診察室からコンニチハ(13)

かく言う私が、それほど真摯に医学的な問題に日々取り組んでいるのかと問われれば、それは厚顔無恥の誹(そし)りを免れないでしょう。現実の臨床の場では常に慌てふためいて医学書のページをめくると云うのが本来の姿でした。そんな私が老人ホームで多くの認知症の患者さんと出会い、最初に考えたのはこんなにも多くの薬が高齢者に必要なのであろうかと云う疑問です。
多少の不安を抱きながらも認知症薬を少しずつ減量してみますと、かなりの高齢者で精神状況が安定して行くと云う現実を数多く経験しました。
さらに認知症と云うと、直ぐに「アルツハイマー型認知症」との診断が付けられてしまうケースが余りに多いのに驚かされました。
また、「認知症」、「パーキンソン症候群」と並列して付けられている病名にも異和感を覚えました。認知症への関心度が低い時代には、私もこの様な病名に何の疑問も抱きませんでした。しかし、認知症への関心度が深まるにつれて、この奇妙な病名の並列はレビー小体型認知症の事であると知りました。
それ以外にも「ピック病」の存在にも驚かされました。高齢者の犯罪の多くに「ピック病」が関与していると云う文献にはショックさえ受けました。
「認知症」
それは何と深く興味深い分野である事か、正に「未知との遭遇」と言っても過言ではないでしょう。
「老人性痴呆」と言われた時代から、「認知症」へと概念が変わり、「アルツハイマー型認知症」一辺倒から多彩な病名へ変化して過程で治療指針やその対応の仕方にも日々変化が見られています。精神科医を始め、多くの認知症専門医と言われている人たちも試行錯誤を繰り返しています。医学の進歩過程では、止むを得ない誤謬の歴史であるかもしれません。かつて精神科医で行われていた*ロボトミー*のように…
*ロボトミー*
1935年、ジョン・フルトンとカーライル・ヤコブセンが、チンパンジーにおいて前頭葉切断を行ったところ、性格が穏やかになったと、ロンドンで行われた国際神経学会で発表。同年、ポルトガルの神経科医エガス・モニスが、リスボンのサンタマルタ病院で外科医のペドロ・アルメイダ・リマと組んで、初めてヒトにおいて前頭葉切截術(前頭葉を大脳のその他の部分から切り離す手術)を行った。
その後1936年9月14日、ワシントンD.C.のジョージ・ワシントン大学でも、ウォルター・フリーマン 博士の手によって、アメリカ合衆国で初めてのロボトミー手術が、激越性うつ病患者(63歳の女性)に行われた。
当時に於いて、治療が不可能と思われた精神疾病が、外科手術である程度は抑制できるという結果は注目に値するものであって、世界各地で追試され、成功例も含まれたものの、特にうつ病の患者の6%は手術から生還することはなかった。また生還したとしても、しばしばてんかん発作・人格変化・無気力・抑制の欠如・衝動性など、重大かつ不可逆的な副作用が起こっていた。
しかし、フリーマンとジェームズ・ワッツ により術式が「発展」されたこともあり、難治性の精神疾患患者に対して、熱心に施術された。1949年にはモニスにノーベル生理学・医学賞が与えられた。しかし、その後、抗精神病薬の発明とクロルプロマジンが発見されたことと、ロボトミーの予測不可能な副作用の大きさと人権蹂躙批判が相まって規模は縮小し、精神医学ではエビデンスが無い禁忌と看做され、廃止に追い込まれた。
次回に続く

診察室からコンニチハ(12)

