想い出は風の彼方に(92)

綾子は退院後、1ヶ月ぐらいは実家で寝たり起きたりの生活をしていた。浩司は週に2度ぐらいは綾子の元に帰り、夕食を供にしていた。しかし、市中病院での仕事が遅くまでかかると、病院近くの中華料理屋とか和定食の店で食事を取り自分のマンションに戻って行った。夜10時過ぎに綾子の実家に行って夕食を食べさせてもらうのは、少しばかり気が引けた。
「どんなに遅くなっても良いから、綾子のそばで食事をして欲しいわ」
と言われても、やはりそんなには甘えられなかった。何か夜遅く、腹を空かした野良犬の様に綾子の実家で夕食を取る自分が嫌で仕方がなかった。それでも妻の産後の精神的な落ち込みを考えると、顔を出さずにもいられなかった。そして綾子のそばに寄ると人目を忍んで、唇を合わせたり肩を抱き寄せたりはしていた。そんな浩司の行為を彼女も何処か心待ちにしている様子だった。綾子は未だ25才にもなっていなかった。夫の愛に縋(すが)りたい年令である。4才年上の浩司も妻を心より慈しんでいたし、産後とは言え妻は十分に魅力的であった。そんな二人ではあったが、現実の生活が彼等を少しづつ遠ざけていた。
医師になって5年目、浩司は自分の仕事に夢中であった。夢中と言うよりは、余りに学ぶべき事が多かった。学生時代の勉学とは比べものにならない責任感が伴っていた。昼と言わず夜と言わず、食事時も常に医学書から目を離す事がなかった。最先端の医学雑誌には出来る限り目を通していた。自分の不勉強さで受持ち患者さんを死なせてしまう事だって起こり得るのだと云う、焦燥感に何時も捉われていたのだ。そして市中病院での出張勤務も後任医師の突然の交通事故死で、勤務が1年延ばされてしまった。臨床経験を積み重ねるには文句の言いようのないハプニングであったが、浩司は早く大学に戻って博士論文の仕事に取り掛かりたかった。
実家で寝たり起きたりしながら、綾子は悩んでいた。体調が回復するにつれ、総合商社での仕事に戻りたいと思う気持ちが強くなって来た。しかし、彼女の兄と母親が盛んに留める。母親は言う。
「綾子、お前がこのまま職場に復帰してしまったら、浩司さんとの夫婦関係にヒビが入らないかい。浩司さんは今、医者として一番大変な時じゃないのかね。お前の仕事も大切だろうが、ここはお前が一歩引くべきではないかと私は思うのだよ…」
そう実の母に言われてしまうと、綾子には返す言葉がなかった。自分のキャリアとしての道を取るべきか、妻として「内助の功」に徹するべきか悩む所であった。浩司に相談したら何と答えるのか?…恐らくは彼女の好きな様にして良いと言ってくれるだろう。
でも、彼の本音は違うだろう。やはり自分が何時も家にいて彼の帰りを待っている事を、本当は望んでいるに違いない。考えれば考えるほど綾子の悩みは大きくなる。
会社からも見舞いが来ていた。彼女の直ぐ上の上司が常務からの指示だと言う事で、果物籠を持参して来た。
「お身体の調子が戻ったら、早く会社に戻って来て欲しい。常務も篠木さんの現場復帰を心待ちにしている」
と伝えられ、綾子の迷いは深まるばかりだった。
次回に続く
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