哀しみの果てに(18)

信吾の頬に母親の平手打ちが飛んで来た。
「何て情けない子だ!」
真っ赤になった頬の痛さも忘れて信吾は母親に食ってかかった。
「俺の何が悪いって言うんだ!」
「22才にもなって、そんな事も分からないのかい。おじいちゃんの世話をするのと、小遣い銭を横盗りするのとは話が別だろう。お前の言っている事は、ただの屁理屈じゃあないか。大体こんな時間まで、おじいちゃんを一人にして置いてどうするつもりだい?」
「そんな事は俺の知った事じゃあないだろう」
信吾は完全に不貞腐れていた。父親が横から大声を出した。
「男だったら一度引き受けた仕事を途中で放り出すんじゃあない!」
「そうだよ、お父さんの言う通りだ。お母さんも一緒に行くから、これからおじいちゃんの所に謝りに行こう」
「嫌だ、俺は行きたくない」
「嫌なら、嫌でも良い。しかし、今日の所はケジメをつけて謝って来い!」
普段は滅多に怒った事のない父親が信吾を怒鳴りつけた。
「分かったよ、行けば良いんだろう」
そう言って、信吾は渋々と重い腰を上げた。7月になっても梅雨の鬱陶(うつとお)しい小雨は降り続いていた。母親とバスに乗って祖父のアパートに着いたのは、夜も8時を回っていた。階段を上って行くと、アパートの玄関前で傘も差さずに祖父は座り込んでいた。鍵を何処かに置き忘れたのか、祖父は家にも入れず座り込んでいたのだ。ズボンからは小便の入り混じった悪臭が漂っていた。
信吾は我を忘れ祖父の脇に走り寄った。
「おじいちゃん、ご免ね。大丈夫、僕が悪かった。ともかく家に入ろう」
祖父はグッタリしていて声も出なかった。今の今まで怒りに任せて信吾はすっかり忘れていたが、アパートの鍵は彼の小銭入れにあったのだ。信吾は激しい後悔に襲われた。自分は何と云う仕打ちをしてしまったのだ。これで祖父の身に何かあったら、自分はどんなに詫びても詫び足りない。一時の怒りに任せて、この半年以上の介護を全て無駄に終わらせてしまったかもしれない。信吾は祖父を急ぎ家の中に入れバスタオルで全身を拭きながら泣き叫んでいた。
「おじいちゃん、おじいちゃん!僕のおじいちゃん。こんな僕を許して…」
昼間の買い物は、玄関先で散らかっている。肉も果物も雨の中で朽ち果てとても食べられる状態ではない。母親が急ぎ近くのコンビニに行って肉入りウドンを作った。祖父の好物のはずだが、殆ど口にしない。汁だけ少し飲んだが、むせ込みが激しく食べられそうにはない。かなり息苦しそうだ。体温計を探すが何処にも見つからない。仕方なく、今度は信吾がコンビニに出かけ体温計を買って来た。早速、祖父の脇の下に入れて測ってみる。39.5℃もあった。また肺炎でも起こしたに違いない。急ぎ救急車を呼び、近くの総合病院に搬送してもらう。信吾は自責の念で一杯だったが、祖父の秘密の小箱から20万円を取りだして救急車に同乗した。母親の財布には1万円も入っておらず、入院させるにも当面の持ち金がなかった。
次回に続く
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