長い医療訴訟の結果、私たちは全面勝訴となりました。奥様の書いた念書と、私の再度の転院勧告が功を奏して私に医療上の過失はないと判断されたのです。
しかし勝利感はなく苦い経験だけが、残りました。それ以降は、私も少しずつ認知症の勉強をするようになりました。
それからしばらくして、私はある老人ホームの嘱託医を引き受ける機会に恵まれました。そこではアルツハイマー型認知症の薬が漫然と多くの患者さんに使われていました。その殆んどは他の医療機関で出されたものでしたが、私が嘱託医になった瞬間からその薬の管理は、私の責任となりました。
そうなると、かなり焦りながら私は認知症薬の参考資料を連日の様に読み漁る様になりました。その過程の中で40年近い認知症薬の歴史も勉強しました。厚生労働省で認可された薬であるにもかかわらず、5~15年単位で薬効を疑問視される薬が次から次へと出ては消えて行くのです。その10年近い年月で大手の製薬会社は数千億円以上の資金を売り逃げしている実態も知りました。医師である私が限りない医療不信を募らせていく結果ともなりました。厚生労働省の薬効認定はどの様な判定に基づくものであるのか、限りない疑問が湧いて来るのです。製薬会社の巧みな宣伝に一般医の多くは踊らされていました。学会の論文にもそれなりに目を通しましたが、多くは薬の宣伝効果を裏付けるものでした。何の研究機関も個人的には持ち得ない私のような医師には、それらの論文を信じるしか治療指針はないのです。
医師とは、何と脆弱なものか?
大学教育で受けた医学知識がその基盤となっているのですが、医学の進歩に伴って、それらの医学論文も次から次へと塗り替えられて行くのです。何を根拠に自分の治療方針を打ち立てたら良いのか、時に迷いも生じます。
そんな時の私の基本理念は、患者さんに聞くと云う事です。私たちにとって患者さんとは試験官と同じです。
「頭が痛い」とか、「めまいがする」
と云うのは一つの試験問題です。それらの問題にどの様な解答を書くかが私たちの仕事です。模範解答が書ければ患者さんの訴えは解消されます。逆に間違った解答を書けば、患者さんの病状は悪くなるばかりです。私たちの解答が80点の事もあれば、30点の事もあります。80点ぐらいの解答率であれば、患者さんの自然治癒力で多くの場合に病気は軽快に向かいます。しかし30点以下であれば病気が快方に向かう可能性は、殆んど期待出来ません。この様な過程が臨床経験と言われるものです。この臨床経験の精度を上げる為には、常に患者さんの訴えと真摯に向き合い、医学論文にも出来る限り目を通すと云う姿勢が重要です。
次回に続く

断章(30)

(30)日々の思い
昭和の時代を考える(その23)
一般に「準賠償」は賠償請求の放棄と引き換えに提供される無償供与とされているが、その内容は様々であり、厳密な法的定義は無い。しかし、戦後処理的性格を有する有償供与[無金利・低金利の借款]を準賠償に含むこともある。
例えば通商産業調査会は、日韓基本条約における韓国への円借款と、血債に対する補償として無償供与と共にシンガポールに提供された円借款の2つ(計706億6800万円)を有償の準賠償としている。つまり、外交文書において受け取り国が更なる賠償請求を放棄し、且つ何らかの戦前、戦中の損害を補償する目的の供与であることが記されているものが「準賠償」であると考えられる。
さらに加えれば、明らかに戦後処理的性格を持つ(つまり単なる経済協力(ODA)とは異なる)供与が「準賠償」である。
【朝鮮に対する補償】
韓国からは、個々人に補償を要求する動きが新聞やテレビで報じられている事が多いが、1965(昭和40)年に日本と韓国は日韓基本条約を結び、日本からは無償で3億ドル(約1080億円)、有償で2億ドル(約720億円)、民間借款で3億ドルを支払われている。さらに日本が韓国内に持っていた財産を放棄することも含めて、「両国民の間の請求権に関する問題が完全かつ最終的に解決された」とした合意に達している。
民間借款を除いた5億ドルだけでも、当時の韓国の国家予算の1.45倍にあたる膨大な金額で、韓国はこのお金の一部を「軍人・軍属・労務者として召集・徴集された」者で、死亡したものの遺族への補償に使い、残りの大部分は道路やダム・工場の建設など国づくりに投資し「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げたのである。韓国は日本から得たお金を個人補償として人々に分配するよりも、全国民が豊かになる事を選択し、それが成功したのである。
近代戦争史においては、敗戦国が戦勝国に「国家賠償」を支払うのが普通のやり方で、戦争で被害を受けた戦勝国の市民一人一人に「個人賠償」するなどは、過去の史実にはない。それを現在、日本政府に個人補償を訴える韓国人はこうした事実を知らないのか、あるいは韓国政府が意図的に操作しているのであろうか?
また日本では原爆の補償について、アメリカに何も求めてはいない。なぜなら、日米は国家間で平和条約を結んだのだから、それ以前のことには遡らないというのが国際法のルールであるからだ。
【中国に対する補償】
中華人民共和国は、1949年の同国の成立にともない、中国の正統政府は「中華民国から中華人民共和国に代わった」と認識している。つまり、中華人民共和国は中華民国の後継国家だ。後継国家は基本的に、それまでの国家(政府)の権利や資産を継承する(負の遺産も継承する)。
従って中華人民共和国は、中華民国が第二次世界大戦の結果とした諸成果を引き継ぐと主張している。つまり、毛沢東や周恩来が日本に戦争賠償を要求しなかったのは「好意」からでなく、出来る立場ではなかったのだ。
それに、中国は実際のところ賠償金などを遥かに上回る満州(日本が投下したインフラ)を獲得し、戦後はこのインフラを根底にして国家基盤を構築して来たと云う事実がある。
【お断り】
「昭和の時代を考える」を、これまで私なりに考察して来ましたが、医師としての本来の仕事とは離れ過ぎていると、多くの方々から批判を受けました。中には興味深いとの賛同もありましたが、やはり医師としての本来の立場に戻るべきかとの反省に立ち、誠に遺憾ながら現在併用で連載しております「診察室からコンニチハ」1本に絞る事にしました。よって「昭和の時代を考える」は今日限りとさせて頂きます。これまでご愛読頂いた読者の方々には心からお詫び申し上げます。

