想い出は風の彼方に(102)

浩司は情け無い思いで、沢近に病室の確保が出来ない事情を打ち明けた。彼は自信あり気に、
「篠木の様に、ただ真っ正面から突き当たっては看護婦の反感を買うだけだろう。ところで10階の消化器病棟のナースは何て名前だ?」
「え~と、確か安岡だったと思いますが」
「安岡か、それなら大丈夫だ。俺が口説き落としてみるさ」
そう言うなり沢近は、消化器病棟に電話をして安岡と少し話しをしただけで緊急入院の承諾を取り付けた。浩司から見ると、それは手品の様であった。
「先生は、どうして直ぐにOKさせられたのですか?」
と聞かずにいられなかったが、彼はそれに答えず
「篠木、あの患者さんはAPL(急性前骨髄性白血病)だ。悪いけど、お前も今晩は帰れないから家に電話をしておけ」
と言うや否や、彼は入院指示と病状説明の為に患者の父親の元に消え去った。APLには高頻度で重篤なDIC (播種性血管内凝固症候群)の合併が見られる。この女子高校生の場合は、そのDICによる出血傾向があまりに顕著だった。この当時の基本的な治療方針である凍結血漿とヘパリンの併用投与で沢近は、何とか彼女の出血傾向を抑制すべく懸命の努力を重ねたが、白血球数30万と云うマグマの様に押し寄せる白血病細胞を前にしては、さすがの沢近にも抗すべき手段を持ち得なかった。入院後8時間以上も、この病魔と悪戦苦闘を繰り広げていたが、彼女の全身性の出血、性器出血、歯肉出血、鼻出血の凄まじさは、まるで洪水の様だった。ベッドシーツは真っ赤に染まり、シーツの端からはポタポタと血が滴り落ちていた。沢近は狂った様に輸血を繰り返し、その総量は1600mlに及んだが全ては意味をなさなかった。入院翌日の午前6時17分に彼女は出血多量による死亡が確認された。その日、彼女は16才の誕生日を迎える所であった。浩司は沢近の脇で、彼が次から次へと出す治療指示を伝票に起こしカルテ記載にと全神経を集中させていた。浩司の思考は停止し、沢近の指示を機械的に処理していただけである。浩司が今までに経験した事もない白血病の急性増悪の激しさに、彼の思考回路は機能麻痺に陥っていた。
死亡確認の現場には、夜勤看護婦2人と沢近そして浩司が立ち竦んでいた。そこは正に戦場だった。病室全体がまるで血の海であった。外では高校生の父親が何かに祈る様に病室のドアを見つめていた。
しばらくして看護婦たちは亡くなった、うら若き乙女の身体を綺麗に洗い清め出した。その間に沢近は彼女の父親に病状説明を、ゆっくりと丁寧に始めた。浩司は、その後ろで黙って立っていた。
父親は想像を超える事態の変化に言葉もなく、空虚な礼を述べていた。
「私の様な素人には何が何だか分かりませんが、名のある大学で、先生方に一晩中の治療をして頂いて駄目だったんですから諦めるしかございません」
そう言って、父親は娘の亡き骸にすがった。
「千賀子…!」
一声だけ、父親は押し殺した様にうめいた。
次回に続く
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