想い出は風の彼方に(100)

赤ん坊が生まれてから浩司も、以前よりは少し早く帰る様になって来た。赤ん坊の入浴にも積極的だった。時にはオムツ交換さえした。大学での仕事も少し楽になっていた。後輩の医師が多くなり、雑用に近い仕事は彼等に任せた。ただ博士論文の準備にかかる時期が迫ってはいた。それでも論文の準備は時間に追われる仕事ではなく、自分なりの時間調整が容易であった。バイトの数も少し減らし、出来る限り綾子と過ごす時間を取る様に努めた。日常的に帰りは8時前後で、以前の様に10時過ぎになる事は殆どなかった。
浩司は家に帰り、先ずは赤ん坊の入浴を行うのが常であった。そして綾子との夕食、食後の後片付けは浩司が積極的に手伝った。
その後10時半から2時間近くは、論文作成の為に大学図書館から借り出して来た文献を読み漁っていた。論文の主要テーマは二つあって、未だ決めかねていた。一つは放射線障害と白血病の発生頻度、もう一つは白血病の病状変化と糖蛋白の動向であった。前者は自分の中の小さな疑問から始まった。広島、長崎の原爆投下により、同地域での白血病発生頻度は著しく高まったが、その5年後からは逆に日本の他地域に比べ、その発生頻度は極端に少ない。血液内科の医学雑誌に載っていた文献の一部であったが、疑問符だけが書かれていて詳細な報告はなかった。一年程は、この放射線障害の問題を調べていたが、因果関係を特定するのが困難で直ぐに挫折してしまった。
次の糖蛋白の動向は、沢近からヒントを得たものである。
浩司が大学に戻った頃は、多くの白血病患者が押し寄せる様に入院して来た。週に数名以上は新しい患者が見つかった。大学にいると、日本中には白血病患者だけがいるのではないかと錯覚する程だった。そんな患者の全てから採血により糖蛋白の動向を調べて行った。
急性骨髄性白血病と慢性骨髄性白血病の急性増悪では、有意な相関関係が出て来た。1年以上をかけて106名の検体が集められた。沢近の協力による所が大きい。
ともかく沢近の白血病患者への拘(こだわ)りは、徹底していた。群馬の町立病院で白血病の疑いがある患者さんが見つかったと聞かされると土日に関係なく、彼は直ぐに出かけ骨髄穿刺を行ない、町立病院の小さな検査室で自ら血液標本を作り、その場で診断を付け大学に転院させてしまうのだ。沢近は決して強要はしなかったが、浩司も2度に1度ぐらいは彼に伴われて千葉や埼玉などに出かけた。
沢近には多大な恩義を感じていたばかりか、精神的にも崇拝していたので、時間があると浩司は彼に従い、血液学の多くを学んだ。
ある日の夕方、沢近が医局に興奮した足取りで入って来た。彼は何時になく饒舌だった。
「篠木、今15才の女子高校生が緊急外来に来たんだ。たまたま俺が通りかかって顔を出したら、生理の出血が止まらないとの訴えだ。当直医の吉田が『それなら婦人科に行って欲しい』と、婦人科に回そうとしたんだ。何か俺の中で引っかかるものがあったんだろうな。吉田には俺が診ると言って、その女の子の診察を始めたんだ。すると、右上腕に出血班が認められたので、『この出血班はどうしたのですか?』って聞いたのよ。すると付いて来た父親が、今日の午前中に近くのクリニックで採血した跡だと言うのさ」
次回に続く
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