断章(8)

(8)日々の思い
昭和の時代を考える(その1)
今年は昭和93年である。日本と云う国が第ニ次世界大戦に敗北して73年が経たという事である。視点を変えれば、広島、長崎に原爆を落とされて73年の年月が流れたと云う事にもなる。何故、いま昭和の時代を考えなければならないかと云うと、この昭和の時代の中で日本人の精神が如何に蝕まれて行ったかを再検討しなければならないとの思いに駆られたからである。
昭和元年は1926年12月25日、大正天皇崩御により同日「昭和元年」と年号が改まった。そして翌昭和2年3月に「昭和金融恐慌」が始まった。
この原因は日本経済が第一次世界大戦時の好況(大戦景気)から一転して1920年に戦後不況に陥って企業や銀行は不良債権を抱えた。また、1923年に発生した関東大震災の処理のための震災手形が膨大な不良債権と化していた。一方で、中小の銀行は折からの不況を受けて経営状態が悪化し、社会全般に金融不安が生じていた。1927年3月14日の衆議院予算委員会の中で片岡直温蔵相が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言したことをきっかけとして金融不安が表面化し、中小銀行を中心として取り付け騒ぎが発生した。一旦は収束するものの4月に*鈴木商店*が倒産し、その煽りを受けた台湾銀行が休業に追い込まれたことから金融不安が再燃した。
*鈴木商店*
鈴木商店(すずきしょうてん)は、かつて存在(登記上は現存)した日本の財閥、商社。樟脳、砂糖貿易商として世界的な拠点網を確立するとともに、製糖・製粉・製鋼・タバコ・ビールなどの事業を展開。さらに保険・海運・造船などの分野にも進出し、ロンドン・バルティック取引所で日本企業として2番目のメンバーとなった。
この金融不安に対して高橋是清蔵相は片面印刷の200円券を臨時に増刷して現金の供給に手を尽くし、銀行もこれを店頭に積み上げるなどして不安の解消に努め、金融不安は収まった。
1928年(昭和3年) 張作霖爆殺事件
これは関東軍の参謀であった河本大作が、張作霖が蒋介石の方に寝返ってしまうのではないかとの疑いから、張作霖が乗っていた列車を、奉天で張作霖もろとも爆破して殺してしまうという事件である。こうして日本は積極的に中国へと軍事介入して行くのだ。
1929年(昭和4年) 世界恐慌
世界恐慌 →ニューヨークでの株式大暴落がきっかけで世界中に金融恐慌が飛び散って行った。
1931年(昭和6年) 満州事変勃発
満州事変は、1931年9月18日に中華民国奉天郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件に端を発し、関東軍による満州全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争である。
1932年(昭和7年)(3月)満州国を建国→日本が国際的に孤立するきっかけとなる。
・五・一五事件
武装した海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。昭和の陰惨な歴史の始まりとなった。
1933年(昭和8年) 国際連盟脱退。
国際連盟創立以来の常任理事国として重きを占めてきた日本は,満州事変を契機にその地位が一転し,事件が中国によって連盟に提訴された結果,列国から,問責非難される立場に立たされた。国際連盟からはリットン調査団が派遣され,32年9月 22日その報告書が連盟事務局に付託された。同報告書は日本の主張を否認するもので日本はこれに反対したが,連盟総会は 33年2月 24日 42対1 (日本) ,棄権1 (タイ) で同報告書を採択した。これに対して,松岡洋右全権以下の日本代表団は総会から退場し,次いで同年3月 27日日本国政府は連盟事務局に脱退の通告を行うとともに,同日脱退の声明を発表した。以後日本の外交は国際社会から孤立し,ドイツ=イタリアとの枢軸結成へと直進していくことになった。
次回に続く
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