診察室からコンニチハ(11)

その年の残暑も未だ厳しい9月下旬に、裁判所から突然、「本日、証拠保全の手続きに入ります」との通知が届きました。私と事務長は何の事かサッパリ分からず、ただ互いの顔を見合わせるばかりでした。通知書が届いた1時間後には、裁判所から多くの職員が病院に雪崩(なだれ)込んで来ました。
「〇〇さんのカルテ、レントゲンフィルム、処方箋、検査伝票、ナース記録の全てを至急に集めて下さい」
との、一方的な指示です。〇〇さんのカルテとは、あの硬膜下血腫を起こした患者さんの記録でした。何故こんな不当な指示を受けるのか、怒りが込み上げそうになりましたが裁判所職員の前では自分の感情を露わにする事も出来ず、言われるままに従いました。
1時間ほどで〇〇さんに関する全ての情報を証拠物件として押収し、預かり書を残し裁判所職員は戻って行きました。
何か突風が過ぎ去ったかのような印象でした。それから数ヶ月後に裁判所から「告訴状」が送られて来ました。そこには3500万円の損害賠償額が付記されていたのです。何とも桁外れな請求額に思われました。こんな途方も無い金額を支払う意思は毛頭ありませんし、その根拠も分かりません。私は早速顧問弁護士に相談しました。病院の会議室で弁護士、事務長の3人で私たちは何日間も話し合いました。横浜地裁にも幾度か出向きました。暑い夏の日もあれば、寒い雪の日もありました。結審に漕ぎ着けるまでには3年弱もかかりました。途中で相手方から賠償額を1千万円に引き下げるから、それで交渉に応じないかと妥協案が提示されました。しかし当時の私は、そんな妥協案には一切耳を貸しませんでした。担当の弁護士も私の意向に賛成していました。
確かに私の方にも反省すべき点はあるかもしれません。専門外の患者さんに使用経験の少ない薬物を投与したと云う責任は逃れられないかもしれないからです。しかし、その事は幾度ともなく奥様に説明してあり、念書まで頂いてあるのです。その上、他の病院への転院も数度にわたり説得してあるのです。そんな私の言には一切耳を貸さず、事の結果だけを見て「告訴状」だけを送られても、私に納得出来る訳がありません。 
しかし相手方の攻撃ポイントは、転倒と硬膜下血腫の因果関係でした。この追求には、私も少したじろぎました。困り果てた私は、脳外科のクラスメートに相談しました。でも脳外科の友人からは明確な回答は得られませんでした。
「高齢者の硬膜下血腫は、転倒以外でも発生し得るし、一概には何とも言えない」
との返事でした。
それを聞いた顧問弁護士は、基本的にこの病院での入院加療は困難であると私が何度も申し入れたのに、相手方は転院を拒み続けていた。硬膜下血腫の発生も、その延長線上にあるのだから告訴そのものが非常識であると憤慨していました。
「何でも訴えれば、幾らかはお金が取れるのではないかとの、間違った医療訴訟が多くなって来て困る」
とも、愚痴っていました。
この事例は、あくまでも戦うべきだと弁護士に言われ、私も意を強くしていました。しかし、それにしても医療訴訟とは長い時間と根気を要する仕事でした。
その中でも私を当惑させたのは、手術をした脳外科医のカルテを和訳する様に裁判所から指示された時です。あくまで訴えられているのは私自身だから、裁判所に提出すべき証拠書類の説明は私の義務になるらしいのです。
それにしても余りに達筆な、脳外科医の横文字は暗号文に等しく数十ページに及ぶカルテの解明に、一日に数時間かけて2ヶ月以上は要しました。
江戸時代末期の杉田玄白が著した「解体新書」も、この様な苦労があったのかと思われる様な辛い仕事だったのです。
次回に続く

