想い出は風の彼方に(88)

こんな小さなクリニックで、本当に大丈夫なのか?…浩司は限りない不安を覚えた。出来るなら母校の大学病院に連れて行きたかった。
しかし、輸血までしなければならない状態で大学まで搬送するなんて事が可能だろうか?…浩司は胸の中で一人煩悶していた。やがてクリニックの院長と副院長が同時に駆けつけて来た。院長は母校の先輩で講師まで勤めていた。3年前に父親の後を継ぎ、今の産科を経営している。浩司も学生時代には、病棟実習で指導を受けた事があった。かなり優秀な医師であったとの印象が強い。父親の急逝がなければ、そのまま大学で辣腕(らつわん)を振るっていただろう。
そんな事を思い出しながら、やはりこのクリニックで様子を見るしかないと浩司は考え直した。院長は浩司の顔をチラッと見て、
「ともかく精一杯の努力はするから、篠木くん私に任せて欲しい」
そう言って分娩室に入って行った。
後は神に祈る思いで、院長の腕を信頼するしかないと、浩司は心で決めた。
一時間たっても分娩室の扉(とびら)は開かない。綾子とのこれまでの甘い生活が走馬灯の様に頭の中を駆け巡る。彼女と本格的な交際が始まって8年目、結婚して3年目でしかない。それなのに、早くもこんな重大な危機に立たされるなんて…もし、ここで綾子を喪(うしな)うなんて事になってしまったら、自分の明日はどうなるのか?
それから待つ事、さらに1時間。分娩室の扉が開いた。院長が疲れの色を全身に漂わせ出て来た。
「篠木くん、済まない」
そう言って、深々と頭を下げた。
「えっ…!どう云う意味ですか?」
浩司は飛び上がらんばかりに驚いて尋ねた。
「赤ちゃんは、駄目だったんだ」
そう言って院長は苦し気に話した。
「綾子は、綾子はどうなんですか?」
浩司は我を忘れて院長に駆け寄った。
「奥さんは、何とか一命を取り留めたが…」
「綾子は大丈夫なんですね?」
「未だ安心は出来ない。ともかく全身の衰弱が著しいので、予断は許さない」
「お願いです、せめて綾子の命だけは救って下さい…!」
「分かっている、分かっているよ、篠木くん。ともかく少し落ち着いたら大学に搬送するから…今は子宮収縮剤を使って、胎盤剥離後の出血を抑えている所だ。この後はDIC(播種性血管内凝固症候群)を併発する危険性もあるから、そうなったら大学で診てもらうしかない」
「DICですか?」
そう尋ねて、浩司は溜め息をついた。そうなると、産科ではなく血液内科が専門となる。血液内科の沢近医師の顔が思わず頭に浮かび上がって来た。沢近医師なら、この難局を何とか乗り切ってくれるだろう。
それにしても、こんな重大な時期に大学ではなく市中病院で勤務を余儀なくされている我が身が切なかった。
取り敢えず、綾子の母親に電話をかけなければならない。何と説明したら良いのか、途方に暮れるばかりだ。でも、連絡をしない訳にはいかない。
「もし、もし、お母さん。浩司ですが…」
彼は言葉を選びながら慰める様に、ゆっくりと難しい医学用語は避けて事の顛末(てんまつ)を説明した。
次回に続く
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