想い出は風の彼方に(94)

その数日後には、綾子が二人のマンションに戻った。使われなかったベビーベッドが、寂しく彼女の目には写った。誰も吸わない母乳が、まだ沁み出て来る。そんな女の生理を綾子はしばらくの間、持て余していた。洋服箪笥の中には、赤ん坊の下着やオムツが丁寧に仕舞われていた。全身の力が抜けて行く様だった。スーパーで買って来た食材を冷蔵庫に片付けた後は、立ち上がる気力もなく一人缶コーヒーを飲んでいた。喪った赤ん坊の事を考えると、寂しさで胸が一杯になって来る。午後4時過ぎ、浩司の病院に電話を入れてしまう。仕事中の夫の元に電話をかけるのが、どんなに非常識な事であるかは分かっていた。それでも手は受話器に伸びていた。
「あなた、ご免なさい。病院にまで電話をして…我儘(わがまま)を言って申し訳ないんですけど、今日はどうしても早く帰って来て欲しいの。こんな我儘は二度と言いませんから、今日だけはお願い…ね!」
「分かった、何とか理由を言って抜け出して来る」
浩司は、嫌がらずに綾子を慰める様に答えてくれた。電話を切った後から、綾子の頬を幾筋もの涙が溢れ落ちた。
何か、緊張の糸が切れた感じであったかもしれない。
事実、浩司は6時前には帰って来た。
こんな早い時間に帰るなんて事は結婚して幾度しかないだろう。晩秋の夜は早い。真っ暗な部屋の中で綾子は一人佇(たたず)んでいた。
「綾子、どうした。こんなに部屋を暗くして、驚くじゃあないか?」
「あら、本当に早く帰って来てくれたんだ。ご免ね、一人でいると赤ちゃんの声が聞こえて来る様で…寂しさで自分が自分でないみたいなの」
そう言って、綾子は浩司に擦り寄って来た。そんな彼女を浩司は暖かく迎え入れ唇を重ねた。そしてベッドの上でもつれる様にして抱き合った。今、夫として何をすべきか浩司は十分に理解していた。それは傷ついた幼な子を慈しむかの様な心境だった。それは夫と言うよりは父性的な感覚に近いものだった。そんな浩司の胸の中で綾子の心に雪解けの様な温もりが伝わって来た。30分近く抱き合ってから浩司が綾子に語りかけた。
「駅前にイタリアンの新しいお店が出来たんだよ。評判は良さそうだが、未だ一度も行ってないんだ。今夜はそこで夕食にしないか?」
「うん、美味しそうだわね。でも、私が食事を作るべきなのに…ご免ね、甘えてばかりで」
「まあ、良いさ。今日は平日だから、並ばないで入れるかもしれない。二人でワインを飲みながら、イタリアンも悪くはないだろう…」
「何だか話だけで心が豊かになって来るわ。浩ちゃん大好きよ!」
「やっと元気になったな。それじゃあ出かけるか」
「うん、ワインなんて久しぶりだわ。今夜は赤ワインが良いかな!」
「そうだな、赤と白を少しずつ飲み比べてみるか」
「それも良いわね」
綾子は、浮き浮きした気持ちになって浩司の腕を取った。
駅前のお店まで歩いて10分ぐらいだった。彼女はすっかり精気を取り戻し、何時もの陽気さを取り戻した。
翌朝からは、朝食もしっかり準備して浩司を明るく職場に送り出した。
次回に続く
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