想い出は風の彼方に(101)

日頃の冷静沈着な沢近に似合わず、気持ちが高揚している様だ。
「すると彼女が、父親の言葉とは裏腹に『採血したのは左手です』と言うのだ。それで俺は何食わぬ顔で彼女の胸部を聴診しながら、上半身を仔細に見回した。前後の胸部には数ヶ所に出血班が見られたのさ。思わず、ドキッとしたよ。直ぐに耳朶採血で白血球数だけをカウントさせてもらったんだ。そしたら篠木、白血球数は幾つあったと思う?…30万以上だ!」
「30万ですか!」
浩司も誘い込まれる様に唸った。
1万以上でも多いのだ。30万なんて数字は常識の範囲を桁違いに超えている。
「篠木、そこで頼みがあるんだ。何処かに空いている病室がないか直ぐに探し来て欲しいんだ。内科の病室が無ければ、婦人科でも外科でも何でも良いから、ともかく看護婦を口説き落としてくれ。俺はその間に血液標本を作るから」
「分かりました。直ぐ探しに行って来ます」
時間は6時を過ぎている。準夜帯の時間だ。電話で空室状況を確認しても看護婦がまともに答えてくれるはずはなかった。内科病棟ならともかく、外科や婦人科となると事はもっと容易ではない。まるで治外法権の世界に足を踏み入れる様だ。大先輩の沢近の頼みだから、断る訳には行かない。何としてもベッドを確保しなければと浩司の気持ちは焦る。南11階が血液内科の病棟だが、そこはすでに沢近が空きベッドの状況を確認していた。個室から二人部屋、大部屋と全ては満室だった。内科病棟は1病棟当たり45~50名で、5つあった。9、10階と病室の空き状況を自分の目で見て調べる。10階の消化器専門の病室が1つ空いていた。早速、看護勤務室に出向き入院の依頼をするが、にべもなく断られた。
「そこは明後日に大腸ファイバーで検査入院の患者さんが入る予定ですから、空室では無いです」
との言い草だ。
「明日には南11階で退院が一人出るから1日だけで良いから貸してくれないか…」
と浩司は食い下がったが、まるで相手にされない。
「そんな事は私たちの一存では決められません」
との、反発だ。浩司は少し気色ばんで…
「じゃあ誰に相談したら良いんだ?」
と、自分より5つ以上は若い看護婦に詰め寄った。
「夜勤婦長にでも聞いて下さい」
そう言うなり、その看護婦は浩司の前から遠ざかった。仕方なく他の病棟を回ってみるが、何処もベッドは空いているが看護婦に拒否され、浩司は途方に暮れるばかりだった。大学では、この当時この隠れ空室が問題になっていた。大学病院での経常利益の悪化は、この隠れ空室が原因の一つであると全科の医局長会議でも度々取り上げられるが解決の糸口が見えて来ない。看護部長が賛同しないからだ。大学の看護部長は650名からいる看護婦の頂点に立って、全ての看護婦に対する人事権を掌握している。1講座30~40名程のスタッフしか抱えていない内科や外科の教授なんかでは及びもつかない支配的な権力を有しているのだ。
対等に渡り合えるのは、病院長か副院長ぐらいだろう。
次回に続く
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