想い出は風の彼方に(119)

こうして浩司は、8億5千万円をかけて、本格的な改修工事をスタートさせた。子供は二人になっていたが、綾子も積極的な協力を惜しまなかった。設計に1年、工事に1年2ヶ月をかけ念願の新病院が完成した。浩司は53才になっていた。綾子は49才で子供たちも上の女の子が高校生で、下の男の子が小学生になっていた。
新しい門出を迎えようとしていた時、丁度借地権の更新時期が迫っていた。40年前に契約した当事者は、亡くなった前の病院長だった。その権利は当然の如く、相続の一環として前院長の息子の手に渡っていた。さくら町病院の理事長は浩司であったが、借地権は又貸しになっていたのだ。その息子は区役所に勤めているサラリーマンで、病院に顔を出す事も殆どなかったから病院スタッフと浩司は、すっかり彼の存在を忘れていた。
だからと言って、土地の権利問題をこのまま放置してはおけない。
浩司は10年以上も事の成り行きで病院長を務めていたので、土地の問題は初めから念頭になかった。毎月の地代は事務課長から事務長に昇進した村上が、水道光熱費を支払う感覚で処理していた。
どちらかと言うと、医者馬鹿に近い浩司は医療関係と離れた事務問題の対応には疎かった。
新病院はベッド数を115から150床に増やし、一般病棟が40床、療養型病棟が110床の体制で職員数もかなり多くなっていた。この組織を運営して行くには医者馬鹿の浩司には重荷で、綾子は外から見ていても不安になる事が多々あった。今回の土地問題にしても、8億5千万円の借入れを起こして新病院を建てたにもかかわらず、借地権の権利が棚上げになっていた事実に驚かさるばかりだ。
新事務長になった村上は、それなりの実績を上げてはいるものの、綾子の目には完全に運営管理させるには一抹の不安を残していた。
綾子は色々と悩んだ末に、浩司の父親に土地問題を相談した。80才になった父親は現役こそ引退していたが、知り合いの弁護士を紹介してくれた。彼女は夫のプライドを傷つけない様に、
「ねえ、あなた。この際、土地の権利問題は綺麗に整理しておいた方が良いわよ」
と、それとなく話した。
「そうだな、後にゴタゴタを残しておくのも面倒だから、誰か適切な人に相談して借地権と底地の両方を一つに纏(まと)め上げておくべきだろうな」
「私もそう思うわ…それでね、あなたにお断りしなかったんですが、お父様に相談して弁護士の先生を紹介してもらったの…」
そう言って、浩司の顔をチラリと見上げた。自分の独断専行が彼のプライドを傷つけないかと恐れたのだ。
「そうか、それは良かったな」
彼は屈託の無い笑顔を綾子に向けた。基本的に浩司は医療以外の問題には、あまり頭を突っ込みたくなかった様だ。これを機会に綾子はもう少し踏み込んでみた。
「ねえ、私も少し病院のお手伝いをしても良いかしら?…子供も大きくなったし、フルタイムとは行かないけど何かお役に立ちたいわ」
彼女は幾らか甘える様に頼んだ。
次回に続く
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