哀しみの果てに(9)

祖父の退院の日には母も信吾と一緒に病院まで来た。パートの仕事はあったが、さすがに信吾一人だけに任せておくと云うのも心苦しかったのであろう。病院から祖父のアパートまでは、タクシーで15分ぐらいであった。タクシー代は母が黙って支払った。
そこから祖父を2階の部屋まで運び入れるのが大変だった。エレベーターは無く、手すりだけの安アパートである。それでも信吾の家の5階建ての公団住宅よりは遥かにましと言えた。
母が前から引っ張り、信吾が後ろから祖父を押し上げた。わずか9日間の入院であったが、祖父の足腰はかなり弱っていた。冬の寒さにもかかわらず、3人は汗だくだった。部屋の中は汚れ放題だった。6畳と4畳半の二間に小さなキッチンはカップ麺の食べ残しや、腐ったコンビニの寿司、賞味期限の切れたトンカツ、欠けた茶碗、変色した雑巾やタオル、垂れ流した日本酒、トイレットペーパーやティッシュが行き場を失ったかのような散らかり方だ。祖父の部屋を開けた途端に臭気か飛び散って来る。母子は共にハンカチで顔を覆ったが、その臭気で吐き気に襲われた。しかし祖父は平気で立っていた。ともかくキッチンから椅子を持ち出し、祖父を毛布に包み玄関脇で待たせて置いた。そこから2時間以上も、母の悪戦苦闘が始まった。全ての窓を開け放ち、先ずはゴミの破棄からスタートさせた。片付けると云うよりは捨て去る仕事が優先だった。昼も1時を過ぎ祖父は盛んに空腹感を訴えたが、このゴミ捨て場の様な場所では何処にも飲み食いする場所など見つからない。ともかく何とか片付いたのは午後2時だった。母の靴下もエプロンも真っ黒になっていた。
部屋の後片付けが一段落したした所で、祖父を6畳の炬燵の前に座らせ、信吾は急ぎ 近くのコンビニに走り食べる物を買って来た。おにぎり4個、パン3個、漬け物合わせ、おでんと思いつくままに買い漁った。もっともバイト先で貰った、僅かばかりの金だっので信吾のポケットには大した金もなかったが…。それでも祖父は喜んで、よく食べていた。
この、食欲の旺盛さを見ていると元気になった証拠だと思えた。それでも、早食いの習性が気になる。誤嚥でも起こしたら、また病院に舞い戻りになってしまうだろう。
「おじいちゃん、もっとゆっくり噛んで食べなよ」
「何を言っている。昔の軍隊じゃあな、早飯、早グソは芸の内と言われたもんだ。男は何だって、テキパキやるもんだ」
「そりゃ働き盛りの内はそれで良いかもしれないけど…」
と、信吾も少しやり返した。
「何だと信吾、お前は俺が役立たずのボケ老人だとでも言うのか?」
「そんな事は言っていないよ。ただ身体の為には、ゆっくり噛んで咀嚼(そしゃく)するのが良いって言っているだけだよ」
「そんな事はお前なんかに言われなくても分かってるわい。ただ俺を年寄り扱いする、お前のその態度が気に入らないだけだ」
「おじいちゃんが年寄りだなんて考えた事はないよ。ただ少しでも元気でいて欲しいと願っているだけなんだがな…」
次回に続く
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