想い出は風の彼方に(109)

浩司は綾子の腹部を愛おし気にさすりながら、話を続けた。
「確かに、この何億円と云う借入れは大きな賭けである事に違いない。けれど賭けと言っても成功する確率が90%以上ある。この数年間、病院経営のノウハウを学んで来たが日本の高齢者は増える一方だ。東京近郊の病院は何処も患者で溢れている。特に高齢者は入る病院が限られていて、あちらこちらの病院をたらい回しにされているのが現状だ。5億や6億の借金を返すのは、そんなに困難ではないだろう。事実この6年で6億円の借金を2億円にまで減らして来たんだ。自分なりに病院経営の実戦を積んで来たつもりでいる。このお腹の子供の為にも、綾子が考えている様な危険な橋は渡らないから心配するな」
「本当に大丈夫なのね。私は安心して自分と子供の事だけを考えていれば良いのね…万が一と云う事もないのね」
「そりゃ100%確実なんてものは世の中に存在しないだろう。存在するとすれば人間は何時か必ず死んでゆくものだと云う事ぐらいだ。人間だけではないけどね、生物全体に言える事だが…何か綾子と話していると、マタニティブルーの女性と果てしなき会話を続けている気分になってしまうな」
「そんな事はないわ。今だって十分に幸せだから、あなたの様に大きな望みを抱く事に不安を感じてしまうの。女の私は、あなたと違って基本的には保守的なものよ。今だって普通のサラリーマンの人の何倍もの給料を頂いているんだし…何の不足もないわ」
「もちろん病院の経営に成功したら、今以上の収入が得られる事は間違いないけど…だからと言ってお金が欲しいだけで病院経営に乗り出そうとしている訳でもない。これは自分の夢を実現したいと云う思いなんだよ」
「そうなんでしょうね。それなら私はあなたに付いて行くだけしかないわ」
「綾子、ありがとう。君と子供たちの為に精一杯に頑張る。そして自分の夢の実現の為に…」
しかし1990年、日本はバブルの頂点に差し掛かっていた。証券会社の営業マンなど40代で年収2千万円以上の人間が続出した。製薬会社などでも30代で年収1千万円以上が多かった。病院の建築費用も坪単価が60万円から70万円そして80万円と、その高騰ぶりは際限がなかった。当初予算は1200坪の建て替えで7億円ぐらいを見ていた。それが一年間の設計計画が立った頃には建築業者が出して来た見積もり額は10億円を超えていた。
浩司は思い余って、自分の父親に相談した。
「浩司、今は止めた方が良い。日本経済は完全にバブル化している。土地の値段も建築費用も狂乱物価だ。特に、この数年は異常だ。今は何も買ってはいけない、何も建て替えてはいけない。後4~5年もすれば土地の値段も暴落するだろう。それに伴い建築費用も間違いなく半減する。ともかく、ここは我慢時だ」
「じゃあ老朽化した病院建物の増改築はどうすれば良いんですか?」
「それを考えるのが病院長のお前の役目だろう」
彼の父親は冷たく突き放した。
次回に続く
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