想い出は風の彼方に(99)

32才の春、浩司はやっと大学に戻った。同時に有給の医局員の席も用意されていた。大学でもらう給与には特別な感慨がある。医師の国家試験に合格して7年目で有給の医局員となれたのだ。市中病院に行くまでの5年近くは無給でいたので、市中病院でもらう給与より少なかったが、それでも20万円と云う月給は有り難かった。これで入職7年目の看護婦と同じ待遇になったのだ。
大学でも一人前になったと云う思いが、浩司には更なる前途が約束されている様な気がしていた。給与こそ安いものの、大学では研究日と云う名のバイトが平日で1日、夜勤のバイトでは本人の体力が続く限り許されていたので、毎月の収入は手取りでも50万円は超えていた。生活は格段に向上した。夏休み、正月休みと綾子と二人で旅行する事も多くなった。大学卒の初任給が12万円時代の話しである。
1970年代から新設医大ラッシュが10年間にわたり続き、医師の数が倍増して行った。1961年に国民皆保険制度が出来上がり医師不足が大きな社会問題となって、46校だった医大が一気に80校にまで増やされた。しかし、新設医大の卒業生が社会に出るのは1980年以降であったので、その間、医師のバイトは売り手市場が続き本人の体力次第では、月に100万円以上も稼ぐ者もいた。浩司自身も頼まれバイトが多く、月に90万円近く稼いだ事もあった。そうなると家に帰るのは週に一度あるか無いかになってしまう。収入はともかく、これでは何の為の夫婦か分からないと綾子の機嫌も悪くなる。そんな夫婦の微妙な行き違いの中でも、綾子はまた妊娠した。
浩司34、綾子30の年である。夫婦共に子供は熱望していた。
綾子も専業主婦となり、元気な赤ん坊が生まれる為には如何なる努力も惜しまなかった。母親学級にも綾子は欠かさず参加し、家に帰ってからは浩司に、母親学級で分からない事を雨の様に質問をして浩司を悩ませた。その為に彼は産科の参考書を隅から隅まで読み漁った。そんな甲斐もあって産まれて来た赤ん坊は2900gの可愛い女の子だった。浩司の喜びようはない。産院には毎日顔を出し、そこから出勤して行く様な有り様だ。
手と言わず、足から顔まで舐め回していた。
「綾子、ありがとう。俺とお前の子供だ。可愛いな、本当になんて可愛いんだろう」
「浩ちゃんが、ここまで喜ぶとは思わなかったわ。それにしても仕事に行く時間でしょう」
綾子に急かされ、渋々大学に出かけて行く様子だ。
7日目には赤ん坊を連れての帰宅になった。綾子の母親と兄も連日の様にやって来た。浩司の両親も来た。どの顔も笑みをたたえている。3人の祖父母たちにとっては初孫だ。芝居見物の初舞台の様な浮かれ方だ。
「目元は浩司に似ている」とか、「口元は綾子にそっくりだ」とか…
赤ん坊のちょっとした身体の部分にこだわって、大人達は大喜びである。
そんな周囲の人達に支えられ綾子は幸せだった。やっと浩司の赤ん坊を満足に産み出す事が出来た満足感は、綾子だけが強烈に味わっていた。産みの苦しみと不安は、当事者以外の誰にも分からないのだ。まして最初の赤ん坊は一度として綾子の乳房にすがる事もなく、その小さな命は消え去っている。一度は女としての自分を失いかけた綾子だが、改めて自信を取り戻しつつあった。
次回に続く
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