哀しみの果てに(3)

信吾は、公団の自分の部屋に入るや先ず浴槽にお湯を入れた。誰もいない部屋の中は寒々としていたので、ともかく身体を温めたかった。この家の暖房器具はキッチンのパネルヒーターと8畳間の炬燵そして信吾の部屋の電気スリッパだけであった。昨日は24時間以上も不眠不休で働いていた。日勤だけの予定だったが、仲間の一人がインフルエンザで突然の欠勤となり信吾が夜勤帯の仕事まで引き受ける結果となってしまった。
狭い浴槽でも身体を温める事は出来るし、頭も洗いたかった。出来れば、こんな日は銭湯に行って寛ぎたかったが、疲労感が全身を鉛の様に覆(おお)い自宅の浴槽に入るのが最後の気力だった。風呂から出ると、コンビニから払い下げてもらった賞味期限の切れたオニギリ3個を8畳間の炬燵の中で食べた。コップ一杯の水を飲むと、後は炬燵の中で倒れる様に寝てしまった。午後5時、買い物から帰った母親の気配で目覚めた。4時間以上は寝た様である。疲労感はかなり薄らいでいた。今日は夜勤帯の仕事が入っている。6時までには店に着いていなければならない。バスを利用しても30分以上はかかる。信吾は焦る気持ちを抑え
「母さん、カップ麺にお湯を入れておいて…」
と頼み、急ぎ顔を洗う。
「今夜も仕事かい、大変だね!」
母が心配気に声をかけて来た。
「うん、仲間の一人がインフルエンザにかかってしまったんだ。それに後3日で丁度3ヶ月になるんだ。3ヶ月間、無断欠勤と遅刻がないと時給が30円上がるんだ」
それだけを説明すると、信吾はカップ麺を飲み込む様に口に入れ家を出た。店には6時丁度に着いた。店長が顔を見せ、
「今日は休むかと思っていたよ。昨日は20時間以上の勤務だったしな…大丈夫か、無理すんなよ」
と、労わる様に信吾の肩を軽く叩いた。
「大丈夫です。未だ若いですから」
そう言って、信吾は少し照れ笑いをした。
「君のように責任感の強い人間ばかりだったら良いんだがな…」
そう言って、店長は信吾を激励した。
今日の相方は、彼より一つ年下の女子大生だった。大学の授業の合間に週3回ぐらいは店に出て来る。信吾とパートナーを組むのは今日で2度目だ。可憐な外見だが、異性としての意識は薄かった。自分が高卒であると云う微妙な劣等感があったのかもしれない。夜勤帯は日勤より時給が200円も高いので、フリーターの信吾には魅力的だった。未だ一つの定職について将来を考えるまでには、気持ちが固まっていなかった。21才と云う年令では将来の設計図を描き切れないのかもしれない。
それは父親の影響もあったのだろう。市役所の戸籍係と云う万年平社員に近い親を見ていて、将来に夢を持てと言うのが無理な話ではあったに違いない。50才を過ぎたばかりの父親に大人としての魅力は何も感じなかった。ただ定刻に出かけ、定刻に帰って来る。残業も無い代わりに、心ときめく様な話もない。それはまるで判を押した様な生活だった。
次回に続く
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