想い出は風の彼方に(93)

会社からお見舞いとして、果物籠が届けられた日の夕方、綾子と兄は久しぶりに兄妹喧嘩をした。
「綾子、母さんの言う通りだ。会社なんか辞めちまえよ。篠木が可哀想だ、何の為にお前と結婚したんだ。家の中で夫を支えるのが、妻の役目だろう」
「何を古くさい事を言っているのよ。そんな時代遅れの事ばかり言っているから、お兄ちゃんには何時までたってもお嫁さんが来ないんじゃないの?」
「何だと、この野郎。お前はそんなツッパった事ばかり言っているから、満足な子供の一人も出来ないんじゃあないのか?」
「それって、何よ!…いくらお兄ちゃんでも、言って良い事と悪い事があるんじゃあない」
「うるさい、俺の言いたい事はだな。妊娠して大事な身体の時に、お前がぎりぎりまで仕事を押し通して来た事を言っているんだ」
「何よ、そんな事は私の勝手でしょう」
「いや、勝手じゃあない。お腹の子供はお前一人のもんではない。父親の篠木のもんでもあるし、お袋だって楽しみにしていたんだ。もちろん、俺もな」
綾子は急に子供みたいな大声で泣き出した。
「そんな事を言ったって、今さらどうしろって言うのよ…!」
「綾子、俺は何もたった一人の妹を責めて虐(いじ)めようって云うつもりは全くないよ。ただ篠木とお前が仲睦まじく暮らし欲しいと願うだけだ。言い過ぎたら謝るから、会社に戻るのは考え直してくれないか…」
そこまで兄に言われると、会社に戻ろうとしていた彼女の決意も揺らいだ。
夜8時、浩司は珍しく早かった。吉村の家では笑いに満ちた夕食となった。
食後は綾子も後片付けを手伝った。
10時過ぎ、浩司と綾子は6畳間に布団を二つ並べて敷いた。浩司は綾子の頬に軽く口づけをして、自分の布団に戻ろうとした。しかし今夜は、綾子が誘った。浩司は微笑を返しながら、
「無理すんなよ」
と言って、綾子から離れようとした。
「浩ちゃん、お願いだから私を抱いて。それとも私の事が嫌い…!」
「嫌いな訳がないだろう。でも身体の方は大丈夫か?」
「もうすっかり元気よ。それより浩ちゃんには随分と寂しい思いをさせて、ご免ね」
そう言って綾子は浩司の布団の中に入って来た。彼に綾子を拒否する理由は全く無く、二人は久しぶりに心から夫婦の営みを楽しんだ。営みの後も綾子は、なかなか寝付けなかった。浩司は満足気に安らかな寝息を立てていた。そんな浩司の寝姿を見て、彼女は明日会社に退職届けを出すつもりになっていた。やはり自分は、この人の妻でいるべきだと云う思いを強くした。兄の言う通りかもしれない。専業主婦になって、今度こそ元気な赤ちゃんを産もう。そんな決意を固めて浩司の顔をもう一度見た。愛おしさが込み上げ、もう一度浩司の布団に入り込んだ。彼は寝ぼけ眼(まなこ)で、
「綾子、うん…どうした寝ないのか」
と、尋ねて来た。彼女は小さな声で
「浩ちゃん、ご免ね。もう一度抱いて欲しいの」
と、耳元で囁いた。浩司は笑いながらも、彼女の求めに応じた。
次回に続く
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