想い出は風の彼方に(81)

浩司の心は鬱積(うっせき)していた。
このまま家に帰る気にもならなかった。足は何時しか酒屋の吉村の家に向かっていた。医学部の同級生とは話をしたくなかったが、誰かと話はしたかった。まるで関係のない吉村が急に懐かしく思えた。夕方6時前には吉村の家に着いた。吉村は仕事が一段落したのか、暇そうに店番をしていた。
「おや、篠木じゃないか。どうした、何か用か。そうか、綾子か…ちょっと待ってくれ、直ぐに呼ぶから」
「いや、今日はお前と話がしたくなったのだ」
「珍しいな、男の俺と何の話だい!」
「いゃあ、別に大した話がある訳でもないんだが何となくな…」
「どうした、何があったんだ?」
吉村が訝(いぶか)し気に尋ねた。浩司が話題を逸らした。
「そう言えば高校時代に、ここでバイトした事があったよな…」
懐かしそうに浩司が独り言の様に呟いた。
「確かに、そんな事もあったな」
吉村も懐かしそうに頷いた。
「吉村の親父さんが、心筋梗塞で突然の入院になった時だ…綾ちゃんは小学6年で、俺とお前は高2になる直前の春休みだった。あれから8年もたっているんだよ。お前もすっかり酒屋の親父になっているしな…」
吉村が少し混ぜかえす様に、
「よく、そんな事を覚えているな。それにしても小学6年の綾子が、篠木のフィアンセになっているんだから驚きだよ」
そう言われて、浩司は少し照れた顔をした。そんな話の最中に綾子が急に顔を出した。
「あら、来ていたの。お店の中で男二人が何を話し込んでいるの…何故、浩司さんに上がってもらわないのよ」
綾子が兄を責める様に言った。
「いゃあ、今日の篠木は少し変なんだ!…綾子より俺と話したいって言うんだよ」
「そんな、嘘でしょう!」
綾子は、咎めるように浩司の顔を睨んだ。浩司は彼女の視線を避ける様にして
「男同士で話したい時もあるんだ」
と、言い訳の様に呟いた。
「まあ、それなら好きなだけ二人で話していたら…」
「綾ちゃん、そんな言い方はしないでくれ。今日の俺は気持ちがブルーなんだ。昔懐かしい吉村と、どうでも良い話しを訳もなくしたかったんだ。気持ちが落ち着いたら後で理由は話すよ。綾ちゃんお願いだから、怒らないで…君の感情を損ねたなら謝る。今の僕は自分で自分が分からなくなっているんだ。吉村、綾ちゃんを少し連れ出しても良いかな?」
「別に俺に断らなくても、綾子が良いならどうぞ。二人はフィアンセ同士なんだから…」
「綾ちゃん、ちょっとそこまで付きあってくれる…!」
「一体、どうしたの?」
そう言いながらも綾子は、浩司の後に付いて来た。家から少し離れた公園のベンチに座り、浩司は綾子の手を握り
「綾子、俺はどうして良いのか分からないんだ」
そう言うなり、綾子を思い切り抱きしめた。二人だけになると、浩司は彼女を呼び捨てにした。綾子は抱きしめられながら、
「浩ちゃん、嫌な事があったのね。大丈夫、何時だって私がそばに居るわよ。さっきは強い言葉を使って、ご免なさいね」
「綾子…好きだよ!」
突然に浩司は綾子の唇を求めて来た。
彼女は浩司のなすがままにさせておいた。
次回に続く
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