哀しみの果てに(4)

3ヶ月前から信吾が働き出した、今のコンビニは四つのシフト制が組まれている。先ずは早朝組みが朝6時から午後2時まで、日勤組みが朝11時から午後7時まで、準夜勤が午後6時から午前2時まで、深夜組が午前0時から8時までとなっている。準夜勤組の為には3畳の仮眠室が二つ用意されていた。準夜勤の連中が4~5時間の仮眠を取って学校に出かけて行く場合もあった。そこで働く理由は様々である。親からの仕送りが少なく、それを補う為という学生が一番多かったが、全く独力で生活費を稼いでいる者もいた。信吾の様なフリーターで、ともかく何かしらの生活費が必要な人間もいた。しかし、この職場では誰も他人の生活に口を挟む者はいない。
それにしても昨日の勤務は異常であった。日勤から仕事に入った信吾は、午後7時過ぎには帰る予定でいた。しかし、インフルエンザの流行で仕事仲間からは相次いで「欠勤」の電話が入り、信吾は準夜、深夜と3コマも働く状況に追い込まれた。これまでにも2コマの経験はあったが、さすがに3コマはなかった。もっともパチンコ屋で開店から閉店まで、飲み食いもせずに10時間以上もパチンコ台
を睨み続けていた事は幾度もあった。いずれにしろ、このコンビニと云うバイトは信吾の性格に合っていた。自分なりのフリーな時間が多く取れるのが気に入っていた。父親の様に定刻通りの勤務を、何が楽しいのか30年以上も続けている神経は理解が出来かねた。
数日後、病院での面会制限が解除になったと父親から聞かされ、信吾は祖父の見舞いに出かけた。79才になる祖父は3年ぐらい前から認知症状が出始め、老人ホームに入居していた。祖父が入院している3階南病棟は40床あったが、患者の多くは高齢者であった。祖父の病室は4人部屋の廊下側で、酸素マスクを付け点滴をしている姿は、今にも儚(はかな)く消え入りそうな感じに見えた。そっとベッドの脇に立ち、耳元で囁(ささや)く様に…
「おじいちゃん、おじいちゃん!…信吾だよ、分かるかい?」
と声をかけたが、返事はなかった。手を握ってみる。少し目を開け、信吾の顔を見るが他人の眼差しでしかない。じわっと寂しさが信吾の胸の奥に拡がった。このまま永遠に自分の事が分からず祖父の命が途絶えてしまうのかと考えだすと、人の一生とは何なのか切なさだけが信吾の心を通り過ぎて行く思いだった。一人孫の信吾を祖父は、正に舐めまわす様に溺愛してくれた。幼稚園時代は、何時も祖父と一緒だった。横浜の旧家に育った祖父は戦後に落ちぶれて、堂々たる家屋敷からアパート暮らしにと転落して行った。その旧い家屋敷で信吾は5才まで祖父の元で育てられていた。人の良い祖父は友人の連帯保証人となって、全ての財産を失ってしまった。その友人は冬の横浜港に飛び込んでしまった。「小豆相場」で一山当てた、その友人は千葉に3万坪の土地を購入して霊園墓地の事業に手を出したが、何億もの負債を抱えて事業計画は頓挫した。景気の良い彼の口車に乗って、祖父は親から譲り受けた300坪以上の家屋敷を手放すはめになってしまった。
次回に続く
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