想い出は風の彼方に(98)

結局、浩司は学会デビューを見送った。綾子は何も言わなかったが、失望の色が顔に出ていた。浩司の優しさに惹かれて一緒になったのではあるが、男として野心の無さに少し見込み違いを感じたのは事実だったかもしれない。
それ以上に大学での反応が辛辣だった。折角の学会デビューを棒に振った訳の分からない男として、先輩医師は彼を軽蔑した。大学病院の本質は、臨床(診療)と研究の二本柱が中心であるが、その上に学会がある。その学会を棒に振るなんて事は、大学に席を置く者としては常軌を逸する出来事だった。その結果、大学では誰も彼を相手にしてくれなくなった。市民病院での出張も一年が二年になり、更に三年になろうとしていた。
そんな彼を救ってくれたのが、血液内科の沢近医師だった。沢近は臨床と研究に自分の時間の殆どを割いていたが、唯一の趣味は麻雀だった。出世欲に乏しく、長野でも群馬でも白血病の患者が見つかったと聞かされると、直ぐに飛んで行く様な人間で目先の損得は全く考えなかった。それでいて学会での興味あるテーマは、自分の部下達に惜しみなく分け与えていた。地位とか名誉とかに関係なく、医療そのものに充実感を味わっている。そんな彼を大学では変わり種の一種と考えている様子が、時に見え隠れする。それでも彼の医学的な実績は飛び抜けていたので、教授と言えども彼の医学的発言には一目置いていた。
恒例の大学医局会忘年会シーズンとなって、浩司も時間の都合をつけて何とか参加した。久しぶりに沢近と談笑する機会にも恵まれた。彼の方から思い出した様に浩司に質問を投げかけて来た。
「篠木は何時まで市中病院にいるのだ。確か1年の予定だったんじゃないか?」
「はい、その予定だったんですが、後任が決まらないないとか言われ伸び伸びになっているんです」
「そんな馬鹿な事があるか、それじゃあまるで島流し同然だろう」
浩司は何も言えずに、ただ俯いていた。
「何か医局と問題があったのか?」
浩司は少し考えて、弁明するかの様に問題と言えば、勧められた学会デビューを断った事はありましたがと切り出した。その時の事情も詳しく話した。浩司のその時の心情が学会デビューに踏み切れなかったとも正直に打ち明けた。沢近は途中まで黙って聞いていたが、一言…
「お前のその学会デビュー拒否自体が跳ね返りに映った事は確かだろうな。下衆の勘繰りだが、まあ良いやね。俺が何とかしてやる。このままじゃあ、お前の博士論文だって夢の話になってしまうしな…」
「すみません、宜しくお願いします」
「まあ、お前は黙って待っていろ。数ヶ月以内には俺が必ず大学に戻してやるから…」
そう励まされ、浩司は静かに頭を下げた。
それから一ヶ月もしない間に、医局から浩司に大学への復帰命令が出た。沢近が後ろで手を回したに違いないが、その迅速さには驚くばかりだった。
沢近は医局長にそれとなく話したのだ。近隣からも白血病患者が多く来て、血液内科の医師が少なくて困っているから篠木を至急に大学へ戻して欲しいと。彼の一言で篠木の大学復帰は即刻決定された。
次回に続く
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