哀しみの果てに(6)

しかし、まだ幼児だった信吾には祖父の華やかな時代の記憶は微かにしか残っていなかった。幼稚園の後半からは、安アパート暮らしを経て今の公団住宅に両親と住む様になっていたので、年月の長さも手伝ってかつての祖父の豪邸は記憶の彼方に過ぎ去っていた。
63才から祖父はアパートで一人暮らしとなってしまったが、祖母が残しておいた3千万円の定期預金が偶然にも祖母の死後一年以上たって、押入れの片隅に忘れられていた行李箪笥(こうりたんす)の中から見つかった。それは債権者の手からも、税務署の目からも逃れる事が出来た。それを銀行から引き出すのは困難を極めたが、知り合いの弁護士の協力で半年かかって何とか祖父の手中に収める事が出来た。正に地獄に仏の様なお金だった。現実に年金だけの生活は、如何に一人だけのアパート暮らしと雖(いえど)も大変だったのである。時々はデパート駐車場の係員などのバイトも続け、月に5~6万円程度の収入を得なければ、どうにも生活費は足りなかった。
しかし、3千万円の定期預金が手に入ってからは、そんなバイトも辞めて呑気な生活が始まった。そして信吾にも時々は小遣いをくれる様になった。
「誰にも言うなよ。お前のお父さんやお母さんにもだ」
と言うのが、祖父の口癖になっていた。悠々自適の生活から、極貧の暮らしを経験して祖父は人が変わった様に猜疑心が強くなっていた。それでも孫だけには、良い所を見せたかった様だ。年金の他に3千万円の中から年に100万円前後の金を引き出して生活費に充当していたので、生活は一気に楽になって来た。その3千万円も銀行や郵便局に預ける事無く、全くの箪笥預金だった。その頃の祖父に信じられる物といえば現金の札束しかなかった。それでも一人孫の信吾には、よく小遣いをくれた。それが血を分けた孫への一つの生き甲斐の様であった。銀行から何とか取り戻した3千万円はアパートの押入れに現金で隠し持ち、その中から必要な生活費に毎月10万円近くを充てていた。今や銀行も郵便局も全く信用出来なかったのだ。この3千万円は正に彼の命綱だったのでる。年に100万円を使ったとしても30年は暮らせる金額であった。60代半ばの祖父には十分な生活費に思われた。市役所勤めの息子夫婦には一円のお金も渡す気持ちはなかった。元々が坊ちゃん育ちの祖父だから独善的で、自分一人の生活しか考えていなかった。70才ぐらいからはパチンコに興味を持ち出して、祖母から譲り受けた3千万円も加速度的に減って行った。そのパチンコも3年ほどで興味とお金を失い、今度は魚釣りに趣味が移ったりしていた。そして75才ぐらいからは釣り糸に餌を付けず悠々と釣りをしている姿が他人の目には奇妙に映り出して来た。そんな生活が半年程続いている間の、ある雨の日に合羽も着ず平気で釣りをしている祖父の姿が多くの人の噂になり始めた。そして、ある秋の日に高熱の老人が海沿いで倒れていて近くの病院に運ばれたとの報告が警察から持たらされた。信吾の父は、急ぎ指示された病院に駆けつけた。
次回に続く
関連記事

コメント