍上層部が予想したものよりはるかに低かったと云う事実である。むろん、特攻で死んでいった若者たちに責任は全くない。
それにしても戦時下の国民の精神は、どの様にして軍部に洗脳されて行ったのだろうか?
それには、第一次近衛内閣が1937年(昭和12年)9月から行った政策・活動の一つで、「国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神(滅私奉公)を推進した」運動、国民精神総動員(こくみんせいしんそうどういん)がある。
長期戦と物資不足が懸念されていた日中戦争及び太平洋戦争(大東亜戦争)において、国民の戦意昂揚のために「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ!」「日本人ならぜいたくは出来ない筈だ!」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「遂げよ聖戦 興せよ東亜」「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」「進め一億火の玉だ」「石油(ガソリン)の一滴、血の一滴」「全てを戦争へ」などの戦時標語を掲げ、女性や子供を含む非戦闘員の国民にまで耐乏生活を強いた。この頃には、飯の真ん中に梅干しを1個乗せただけの「日の丸弁当」奨励、「パーマネントはやめましょう」、国民服やモンペ姿を男女の制服として推奨した教化運動なども叫ばれた。
合理的な戦争論ではなく、軍部上層は自らの戦略ミスを認めず、国民の犠牲を全く顧みない精神論で、「 1億総玉砕」をも辞さない狂乱の対応で全てを乗り切ろうとしていた。
では何故、この様な排他的な精神論に昭和の軍部は陥ったのであろうか?
次回に続く

「まあ」さんへの回答

レビーピックコンプレックスについて、もう一度復習しておきましょう。
レビー小体型認知症にピック病の合併した病状で暴言妄想に加えパーキンソ症状さらに薬剤過敏症状(風邪薬でもアレルギー症状が強く出る、これがレビー小体型認知症の特徴の一つ)や睡眠障害(REM睡眠行動障害)等が見られる病状です。レビーの病状が強く出ているのか、ピックの病状が強く出ているかは夫々です。基本的に中枢系の薬剤には逆行現象(薬の使用目的とは逆の副作用)が、時に見られます。
まして、レビーでは薬剤過敏症状が強く出る事も多いので薬は出来る限り少なめにして、慎重な使用が原則です。
基本的に、お母様の様な方ではウィンタミンを中心にして、細粒0.06gから0.18gぐらいまでは慎重に増量して行きます。もちろんセロクエルは中止します。フェルガード(私もかなり使用しましたが、お母様の場合の効果は疑問です)も不要です。抑肝散は、このままで良いと思います。夜間の睡眠行動障害にはクロナゼパム(リボトリール)が、第一選択薬です。さらにロゼレム(メラトニン作動薬)との併用で効果がみられるかもしれません。いずれにしても、薬剤過敏症状を常に頭に入れた慎重投与が必要です。私は、お母様の様な経過の方には1週間投与で十分な観察をしながら、治療に当たっています。以上です。
【ご質問】
「まあ」
はじめまして。
レビー・ピックコンプレックスの81歳の母の薬の調整のことでご相談したくご連絡させていただきました。
いま母はロングショートステイで施設に2年前からお世話になっています。
今の薬は
朝 ウインタミン細粒0.06g オパルモン5ug
昼 抑肝散2.5g
夕 抑肝散2.5g セロクエル12.5mg
です。
他にフェルガードを飲ませています。
これで2年ほどはまあ時々の不穏はありながら過ごしてきました。
最近、不穏が強く、そのため車いすから倒れる、低床ベッドより這い出すことがあり、昼にセロクエル12.5mgを追加しました。
セロクエル増量で、いま1ケ月くらいになりますが先日施設より「不穏が強くケガをされるリスクが大きいので薬の調整を話し合いたい」と言われました。
以前はセロクエルで効を奏したと思っていましたが今回は逆に増量したことが不穏を増すことになったのでは?と思うようになりました。
ピックにはウインタミン(コントミン)と言われていますがセロクエルをやめてウインタミンを増やした方がいいのでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。
すみません、もう一つお聞きしたいことがありました。
施設の方が言われるには、「今までは夜の睡眠時に独語で起きてたりベッド上でごそごそがあっても、22時くらいから寝てたりしていたのに、最近夜の睡眠が1週間のうち3日くらいは夜中ずっと起きていて動きも激しい状態で、夜勤の職員が少ないため目が届かないので薬の調整の相談したい」と。
(母は介護度5で車いす生活で立てないのですが、這うことができたり体を起こしたりできるのでベッドから落ちたりしています。おまけに胃瘻ですが、昼のみ口から食べて薬は胃瘻からです、寝たきりでも誤嚥性肺炎もなったことはありません)

