想い出は風の彼方に(106)

こうして浩司は37才の春から小金井にある「さくら町病院」の常勤医になった。午前中の外来は副院長が担当だったが、浩司が全面的に診察する事にした。副院長の外来は先細りで1日に5~6名も来れば良い方だった。病院の表玄関は外来にあると浩司は確信していたので、何としても外来患者を増やしたかった。井沢の世話で消化器と心エコーを担当してくれるパート医は紹介してもらった。これで外来体制は何とか整った。浩司の専門は血液内科であったが、市民病院で2年半も一般内科として多彩な患者を熟(こな)していたので、総合内科としての自信もあった。外来患者数も10名から20名へと半年程で増えて来た。入院患者も50名は浩司が一人で受け持った。多くは慢性疾患だったので毎日の回診は不要であった。これは市民病院の結核病棟で得た回診方法である。市民病院では15名の一般患者と30名の結核患者を担当させられたが、毎日の診察を要する一般患者に比べ、30名の結核患者は週に一回の回診で済んだ。もちろん結核病棟でも急変する患者が出る事もあったが、基本的には定期の診察だけで事は足りた。
医師の問題もさる事ながら、看護婦不足は緊急の課題だった。115床のベッドが60床しか稼働出来ないのでは赤字経営からは逃れられない。事務課長の木村に浩司は秋田、青森、九州方面の高校、看護学校を回って顔つなぎをする様に指示した。自分でも大学を中心に知り合いの看護婦に片っ端から電話をかけたり、食事に誘い出したりして常勤になる様にと口説き落とす事に専念した。先輩の井沢はパート医師だけは何とか手配してくれたが看護婦の支援までには手が回らなかった。浩司の誘いかけで3ヶ月の間に大学から2人、かつての市中病院から1人、それ以外のバイト先から2人と計5人の看護婦を確保した。さらに新聞の折り込み広告から3人の応募があった。
これでベッド数は何とか100床まで稼働出来た。
こうして浩司が、さくら町病院の常勤医となって一年が経った。病院長のポジションを何時までも空席にはしておけないので、仕方なく浩司が病院長になった。本来は副院長が院長職を務めるべきだが、彼は71才と云う高齢を理由に固辞した。副院長の月給が80万円で、浩司の院長職が110万円の契約だった。しかし、病院の累積赤字は5億円にもなっており浩司は60万円だけを辛うじて受け取った。債務超過の5億円は、前院長の弟である事務長が連帯保証人となって負っていた。
浩司が、さくら町病院の常勤医になって3年目ぐらいから病院の累積赤字は少しずつ減り始めた。
常勤医も二人増えたので、副院長には円満退職を願った。退職金は700万円で許してもらった。25年も務めてくれたが、それ以上は副院長に払う余裕がなかった。彼も経営責任の一端を感じていたらしく、その金額で納得した。
ベッド稼働率は110床前後でフル回転に近くなり、外来は午後も開け1日に100名前後にまで増えて来た。浩司も何とか週に1日は休日が取れる様になって来た。
ともかく何も考えなかった。ただ働いた。実働時間は1日に12時間以上だった。何の為にこんなに働いているのかも分からなかった。
それでも毎日の夢の中では大学病院時代の医局生活を思い出していた。出来るなら何時でも大学に戻りたいと、何処かで願っていたのだろう。
次回に続く
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