想い出は風の彼方に(89)

綾子の母親は、思った以上に冷静だった。電話をしたばかりの時は、少し涙ぐんでいるようだったが直ぐに落ち着きを取り戻し、
「綾子さえ無事なら良いわよ。あなた達は未だ若いんだから、子供はこれからでも作れるわよ」
と、逆に慰められた。その綾子の身も未だ安心は出来ないとまでは、さすがに浩司の口から言えなかった。電話を一度切って、院長に綾子との面会を求めた。彼女は既に病室に移っていた。そこは看護勤務室の隣で、十分な管理体制の下に置かれていた。少しだけならとの許しを得て綾子のそばに寄り添い、優しく手を握った。綾子は目を覚まして、
「ご免ね、赤ちゃんの事…」
そう言いながら、頬を濡らした。
「綾子さえ元気なら、良いんだよ。お母さんもそう言っていたから」
「あら、母の所にも電話をしてくれたの?」
「そりゃ当然だろう!」
「そう、どうも有難う。皆んなをガッカリさせちゃったわね」
「そんな事は気にするなよ。それより綾子が元気になる事が先だよ」
「浩ちゃん、浩ちゃん。今でも私の事を愛している?」
「馬鹿だな、何を言ってるんだ。愛しているに決まっているだろう」
「赤ちゃんが出来なくても良いの?…これから先もよ…」
「何を弱音を吐いているんだ。赤ん坊は欲しいけど、それと綾子への愛とは別だ…」
「本当に!」
綾子は声を震わせて、泣き出した。
浩司は綾子の頬にそっと唇を押し当て、彼女の肩を抱いた。
「何も心配しないで、今はゆっくりお休み。ずっとそばにいるから…」
綾子は気持ちが落ち着いたのか、浩司の手を握りながら瞳を閉じた。
しばらくして、軽い寝息が聞こえて来た。浩司は静かに病室を出た。時計の針は午前0時を回っていた。
浩司の身体も鉛の様に重かった。取り敢えずは、自分のマンションに戻った。綾子の実家では疲労が取れそうにない。ともかく一人静かに眠りたかった。シャワーだけ浴びて2時にはベッドに潜り込んだ。直ぐ睡魔が襲って来た。7時には目が覚める。不快な寝汗でパジャマがかなり湿っていた。夢の中で魘(うな)されていたのか、理由は分からない。熟睡感はまるで無いが、何とか起き出す。洗顔だけして30分後にはマンションを飛び出す。途中のコンビニで、オニギリとお茶を買って車の中で食べる。食欲は湧かなかったが、ともかく口にした。そして勤務中の病院に電話を入れ、数日間の休暇願いを申し出る。8時半には綾子の病室に辿(たど)り着いた。看護勤務室に声をかけ、綾子のそばに近寄る。朝食には全く手が付けられていない。手をそっと握ると、綾子が目を覚ました。
「お腹は空かないのか?」
浩司が心配そうに尋ねると、彼女は黙って首を横に振った。その表情に痛々しさが込み上げて来る。優しく綾子の胸から腹を見回す。夫ではなく医師の目で…不吉な予感が当たった。点状出血が随所に認められた。
浩司は急ぎ大学に電話をして、沢近医師を呼び出す。幸いにも彼は出勤していた。詳しい事情を説明して入院要請を泣き出しそうな声で懇願した。
次回に続く
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