想い出は風の彼方に(108)

綾子には、まるで浩司の話が意味不明だった。無一文になって親子3人がどうやって生活出来ると言うのだ。夫の平然としている姿が奇妙にしか映らなかった。そんな綾子の視線に気づいた浩司は、ゆっくりと彼女に話して聞かせた。
「先ず僕は僕なりに老人医療の有り方を模索している」
浩司は俺と云う言い方から急に僕と言い出した。如何に妻と雖(いえど)も、対人間として話し出す場合には僕と云う言葉が適切であると感じたのだ。
「これまで幾つもの老人病院を見て回ったが、その実態は極めてお粗末だった。精神病院の多くが老人病院へと様変わりしているのだ。何故なら精神病院に比べ老人病院の方が経営効率が良いからだ。そして医療運営そのものが経営中心で、真に良心的な医療を行うと云う発想が余りに乏しい。
その良い例として精神分裂病の患者が亡くなっても家族は喜ぶ場合が多い。それと同じ様に、ボケ老人が亡くなっても家族は悲しんだりする事が少ないのだ。つまり、一般病院に比べ医療に対する緊張感が足りない様な気がしてならない。そんな多くの老人病院を見て僕は、真に良心的な医療とは何かを考え始めたのだ」
「良心的な医療って何…?」
「それは高齢であると云う理由だけで、医療の質を落としてはならない事が第一だ。そして人間性への尊厳を忘れない事が二番目だ。
不必要な延命治療は避けるべきだし、逆に如何に高齢とは言え、強く生きたいと願う人には精一杯の治療を行うと云う事かな…」
「ふ~ん、成る程ね。確かに、あなたの言う良心的な医療ってものは私にも分かるわ。でも私は女だから、その理想を追求する為に家族を犠牲にして無一文になる危険性のある話には賛成出来ないわ。ご免ね、無理解な妻で…」
「いや、良いんだ。綾子の言っている事は当然だよ。しかし、世の中には常に抜け道ってものがあるんだ。ただ子供の様に理想に向かって突き進むと云う訳ではないのだ。そこは自分の退路を確保して、家族の安全も十分に考えて人生設計を立て直して行くのが妻子を持った男のする事だろう」
「そこまで、あなたが仰るなら私はただ従うだけです。でもこれだけは忘れないでね。私のお腹にはあなたの二番目の赤ちゃんがいるって事を…」
浩司は一瞬言葉に詰まり、
「えっ、妊娠しているのか?…いつ分かったのだ」
「そうなの、数日前から体調が良くないので今朝になって産婦人科に行ってみたの。そしたらオメデタですって…」
「綾子、それはすごい。やっと俺たちも二人の子供に恵まれるんだな。それで余計に安全な道を歩いて行きたいと言うのか。それも又、子供を持つた女の主張としては当然過ぎる話だ。でも安心してくれ、俺は自分の理想の為に妻子を見捨てるなんて事は絶対にあり得ない。家計の破滅を回避しながら、ギリギリ自己の理想を追求して行けるか、あれこれ考え悩んでいるのだ」
綾子が妊娠したと聞かされ、浩司は何時の間にか自分を俺と言い始めた。彼の心も動揺していたのだろう。
次回に続く
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