想い出は風の彼方に(124)

「すると今の医療保険制度が崩れ去ってしまうって仰るの?」
綾子は怪訝な面持ちで、浩司を見つめた。
「いや、5年や10年で今の保険制度が消え去ると云うのは考えにくいが、現実に自己負担額が年々増えているのだから、この状況が進行すると保険制度は何時の日か形骸化する危険はあるかもしれない」
「そうなると、日本の医療制度はどうなるのかしら?」
「まあ俺の勝手な推測だが、もしかすると自動車保険の様に、強制保険と任意保険の様なものが両立するかもしれない。つまり、最低限の肺炎や脳血管障害の急性期治療は強制保険の範疇でやるが、最先端の医療やリハビリ、人工透析など長期的に高額な医療費を要するものは各自の任意保険でやるとか云った制度に移行するかもしれないな…」
「そうなると、満足な任意保険に入れない人は癌などの治療は受けられないのかしら?」
「それは北欧などの医療制度が一つの参考になるかもしれない」
「それって、どんな制度なの?」
「年令制限を適応しているのだ。
例えば65才以上になると高額な医療費は全て個人負担に近い形で治療に当たってもらうのだ。もちろん心臓カテーテルやMRIなどは65才以上では保険適用にならない。高齢者は介護保険の範囲で対応して、医療行為はなるべく行わない制度だ。胃瘻や人工呼吸器などは65才以上で使用するなんて事は有り得ないのだよ」
「すると延命治療なんかは存在しないのね」
「その通りだろうね…」
「そうなると、高齢者を中心に診ている病院は全て倒産するって事なの」
「全てではないだろう、高額所得者の老人に特化した様な病院なら生き残れるんじゃあないかな…」
「それって貧富の差が、生命の値段にも関わって来る事になるんじゃない…!」
そう非難がましく、綾子が浩司を責めた。
「まあ、そう言う事になるだろな。しかし、我々の歴史上で身分差別がないとか経済格差がないった実情が存在した事があるのか?…現在では先進諸国だけが表面的に社会的な平等を、保っているかの様に見えるが、それだって怪しいものだ。19世紀までは、貧富の差が生命の重さに露骨に現れていたんだよ。例えばフランスなどでは平均所得以下の庶民の平均寿命は30才ぐらいまでが良い所だったが、貴族階級になると平均寿命は50才以上にまで上昇しているのだ。これは一般庶民の過酷な肉体労働と貧しい食生活が大きな原因であると言われているらしい。
それが第2次世界大戦後に、欧米諸国が専横していた植民地政策が次々と崩壊して、世界中で民主化の動きが活発になって経済格差も徐々に是正されて行ったんだ。だからと言って、現代社会で貧富の格差がまるで無いかと言えば、そんな事はないだろう」
「確かにそうね、特に先進諸国の雄と言われているアメリカでも貧富の格差は大きいものね」
そう言って、綾子も素直に頷いた。
次回に続く
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