哀しみの果てに(26)

信吾はかつて経験した祖父との半年間に及ぶ介護生活が忘れられなかった。そこには介護と云う立場を超えた肉親の情愛があった。介護に関する知識は現在の方が遥かに高いが、人間としての深い繋がりがあった。それ故にこそ祖父の認知機能は、あんなにも向上したに違いない。
しかし、今の職場ではお年寄りのお世話が中心で認知機能を上げようと云う意識が殆ど無い。週に半日だけ往診に来る医師も、高血圧や糖尿病等の内科的な疾患をチェックするだけで、認知症の問題には関心が薄い。また月に一二度やって来る精神科医も、不眠症や暴言妄想の強い入居者に精神安定剤を処方するだけだ。老人の不安症状や妄想に対して納得の行く解決策を正面から取り組んで行こうとする人間は、医師や看護師を含め今の施設では誰もいない。
そして常に問題となっているのは夜勤帯の時間だ。常勤の看護師は昼間しかおらず、数名の介護士だけで入居者の体調の良し悪しをオンコール体制の看護師に連絡をして、その指示を仰ぐのが常となっている。医学知識の乏しい介護士だけでは、不安な夜を過ごす事も多い。夜中に高熱を出す年寄りがいると、慌てふためいてしまう。オンコールの看護師に電話で相談する。頭だけ冷やして様子を見る様にと指示されても、どこまで様子を見たら良いのか途方に暮れる事もある。
信吾が入職して1年目、午前1時に巡回すると、89才の男性が、
「う~ん、う~ん」
と、息苦しそうにしている。急ぎ熱を測ると、39°Cもある。オンコールの看護師に電話をするが、連絡がつかない。他の介護士と相談して、関連の病院に救急搬送した。当直の医師が出て来て、不機嫌そうに、
「この高熱は何時から出ているんだ?」
と、信吾に尋ねて来た。
「はい、先程巡回中に気づいたばかりです」
と、あるがままに答えた。すると医師は怒りを顔に表して…
「看護師はどうした?看護師は…」
介護士の信吾では、話にはならないと云った態度である。信吾は少しムッとしたが、顔には出さず…
「済みません、看護師と連絡がどうしても付かず不安に駆られて、ともかく診察をお願いにやって来ました」
と、額の汗を拭いながら言い訳をした。医師は仕方がないなと幾らか機嫌を直して診察を始めた。熱は39.5°C、血圧88/52、サチュレーション「*注*」SPO2が86%、医師は胸部の聴診を丁寧に行い信吾に向き直った。
「この患者さんは肺炎を起こしいるよ。昼間から何かの予兆があったはずだ。夕食は普通に食べていたのかね?」
「そう言えば、夕食は殆ど食べていないと聞いています。ただ食欲にムラのある方ですから…」
「そんな君の説明は不要だ。そんな事より、これからどうするの?
このまま入院させるのかい…」
「未だ、ご家族の方のご意向は聞いていませんので」
そんな信吾の発言に医師は再び機嫌を損ねた…
「君ね!そう云う事は前もってご家族に話しておくべきだよ。高熱で状態が良くないので、場合によっては入院になるかもしれませんと…」
次回に続く
*注「SPO2」血中酸素飽和度
パルスオキシメーターを使用して測定した動脈血酸素飽和度(近似値)を「SPO2」と呼びます。パルスオキシメーターで計るのは「動脈血酸素飽和度(と脈拍数)」です。動脈(心臓から全身に運ばれる血液)に含まれる酸素(O2)の飽和度(Saturation:サチュレーション)をパルスオキシメーター(pulse oximeter)を使って計っていますので、その測定値をSpO2(エスピーオーツー)と呼びます。
酸素の飽和度と言われても何のことかよく分からないかも知れませんが、この数値が90%以下になると(健康なら99%近く)肺炎や心不全を合併している疑いが強くなります。
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