断章(29)

(29)日々の思い
昭和の時代を考える(その22)
【占領した連合国に対する賠償】
占領した連合国に対する賠償とは、サンフランシスコ平和条約第14条で定められているところの日本が占領し損害を与えた連合国と二国間協定を結んで行った賠償のことである。一般に狭義の「戦争賠償」は、この二国間協定による賠償を指すことが多い。この賠償を受ける事ができたのは、以下の2つの条件を満たす国である。
平和条約によって賠償請求権を持つと規定された国は、日本軍に占領されて被害を受けた国と定義された。
すなわち、この2つの条件に外れる国々は、この狭義の「賠償」権をもたない。
サンフランシスコ平和条約を締約しなかった国、または何らかの事情で締約できなかった国は、外れることになる。朝鮮(大韓民国+朝鮮民主主義人民共和国)に関して、韓国臨時政府は日本と戦争状態になく、連合国宣言にも署名していないとしてサンフランシスコ平和条約の署名国となることを承認されなかったため、この賠償を受ける権利はない。
サンフランシスコ平和条約を締約し且つ何らかの賠償請求権を持っていた連合国であっても、それが「日本に占領されて被った損害」に対する賠償のものでない場合は、外れることになる。これは、同条約第14条b項において、日本に占領されなかった締約連合国は全て「戦争の遂行中に日本国およびその国民がとつた行動から生じた請求権」を放棄したためである。
上記2条件に当該する連合国のうち、フィリピンと南ベトナム共和国は1956年と1959年に賠償を受けた。ビルマ連邦(現ミャンマー)とインドネシアはサンフランシスコ平和条約の締約国ではなかったが、1954年と1958年にそれぞれ別途にサンフランシスコ平和条約に準じる平和条約を結んで賠償を受け取った。二国間協定による賠償を受け取った国々は下記の通りである。
フィリピンが1980億円で、日本国とフィリピン共和国との間の賠償協定が成立。(1956年05月09日)、
ベトナムは140億4000万円で、日本国とベトトナム共和国との間の賠償協定が締結(1959年05月13日)
ビルマは720億 2000万円円で、日本とビルマ連邦との間の平和条約が締結(1955年11月05日)、
インドネシアは803億880万円で、日本国とインドネシア共和国との間の賠償協定が成立。(1958年01月20日)
以上の合計は3643億4880万であった。
上記2条件に当該する連合国のうち、ラオス、カンボジア、オーストラリア、オランダ、イギリス、アメリカの6カ国は賠償請求権を放棄、または行使しなかった。ただし、イギリスは当時自国領だった香港・シンガポール、アメリカは当時信託統治領だったミクロネシア諸島が日本軍に占領されたことに対する賠償請求権の放棄であるが、シンガポールおよびミクロネシアは後にそれぞれ準賠償を得ている(後述)。中国はイギリスとアメリカとで承認する政府が異なった為、サンフランシスコ平和条約に招かれず締約できなかったが、中華民国(台湾)が別途で日華平和条約(1952年)を日本と結び、その議定書において賠償請求権を放棄した。
*準賠償 
準賠償(sub-reparation)とは、賠償に準じる供与のことを言う。上で述べた狭義の「戦争賠償」である「占領した連合国との二国間協定による賠償」は、サンフランシスコ条約第14条またはそれに準じる平和条約の同様の条項において日本軍に占領された際に被った損害の賠償を受ける権利のある国として指定された場合にのみに与えられた。しかるに、これに外れる国々は占領した連合国との二国間協定による賠償を受けることができない。準賠償は主にそうした国々に対して支払われた。
次回に続く

診察室からコンニチハ(10)

