想い出は風の彼方に(87)

綾子は妊娠38週目には実家に帰った。それに伴い浩司も綾子の実家で寝泊まりする事が多くなっていた。二人のマンションから綾子の実家までは、車で30分くらいだ。医師国家試験が終わった直後に、浩司は車の免許を取り、医師になってからはマイカー通勤をしていた。浩司の帰る時間は不規則だった。重症の入院があると、帰りが12時を過ぎる事も稀ではなかった。そう云った状況では出産間近の綾子を彼女の実家で預かってもらうのが安心だった。綾子の兄と母親も、浩司の医者としての忙しさは十分に理解していた。ともかく母親は初孫の出産に、期待を大きくしていた。男の子であるのか、女の子であるのか、いや何よりも五体満足で生まれくれば良い。そんな楽しい悩みを、あれこれ浩司に語っていた。
出産予定日の5日前、綾子は強烈な下腹部の痛みを訴えた。浩司は夕方8時には戻り、彼女の実家で夕食を終えたところだった。痛みはどんどん厳しくなって来る様だ。少し早いが陣痛であるだろうと考え、浩司は自分の車で綾子が定期検診を受けている産婦人科に連れて行った。
自分の車の助手席に綾子を寝かせ、ゆっくりと速度を落とし産婦人科クリニックに着いたのは9時近くになっていた。綾子の痛みは激しくなるばかりで、産婦人科の玄関先からはストレッチャーに乗せ分娩室に向かった。未だ若いバイトと思える医師が出て来た。自分よりは2、3才上ぐらいかなと、浩司は思った。普通の分娩だったら構わないが、異常分娩だったら、この若い医師で大丈夫なのかと浩司の脳裏には、微かな不安が走った。綾子の下腹部を手早く診察した若い医師は、顔を蒼白にして慌てながら叫んで、
「院長を直ぐに呼んでくれ、僕一人ではとても無理だ」
と、脇にいる看護婦を叱った。
綾子の下腹部からは多量の出血が見られた。浩司は自分が医師である事を告げ
「一体、妻の身に何があったんですか?」
と、当直医に迫った。彼は浩司の質問に答える代わりに看護婦に向かって輸血の準備を指示した。そして浩司に向き直り、
「奥さんの病状は、胎盤の早期剥離だと思います。ともかく母子共に大変危険な状況です。輸血の準備をしながら、帝王切開に持って行きますが、ご了解頂けますね…」
産科医の予期せぬ返事に、浩司は当惑して言葉を失った。
「胎盤早期剥離…」
浩司は学生時代の産科で学んだ知識を、もう一度思い返していた。そうか、確か…
「常位胎盤早期剥離」
とか云う病名で、妊娠末期の重篤な疾患である事だけは思い出した。しかし、浩司の持っている知識は国家試験前の受験勉強程度の範囲でしかなかった。
それでも胎児を産み出す前の、胎盤早期剥離がどの様な危険を生み出すかは容易に想像できた。胎盤を通じてのみ胎児は栄養も酸素も取り入れているのだ。羊水中で自発呼吸をしている訳ではない。子宮動脈から胎盤を経て赤ん坊は生命を維持しているに過ぎない。その胎盤が早期に剥離してしまうと云う事は、お腹の赤ん坊がその生命を絶たれてしまう事に等しい。そこまでは内科医の浩司にも分かり過ぎる程だった。
次回に続く
関連記事

コメント