想い出は風の彼方に(117)

建築コーディネーターは岡崎設計に頼み、病院側の総務係は事務課長の村上に任せ、病院リニューアルの計画がスタートした。週に一度は病院長、事務長、総婦長、病棟婦長が集まり設計上の意見交換がなされた。
限られた予算の範囲内ですべき事は、病院外壁の塗装、院内の壁紙交換、エアコンの交換、電動ベッドの導入、床材にはカーペットを敷設(ふせつ)し、更に建物の耐震対策などが最低限に必要な事と決定された。これらをゼネコンに丸投げすれば数億以上はかかるであろう。それを何とか1億5千万円以内で実行しようと云うのだから、総務の村上は大変な努力を強いられた。3ヶ月以上も脚を棒にして幾つもの工務店や素材メーカーを歩き回った。岡崎設計のコーディネーター料も1千万円を700万円に値切り、その分は村上が自分の脚で設計事務所に再三通って設計士の補助業務まで行なった。
ともかく全てを安く上げる為には自分の脚と汗しかないのだ。その意味で村上は孤軍奮闘した。
電動ベッドも定価25万円を11万5千円にまで値切り倒した。ベッド業者からは13万円以下では原価割れだと言って泣きが入った。
「それでは、今回はベッドの導入は諦めるしかない」
村上はそう言って、一度は業者を突き放し数ヶ月は何の連絡も取らなかった。結局は業者の方から譲歩して来た。
「いや、村上さんには敵わないや!…その代わりに、この値段で仕入れたって事は何処にも言わないで下さいよ。こんな値段で商売をしていたら会社が潰れてしまいますから…もう、全く」
そんな不満を言いながらも、妥協して来たのだ。全てにわたり村上は、こんな調子で業者泣かせをして徹底的に支出を抑え、目的のリニューアルを9500万円で達成した。これには浩司も事務長も驚いた。以前から浩司が欲しくて仕方がなかった全身用のCTも定価1億2千万円を、ただの2千万円まで値切り倒した。基本的にCTは半値が通り相場だと聞いていたので、村上は腰を据えて価格交渉に入った。3千万円が最後の攻防戦だったが、村上はこれさえも乗り越えた。これ以外にも多少の雑費は要したが全てを含めて1億2千万円で抑え込んだ。この間1年半を要し、1992年3月に病院は見違えるほど綺麗にリニューアルされた。しかし、日本経済はバブルが崩壊し始め、薬価差益は大幅に減少した。その為、この年は初めて病院の収支バランスが赤字に傾いた。ベッド稼働率は98%と年間を通して満床状態が続いているにもかかわらずだ。年間の薬価差益が1億5千万円あったものが、1千万円以下に急落し、浩司が病院長になって初めて2千万円の赤字決算となってしまった。これには、さすがに浩司も焦った。無制限だったリハビリも大幅に規制され、月間600万円程のリハビリ収入が100万円以下に削られた。バブル崩壊と共に医療費の大幅な削減が大蔵省と厚生省により実施され、日本国中の医療機関が悲鳴を上げ出した。綾子は生後1年半の幼児を抱えて、自分の不吉な予感が当たった事を危惧していた。
次回に続く
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