この様にしてセレネース3mgの使用で、この患者さんは別人の様に大人しくなりました。食欲も良好で、拒薬もなくなりました。先ずは、メデタシ、メデタシと云った所です。
「何だ、抗精神薬だからと言って、そんなに難しいものでもないんだ」
私はそんな甘い考えを抱いて、少しばかり慢心気味になっていました。
しかし、それから10日もしない間に患者さんの病状は徐々に悪化して行きました。先ずは食欲が落ち、意識レベルも低下して一日中寝ている事が多くなって来たのです。セレネースの副作用による錐体外路障害(パーキンソン症候群)は気にしていたのですが、手の振るえや筋強剛(筋固縮)の症状は見られませんでした。それでもセレネースの副作用が気になって私は、3mgの薬を一気に中断しました。中断して数日間は意識レベルも少し戻って来ました。やはり79歳と云う年齢では3mgは過剰投与だったのかと、少し反省して暫(しばら)くは何の薬も使用せずに様子を見ていました。しかし一時的に病状は回復した様に見えたのですが、また食欲が落ち寝ている事が多くなりました。
どうもセレネースの副作用だけではなさそうです。私は直ぐに頭部CTを撮ってみました。出来上がったCTを見て、私は思わず唸ってしまいました。かなり大きな硬膜下血腫が見つかったのです。何と硬膜下血腫により、頭蓋内圧が亢進して意識レベルの低下を招いていたのでした。かなりのショックでした。すると病棟のナースが、
「そう言えば、セレネースを服用し出して5日目か6日目かに夜間にトイレで転倒していましたよ。外傷が見当たらないので、そのまま様子を見ていたんですがね」
それを聞いて私は胸の中で、そのナースに一人毒づいていました。
「馬鹿、何故それを早く言わないのだ!」と、
ともかく患者家族に直ぐに報告して脳外科の病院に転院させるしかないと考え電話を手にしました。電話に出たのは、私が再三精神科病棟に転院を勧めていた患者さんの奥様でした。
「あの、誠に申し訳ないのですが突然に硬膜下血腫の合併が見つかりました。理由は未だ分かりませんが、数日前にトイレで夜間に転倒したとの報告もナースの方からなされていますので、それが原因かもしれません。いずれにしても硬膜下血腫の手術は直ぐにでもしなければなりません。手術自体は脳外科では最も危険の少ないものですが、このまま放置していれば大きな後遺症が残る可能性もありますので早い時期の手術をお勧めします」
と、私は説明した。彼女はそんな私の話を割と冷静に受け止め、脳外科のある病院に転院する事を承諾してくれた。私は転倒の事でかなり責められるものかと危惧していたのだが、奥様からの感情的な攻撃はなかった。ともかく承諾を受け、近くの総合病院に患者さんを救急搬送した。
それから2週間ほどして脳外科の病院から一通の手紙が届いた。手術が無事に成功した事と、経過は良好で何の後遺症も認められず他の精神病院に転院となったとの報告であった。
その手紙を読んで、結果が全てハッピーで終わった事に安心して、この問題は私の頭から直ぐに離れていきました。
次回に続く

断章(28)