断章(13)

(13)日々の思い
昭和の時代を考える(その6)
1943年(昭和18年) アッツ島の戦い、*イタリアの降伏*、*学徒出陣*
*イタリアの降伏
第二次世界大戦中の1943年9月8日に、イタリア王国が連合国と締結していた休戦協定を発表して枢軸国から離脱し、降伏に至った。これにより独裁者である首相ベニート・ムッソリーニは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世より、その地位を追われた。
*学徒出陣(がくとしゅつじん、旧字体: 學徒出陣)とは、第二次世界大戦終盤の1943年(昭和18年)に兵力不足を補うため、高等教育機関に在籍する20歳以上の文科系(および農学部農業経済学科などの一部の理系学部の)学生を在学途中で徴兵し出征させたことである。日本国内の学生だけでなく、当時日本国籍であった台湾人や朝鮮人、満州国や日本軍占領地、日系二世の学生も対象とされた。
軍部の暴走は留まる所を知らず、参謀本部は大局的な視野を失い軍人としてのプライドだけで、国民を塗炭の苦しみへと追い込んでいった。
1944年(昭和19年) 大陸打通作戦、*神風特別攻撃隊(10月)の出撃*
*神風特別攻撃隊
神風特別攻撃隊(かみかぜとくべつこうげきたい、又はしんぷうとくべつこうげきたい)は、第二次大戦で旧日本軍陸海軍が体当たり戦法のため編制した特別攻撃隊で、略称は「神風」、「神風特攻隊」、「特攻隊」とも呼ばれた。この体当たり戦術は、太平洋戦争および神風特攻隊の創設以前に、日本海軍航空隊の草分けである山本五十六がすでに言及していた。
1931年(昭和6年)12月1日、城英一郎少佐は海軍大学校卒業時の作業答案を山本五十六少将(海軍航空本部技術部長)に提示、将来の航空機について山本の意見を聞き、この時に2人は「最後の手は、肉弾体当たり、操縦者のみにて爆弾搭載射出」として航空機の体当たり戦術を検討したと言われている。
1934年(昭和9年)、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加した山本五十六少将は、新聞記者に対し「僕が海軍にいる間には、飛行機の体当たり戦術を断行する」「艦長が艦と運命を共にするなら、飛行機も同じだ」と語ったという。
1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争勃発後、ミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦いを経て戦況は悪化、山本五十六大将(連合艦隊司令長官)も1943年(昭和18年)4月18日の海軍甲事件で戦死した(連合艦隊参謀長宇垣纏中将重傷)。同年6月5日、城英一郎大佐(昭和天皇侍従武官)は、特別縁故者として山本元帥の葬儀に参列。かつて山本と『航空機体当たり』を検討した事を回想する。6月22日、城は自らを指揮官とする特殊攻撃隊の構想をまとめ、海軍航空本部総務部長大西瀧治郎中将に説明した。数回の意見具申に対し大西は「(意見は)了解したがまだその時期ではない」と返答し、全幅の賛同を示さなかった。
しかし、ニュージョージア島の戦い勃発により戦局が悪化する中、城は「特殊航空隊の緊急必要」を痛感するが実現には至らなかった。
1944年(昭和19年)2月15日、城英一郎大佐は瑞鳳型航空母艦4番艦千代田艦長に任命される。6月下旬、日本海軍はサイパン島の戦いにともなうマリアナ沖海戦に大敗(城も千代田艦長として参加)。城は大西に対して再び特攻隊の編成を電報で意見具申している。また第一機動艦隊司令長官小沢治三郎中将、連合艦隊司令長官豊田副武大将、軍令部総長及川古志郎大将にも「体当たり攻撃以外に戦勢回復の手段はない」との見解を上申した。
特攻第一号
1944年(昭和19年)10月20日午前10時、大西が神風特攻隊の訓示と命名式を行い、初の特攻隊である敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊が編制された。大西は敷島隊に「日本は今、危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする」と訓示した。
次回に続く

