想い出は風の彼方に(90)

沢近医師は、優しさの中にも冷静さを失わずに浩司を受け止めた。
「篠木、落ち着け。それで奥さんの性器出血の方は止まっているのか?」
「まだ、ここの院長先生に今朝はお会いしていないので性器出血の事は分かりません。しかしDICが合併されているとなると、性器出血は続いていると考えた方が良いのでは…」
「まあ、そうだろうな。院長先生が来たら大学での受け入れは大丈夫だからと伝えてくれ。ベッドの方は俺が責任を持って確保しとくから」
「有難うございます。間もなく9時になりますから、院長先生もお見えになると思います。また、直ぐお電話をしても良いでしょうか?」
「あゝ、こっちへ転院の準備が整ったら電話をしてくれたまえ…」
「分かりました、そういたします」
9時少し前に院長が寝不足の目で出勤して来た。先ずは綾子の病室に来て内診を行い、首を傾げた。病室前で不安気に佇(たたず)んでいる浩司に…
「未だ性器出血は続いているみたいだ。やはり大学に転送した方が良いだろう」
と、済まなそうに言った。
「分かりました。血液内科の沢近先生には連絡を付けて置きましたので、院長先生の紹介状が頂ければ、直ぐにでも私が付き添って大学に移します」
「申し訳ないけど、そうして頂けますか。では直ぐに紹介状を書きます」
そう苦し気に院長は言って、急ぎ紹介状を書いて浩司に渡してくれた。院長自らが119番に電話を入れ、浩司は綾子に付き添い救急車に乗り込んだ。
大学に転院すると聞かされ、綾子は一瞬怯(ひる)んだ。浩司は彼女の手を握りながら励ました。
「心配ないよ。産後の経過が良くないので大学で診てもらう事にしただけだから…」
「私、このまま死ぬなんて事はないわよね」
「馬鹿だな、そんな心配は全くないよ。ただ念には念を入れているだけの事だから…ともかく俺に任しとけ。綾子の事を誰よりも考えているのは、この俺なんだから…」
「浩ちゃん、ご免ね…大好きよ」
そう言いつつ、彼女は縋(すが)るよう
に浩司の手を握りしめた。
救急車が大学に着いたのは午前10時、綾子はそのままICU(集中治療室)への入院となった。沢近医師が次から次へと指示を出して行った。
検査データは、紛れもなくDICであった。フィブリノゲン低下、血小板減少、FDP上昇、プロトロビン時間の延長などの全てがDICである事を物語っていた。これらの検査は緊急ラインで実施した為に、午前中には綾子の診断が確定した。
沢近はそのデータを受けて、直ぐにDICの治療にかかった。彼の迅速な対応と適切な治療により、綾子の性器出血は4日目には止まった。血小板数は10日間で3千から20万と大幅に改善して行った。僅か2週間でDICは確実に克服され、綾子は退院となった。
全身の点状出血もほぼ消えたが、彼女の心の傷は深かった。自分が普通の女としての機能を果たせなかった事への切なさは、何時迄も彼女の脳裏に残った。これからも浩司の子供を、まともに産めないのでは…そんな不安が胸の中で日々大きくなって行く感じがした。
次回に続く
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