(28)日々の思い
昭和の時代を考える(その21)
「日本の戦争賠償と戦後補償」
日本の第二次世界大戦後の戦争賠償および戦後補償については、戦争によって損害を与えた国々および人々に対する賠償・補償問題が戦後処理の重要な課題の一つであった。なお項目名では便宜上「戦争」「戦後」としているが、同時期の戦争とは直接には関係ない、補償についても含めて述べる。
それらを含んだ戦争賠償・補償については日本と各国との間で条約・協定等が締結、履行された事と各地の軍事裁判で判決を受け入れたことで償われており、国際法上既に決着しているが、敗戦国の日本が戦勝国側(連合国)から一方的に裁かれたとする見解も存在する。
【定義】
戦争賠償(英:war reparation、戦時賠償)とは、戦争行為が原因で交戦国に生じた損失・損害の賠償として金品、役務、生産物などを提供すること。通常は講和条約において敗戦国が戦勝国に対して支払う賠償金のことを指し、国際戦争法規に違反した行為(戦争犯罪)に対する損害賠償に限らない。例えば*下関条約*において清が日本に支払うとされた賠償金3億円なども戦争賠償に含まれる。
*下関条約*
明治28年(1895)日清戦争講和のため、下関で清国の全権大使李鴻章(りこうしょう)と日本の全権大使伊藤博文・陸奥宗光(むつむねみつ)との間で調印された条約。清国は朝鮮の独立、2億両(テール)の賠償金の支払い、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲などを承認。別に馬関条約とも言う。
一方、戦後補償(英:compensation)は、戦争行為によって損害を与えた人々に対して行われる補償のことで、広義の戦後補償は戦争賠償を包含する。
*一般には、戦争賠償は国家間で処理される問題、戦後補償は被害者個人に対してなされる見舞い金的な要素として言われることが多い。
外務省の調査によると、1945年8月5日現在の在外資産の総額は次の通りである:
地域名 金額(円)
朝鮮 702億5600万円
台湾(中華民国) 425億4200万円
中国 東北 1465億3200万円
華北 554億3700万円
華中・華南 367億1800万円
その他の地域(樺太、南洋、
その他南方地域、欧米諸国等)
                        280億1400万円
合計 3794億9900万円(現在の通貨だと200兆円)
同調査には合計236億8100万ドル、1ドル=15円で3552億1500万円という設定であるが…
これら在外資産は戦後、全て現地の保有となり、この在外資産によって現地の産業や文化に、どれ程大きな貢献したかは知られていない。
連合国捕虜に対する補償 
連合軍捕虜に対する補償とは、サンフランシスコ平和条約第16条に基づき、中立国および日本の同盟国にあった日本の在外資産またはそれに等価の物によって連合国捕虜に対し行った補償である:
日本国の捕虜であつた間に不当な苦難を被つた連合国軍隊の構成員に償いをする意味として、日本国は、戦争中中立であつた国にある又は連合国のいずれかと戦争していた国にある日本国及びその国民の資産又は、日本国が選択するときは、これらの資産と等価のものを赤十字国際委員会に引き渡すものとし、同委員会が衡平であると決定する基礎において、捕虜であつた者及びその家族のために、適当な期間に分配しなければならない。
これにより日本は1955年の取り決めにおいて450万ポンド(45億円)を赤十字国際委員会に支払った。
次回に続く

診察室からコンニチハ(9)

「ピック病」の極度の人格破壊時は暴力行為も激しく、通常の外来診療では対応が困難です。ほとんど精神科領域の統合失調症(かつての精神分裂病)と対応は変わらないからです。内科の外来診察室では、大声で騒ぎまくったりしますので、多くの場合は精神科で診てもらう事となってしまいます。保護室と呼ばれる個室が必要になる事もあります。内服薬も飲んでくれないので、点滴による精神安定剤の使用で数日間はメンタルケアをしなければならなくなるケースも出て来ます。
30年程前、私が未だ認知症に対して殆ど関心を持っていなかった時期の話ですが、もちろんピック病に対して十分な知識もなく、ただ暴力行為を振るう厄介な年寄りぐらいにしか見ていませんでした。そんな折に78歳の興奮しやすい男性が入院して来ました。入院後の数日間は大きなトラブルもなく過ごしておりましたが、その内に少しずつ手が出るようになって来ました。採血の拒否は強く、リハビリも嫌がりました。食事も偏食がちで、少しでも気にいらない事があると、歩行用の杖を振り回す事も度々でした。さらに声も大きく罵声が病棟中に響いていました。一般内科での入院生活はとても難しそうでした。ナースの多くは精神科への入院を主張しました。
私も患者さんの奥様に幾度となく精神科のある病院へ転院を勧めました。
内科医の私では、抗精神薬の使い方に全く自信がないので、是非にも専門医がいる精神科で診てもらいたいと説得したのですが、奥様は世間体を嫌ってか精神科の受診には理解が得られませんでした。
「何がどうなっても構わないから、どうしてもこの病院で入院をさせて欲しい」
の、一点張りなのです。
私は仕方なく、一枚の念書を書いてもらいました。
「精神科医でない私の処方では、不測の事態により患者さんに不利益をもたらす危険性が大きいが、それでもこの病院での入院を希望する。また内科医の私が出した薬で、どの様な副作用が発生しても一切の意義を申し出ない」
と、ここまで愚かな念書を頂いて止むなく押し切られた形で入院の継続を承知してしまいました。
そして当時30歳代後半だった私は、自分では未体験ゾーンの抗精神薬の使用に踏み切ったのです。
先ずはセレネース1mg/日を5日間服用してもらいましたが、患者さんの凶暴性は一向に改善しませんでした。次にセレネースを2mgまで増量してみましたが、これでも効果は不十分でした。10日目には3mgまで増量しました。この3mgで何とか満足の出来る程度に興奮を抑制できました。
次回に続く