想い出は風の彼方に(82)

冬の夜は早かった。公園の中は真っ暗だった。しばらく二人は何も言わず、ただ抱き合っていた。浩司が何を悩み苦しんでいるのかは分からなかったが、浩司の気持ちの鎮まるまで彼女は待ち続けていた。その内、浩司の口からポツリポツリと言葉が漏れ出した。
「俺は下らない人間だ。およそ医者になど向かないんだ」
そう吐き捨てる様に、浩司は誰に言うでもなく自分自身を罵(ののし)った。
独り言の様に呟きながらも、小児科病棟での経緯(いきさつ)をゆっくりと話し出した。
4才の和也くんの病気の事、仮面ライダーの話、病理解剖での自分の心の動揺などを語りながら浩司は涙ぐみ出した。そして自分を責める様に、
「俺なんか何の役にも立たない。和也くんの気持ちを慰める事さえ出来ないんだ。ただ彼の最期にオドオドしながら立ち竦(すく)んでいるしか出来ない能無しなんだよ。こんな人間が医者になんかなって、どうするんだ!」
上ずった浩司の声は、犬の遠吠えに近かった。
「浩ちゃん、そこまで自分を責めないで…私はそんな浩ちゃんが大好きよ。誰よりも傷つきやすく、感受性が豊かだから、そうやって自分を責めるのよ。だって他のクラスメートの人も皆んなが、浩ちゃんみたいに落ち込んでいる訳ではないでしょう?」
「まあ、そりゃそうだが…でも和也くんを担当していたのは僕だけだ」
「そうなんだ。でも取り敢えず家に帰りましょう。寒くなって来たでしょう。何時までも、こんな公園にいたら風邪を引いてしまうわよ。何か温かい物を作るわよ、お腹も減ったでしょう」
綾子にそう言われて、浩司は急に空腹感を覚えた。家に帰るや、綾子は台所に立って母親と一緒にオデンを煮込み始めた。今夜のおかずは最初からオデンだったので造作もなかった。綾子の一家と浩司の4人で、まるで家族水入らずみたいな夕食となった。兄に言われ、綾子は熱燗を数本付けて来た。
親友の吉村と酒を飲むなんて、考えてみれば始めての事だった。冬の夜に熱燗とオデンの組み合わせは抜群だ。吉村と二人で4本の熱燗は、あっと言う間に飲み干してしまった。飲む程に自分が哀れになって来た。和也くんのご両親は、解剖された小さな亡骸(なきがら)の前で、涙に明け暮れているに違いないのだ。それなのに自分は好きな女の家族と一緒に酒を飲み続けている。
「好い気なもんだ…!」
背後で自嘲じみた声が聞こえて来る感じがする。でも今夜は酒に溺れたい、自分の弱さを知りつつも酒に浸り何もかも忘れたかった。これ以上、自己嫌悪に陥っても、それはただの自慰行為にしか過ぎないだろう。それなら気障ったらしい言い訳などせず酒に酔いを任せるのが良いかもしれない。そして明日から立ち直ろう。そんな事を酔いが回った頭で、浩司は考えるともなく考えていた。綾子が心配になったのか、
「もう、お酒は程々にしたら…」
と、言い出すと…吉村が、
「お前は、今から何を古女房みたいな事を言っているのだ。そんな事を言っていると篠木に嫌われるぞ…なぁ、篠木」
「僕が綾ちゃんを嫌うなんて事は絶対にあり得ない。綾ちゃんが僕を嫌ってもだ」
酔いの回った頭で浩司は、そう抗弁した。
「聞いたか、綾子。篠木はお前が死ぬほど好きだって…馬鹿らしくっていられないよ。お前たち、早く結婚してしまえ」
「お兄ちゃんも、酔っ払って何を言い出すのか呆れるばかりだわ。もう、お酒は出しませんからね」
そう言って、綾子は兄を睨んだ。
次回に続く
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