想い出は風の彼方に(104)

36才の年、浩司はやっと医学博士の学位を取得した。ここからが大きな別れ道となる。開業するか、大学に残って研究者の道を歩むかの分岐点だ。同僚の何人かはすでに開業の道へと進んでいた者もいたし、中には公立病院の医長などのポストを手にしている者もいた。浩司も自分の将来設計を決断する時期が迫っている様な焦りを少し感じていた。その頃、浩司が尊敬している沢近も実家の福島で開業する準備に入っていた。そんな事情もあって浩司は大学に残る気持ちが日々薄れていた。しかし、彼は未だ確たる道が見出せずにいた。
そんな折、3年先輩の井沢から小金井に倒産しかかっている病院があるから、そこで一念発起して浩司に建て直しを計ってもらえないかとの相談が持ち込まれた。ベッド数が115床の老人病院であった。 
余りに唐突な話なので、浩司は面食らってどう答えたら良いか分からずにいた。
「ともかく、そこの病院長が脳出血で急死してしまったのよ。俺は3年前からバイトに行っていたから、そんな繋がりもあって夜勤当直も含め医者の遣り繰りが全部俺の肩にかかって来ているんだ。その遣り繰りで一ヶ月前から俺はノイローゼ気味になっているのさ。篠木、何とか力になってくれないか?」
そう懇願されても、即答出来る話ではなかった。しかし、以前から井沢はかなり効率の良いバイトを浩司に幾度となく紹介してくれたので、無下に断る事も出来かねた。それに浩司自身が隠れた山っ気の様なものを持っていた。彼は気付いていなかったが、父親譲りの商人の血が流れていたのかもしれない。彼の父親は…
「商いと云うものは金が先じゃあない。如何に良い商品をお客様に提供できるかが問題だ。良い商品が作れれば、金なぞ後から幾らでも付いて来る」
と言うのが、口癖だった。そんな父親の教訓を浩司は小さい時から刷り込まれていたので、それは商いだけではなく、全ての事業に通じるものだろうと云う信念になっていた。
さらに井沢は浩司に迫って来た。
「ともかく篠木、バイトだけでも引き受けてくれないか。常勤医は副院長1人しかいなくて、てんてこ舞いなんだ。その副院長も70才で、体力的に一人で何もかも熟(こな)すと云うのは限界に来ている」
そこまで言われて、浩司も多少の協力はしない訳にはいかなくなった。
「分かりました、バイトぐらいなら行かせてもらいます」
「そうか、助かるよ。夜勤当直と平日も1日ぐらいなら可能かな?」
「平日の1日ですか、少し厳しいですね。半日ぐらいなら無理してスケジュール調整も出来ますが…」
「じゃあそれで良いよ。バイト代は篠木が今行っている所よりは多く出させるから、しばらく様子を見て可能だったら、全てのバイトを小金井の病院だけに絞って欲しいんだ。もちろん、今すぐとは言わないが…何とか頼む!」
「先ずは夜勤当直を週に一回と、平日の半日だけで許して下さい」
浩司は取り敢えず、当面の妥協案を出して井沢を説得した。
次回に続く
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