想い出は風の彼方に(91)

市中病院で、浩司はまた忙しい日々を過ごしていた。日本でも頭部CTスキャンが少しずつ普及し始めていた。
最初に生産されたX線CT(EMIスキャナーと呼ばれた)は脳の断層撮影に用いられた。2つの断層データを得るのに約4分かかった。そして断層画像を得るのに、データゼネラル社のミニコンピュータを使用して画像一枚あたり約7分かかった。この頃EMI社に所属していたビートルズの記録的なレコードの売上が、CTスキャナーを含めたEMI社の科学研究資金の供給元だったとも考えられた為、CTスキャナーは「ビートルズによる最も偉大な遺産」とも言われていた。
日本におけるCTの導入は、EMIとレコード事業(東芝EMI)で提携関係のあった東芝が1975年8月に輸入し、東京女子医科大学病院に設置されて脳腫瘍を捉えたのがはじまりである。ただし、このスキャナーはニクソンショックによる変動為替相場制導入後でも1億円(現在の概算で10億円単位)を下らない費用を要する代物で、日本政府側の自賠責保険の運用益から交通事故時の頭部外傷に役立てるような研究的意味で購入され始めた物である。
もちろん、浩司が勤務していた市中病院には未だCTスキャンは設置されてはいなかった。母校の大学病院でCTスキャンが設置されたのは、東京女子医大の設置から4年遅れてからの事であったから、市中病院に出回るのは更に数年以上は経っての事だった。
浩司が医師国家試験に合格したのは、1973年なので彼はCTスキャンやエコー検査の狭間(はざま)にいたのである。だから浩司が医師になったばかりの時代は、聴診器などの聴き取る力が重要視されていたし、触診だけでも相応の診断を付けるのが名医と呼ばれていた。そんな時代であったから、浩司は画像診断の教育は学生時代には受けていなかった。医師になって5、6年目ぐらいから独学で学んだのだ。
さらにCTスキャンの解説書も当時は英文しかなかったので、その読破だけでも苦労であった。
そうした画像診断など普及していなかった時代に、浩司は市中病院で一般内科に加え結核病棟も診ていた。都内の大学病院でも結核病棟が普通にあった。この頃は抗結核剤の開発が進んでいたので、結核で亡くなる人は激減していた。治療方針も確立していたので、結核病棟の勤務は一般病棟に比べ楽だった。隔日に1時間ぐらい結核患者を診に行っていたが、殆んど看護婦とお茶を飲んで雑談するのが仕事みたいだった。
それに比べ一般病棟は、常に重症の患者が入退院を繰り返し目の回るような忙しさである。糖尿性昏睡、急性心筋梗塞、ネフローゼ症候群、急性間質性肺炎、髄膜炎など病状も多彩で日々緊張の連続だった。
また内科外来は、何処からこんなに患者が集まって来るのかと云うぐらいで、午前診の終わるのはいつも午後2時過ぎだった。外来は4人の医師が当たり、1日で300名から400名の診察を余儀なくされた。昼食は10分ぐらいでかき込む様に食べ、直ぐに入院患者の診察が始まる。一段落して時計を見ると夜8時過ぎになっている事が多かった。そんな状態では夫婦の会話も少なくなっていた。
次回に続く
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