哀しみの果てに(2)

何時もは家に帰って寝る所だったが、今朝は病院に出向いた。不思議に眠気はなかった。午前10時には病院に着いた。外来待合室は人で溢れていた。多くの人がマスクをしている。受付窓口にはマスクの束が置いてあって、
「マスクはエチケットです」
との標語があった。信吾は慌てて窓口に設置されているマスクを取り出し、自分も着用した。これで他の多くの人達と仲間入り出来た気分になって、病院内での違和感も薄れた。
一呼吸入れて信吾は、受付窓口の女性に、
「村木和夫の病室はどちらでしょうか」
と、尋ねた。窓口の女性は微かに笑みを浮かべて、
「村木和夫さんですか?…今調べて来ますから少々お待ち下さい」
そう答えて、すぐに戻りやや暗い面持ちで…
「村木和夫さんの病室は3階南なんですが、今朝からそこの病室は面会禁止になっているのです」
「どうしてですか?」
折角やって来たのにと云う不満気な顔で、信吾は尋ねた。受付の女性は申し訳なさそうに…
「あいにく3階南の病棟で今朝方、インフルエンザ患者が一人出てしまったのです。感染拡大を防止する目的で、その様な場合は3~4日間の面会禁止が院内ルールになっているのです。そう云った事情で本日の面会は許可出来ないのです」
「そうなんですか、それじゃあ仕方がないな。それでは手紙を書きますので、それを渡してもらえますか?」
「はい、お手紙を渡すだけなら差し支えないと思います」
信吾は、待合室の机に向かって数行の手紙を書いた。
「おじいちゃん、今日は病院の都合で面会出来なかったけど、また来るよ。早く元気になって!…信吾より」
バッグの中からメモ用紙を取り出し、それだけを走り書きにして受付の女性に手渡した。ともかく一度家に帰るしかなさそうだ。家に着くまでのバスの中では急激な眠りに襲われ、停留所を一つ乗り越してしまった。その分だけ寒空の下を余分に歩いた。粉雪が少し降って来て眠気は一気に覚めた。公団住宅の5階まで、信吾は一気に駆け上がって寒さを吹き飛ばした。築30年以上は経ている5階建ての公団はエレベーターがなかった。信吾の家の収入では、この2DKの家賃を支払うのが精一杯だった。
それでも15年前に、この公団住宅に入れた時は家族中が大喜びであった。家賃がそれまで住んでいた6畳二間のアパートの半分だったので、これで生活が幾分楽になると母は心から喜んでいた。それは信吾が小学1年の時だった。未だ身体の小さかった信吾には、この公団が十分に広い空間に映った。しかし、大人になった彼から見ると、そこは狭苦しく窮屈な空間でしかなかった。6畳の和室にベッドと机を置くと、もう足の踏み場もなかった。8畳の和室で父と母が寝起きしていた。4畳半のキッチンは食堂も兼ねていた。風呂場はユニットタイプで、浴槽で脚を伸ばす事は出来なかった。だから月に一度ぐらいは銭湯に出かけ、大きな湯船でゆっくりと身体を温めるのが一つの贅沢となっていた。
次回に続く
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