断章(12)

(12)日々の思い
昭和の時代を考える(その5)
*真珠湾攻撃(再考)
しかし、日本の仮想敵国は本来北方の大敵ロシアであり米国ではなかった。日本は米国に対して一貫して友好的であり、米国産業界にとっても日本は世界第三位であったが、問題を起こさない上得意の国であった。それなのになぜ日本は真珠湾を攻撃することになったのか?
それは戦前の日本が米政府から長期的な圧迫を受け、追い詰められたからである。日本の対米戦の動機は自尊自衛であり、まさに窮鼠猫を噛むであった。日本の反撃の直接の契機となったのは直前の*ハルノート*であるがルーズベルトの敵対行動はその4年前の支那事変から始まっていた。
*ハルノート*
日米交渉の最終段階におけるアメリカ側の提案。1941年11月20日日本側が提出した対米交渉要領乙案にたいする回答として,11月26日にC.ハル国務長官が提示した。おもな内容は,いっさいの国家の領土と主権の不可侵,内政不干渉,通商上の機会の平等,国際紛争の平和的解決の4原則のほか,日本,アメリカ,イギリス,中国,オランダ,タイ,ソビエトの間の多辺的不可侵条約の締結,中国とインドシナからの日本の軍隊と警察力の全面撤退,重慶にある中華民国国民政府以外の政府もしくは政権の否認,日独伊三国同盟の否認などであった。これまでの日本の全ての権益を返上しろとの一方的な要求で、とても日本国内で受け入れ難いものであった。
1937年8月13日の支那事変はスターリンがヒトラーの東西挟撃戦略を破るために前年12月の西安事件で捕らえた蒋介石を使って起こした戦争である。日本は早期講和を求めて日露戦争当時のように米国に仲介を要請したが、ルーズベルトは仲介を断っただけでなく逆に莫大な軍事援助を蒋介石軍に差し出し、ソ連と一緒になって日本を攻撃したのである。まさに火に油を注ぐ行為であった。
蒋介石は米ソの援助無しでは一日も戦争を続けることが出来なかったから支那事変は実質的には、米ソ共同の対日代理戦争であった。この結果戦争は泥沼化し日本軍は支那大陸に長期間足止めされたのである。
それでは何故ルーズベルトは日本を攻撃したのか。これは19世紀の米国の太平洋政策にさかのぼる。すなわち1890年代に西部開拓を了えた米国は太平洋に進出し、ハワイ、フィリピンを征服し次の目標として支那満州への進出を望んだ。それが1899年のジョン・ヘイ国務長官の支那門戸開放機会均等宣言である。
日露戦争では米国はロシアの満洲全土占領を阻むために日本に講和を仲介したが日本政府が鉄道王ハリマンの南満州鉄道買収を拒むと、米国は対日友好から一転反日となり、日系人への迫害が始まった。そして1931年の満州事変で日本が翌年1月のスティムソン国務長官の満洲原状回復要求を拒否すると日本打倒を決めたと思われる。満洲事変こそが日米戦争に到る対立の引き金になったのである。
1942年(昭和17年) ドーリットル空襲、*ミッドウェー海戦*、ガダルカナル島の戦い
*ミッドウェー海戦*
ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん; 英語: Battle of Midway)は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)6月5日(アメリカ標準時では6月4日)~7日,ミッドウェー島付近での海戦。同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で発生、日本海軍の機動部隊と米国の機動部隊及び同島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は航空母艦4隻とその艦載機多数を一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失った。ミッドウェー海戦はMI作戦(MI作戦とは、第二次世界大戦中の1942年6月にミッドウェー島の攻略、米空母部隊撃滅を目的とした日本の作戦)の一部であり、この敗北で同作戦は頓挫した。この海戦の敗因は、アメリカとの情報戦にあったとも言われている。日本軍の暗号文は全てアメリカに解読されていたらしい。先の真珠湾攻撃でも、日本の暗号文は解読されていたのだが、時の大統領ルーズベルトは何が何でも日本に先制攻撃を仕掛けて欲しいと願っていたので、米国内の反戦感情を交戦体制に導く為に日本軍を誘い出したとの噂もある。
次回に続く